波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

『暮らしを犠牲にしてまで』

2018年04月14日 | 新聞感想

退職したばかりで『主夫』見習い中の波風立男氏。今日の『折々の言葉』(朝日新聞朝刊)に感じるものが。今読んでいる本(「日本の暮らしをかえた男 花森安治伝」)で、この言葉に至る育ちや仕事を知る。「贅沢は敵だ」のコピーは花森氏作、と言われるが、この言葉はその裏返し、そう思うと実に痛切な悔悟。

つの時代も、まず暮らしがあり、それを良くするのが政治。当たり前だが、野菜の値段も、ゴミの出し方も、洗濯物のたたみ方も、ママヨさんに教えてもらわなければ暮らしのイロハもわからない。それなのに、「世のため、人の為」と家庭完全無視だった。家事手伝いで無く、家事共同を足場に世を眺めると、前より地に足の着いた人間になった感じがする。土俵に女は上げられない慣習に、「女から生まれたくせに何偉そうに言ってるの!」(ママヨ談)が痛烈かつ耳に痛い。

近の立ち止まった『折々の言葉』から。教職を離れ「時間は幾らでも出来るわけだが、『閑』にはならない」、自由な空間が広がるからだ(4/10  河野与一)。「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」(4/11 サン=テグジュペリ)は、ママヨさんがえらく納得感心。立男君は、そうなんだろうなあ、ぐらいの感じ。



公式裏ブログ「波風食堂、準備中です」を再来月に「うどん、波風食堂」(案)へ変えるべく、食堂のロゴとマークを作りたい「浮世の画家」(カズオ・イシグロ)読み終え本棚に戻しに行ったら同じ本が…。同じ月に同じ本を‥‥。
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アニメ『ピアノの森』を観る。

2018年04月10日 | 読書


『ピアノの森』(月曜 AM0:10~)観る。テレビ欄ではドラマなのかアニメなのか、はたまたドキュメンタリーなのか不明のまま録画。新聞は深夜番組には不親切なのだ。3年前に26巻目で完結した漫画『ピアノの森』(一色まこと作:講談社)のアニメ版だった。得した感じ。ピアノを弾く指の動きが滑らかなのに驚き、落ち着いた色彩とテンポ良い画面運び(宣伝のないNHK)もあり、コミックとは次元の違う高い娯楽性を感じた。 
 
の漫画コミックを最新刊毎に読んでいたのは、主人公に少し似た顔つきの人、身近なその人に音楽が大きな意味を持ち始めた時期と重なるからだ。彼は『月光』を弾いてくれた。また、ピアノを扱った漫画『神童』(さそうあきら作:双葉社)がとても面白かったからだ。天才を借りて苦悩と喜びを描き、「ピアノの森」は「ドラゴンボール」に通じる達成感が圧倒的なドラマ性、「神童」は挫折を乗り越えるある種の普遍性だ。両者とも子どもの描き方が上手い。
 
HKのアニメを家族で観ていたなあ。70年代末の『未来少年コナン』から、『ふたつのスピカ』、『電脳コイル』、『団地ともお』 、『精霊の森人』、『獣の奏者 エリン』なんかを。漫画「ふたつのスピカ」は今も大事なコミック。
高い評価を受けた『この世界の片隅で』。漫画で唸り、アニメで唸り、公式ファンブック(「ありがとう うちを 見つけてくれて」)で唸り続け、「この世界は未だ大丈夫かもしれない」と思う波風氏。先週、高畑勲氏ご逝去の報。『火垂るの墓』は悲しすぎて再び観ることが出来ないのだが、実写では出来ないリアルな表現を開拓されたアニメ界の巨匠に合掌。


 
 画像は映画版『森のピアノ』から。そういえば、この映画のピアノ場面が話題になっていたなあ 『おらおらでいぐも』(若竹幸子著:河出書房新社)、ママヨさんが買ってくる。真摯な人生観を持つ作家らしい。
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天賦の才(続き)

2018年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム
森安治(1911~1978年)、伊丹十三(1933~1997年)の生きた時代を思う。戦中をくぐり抜け戦後に才能をきらめかせた両者。波風立男氏の40年先輩、20年先輩だが、こういう人物が世にいたのだ。時代を正確に理解し1人で立ち向かう抜群のセンス、個人の手業でも集団創造でも頭に湧いてくるイメージを形にできる卓越した技術、そうした仕事をすすめる上で他に伝え理解しあう圧倒的で魅力的な言語能力。アナログ時代の記憶に残る卓越した多才な表現者。

                
 
森安治享年66歳、伊丹十三64歳、あまりに早い死が残念だ。残された文章や評伝に触れ、才能開花の環境(家庭や生い立ち、学校生活に『表現』の機会)を思う。両者に強く引かれるのは、そのデザインが商業デザインにもかかわらず人間臭さを強く感じることだ。誰かに認められたい、というのではなく、「自分はこういうのを見たい」のだが、そういうのが無いから自分で作る、という感じがする。庶民に愛されながら媚びず高踏に陥らないのが希有だ。
今、デザインは各パーツ毎に専門化し、イラストは消耗品、ロゴデザインは類似品、レタリングはデジタルな規格品だ。そろそろ限界が来ていると感じるのだが。



画像は、時々は小刀を砥石で研ぎながら削った箸。上から、桜、ウォールナット、花梨。老後の手慰み ありがとう うちを 見つけてくれて『この世界の片隅に』公式ファンブック)(こうの史代他:双葉社)。買って読む。漫画家61名の感想にいちいち頷く竹輪にチーズ詰め燻煙し脱気封印しオヤツに。自家用「波風チクチー」と命名裏ブログ更新、「鰊の塩焼き」で。
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天賦の才

2018年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム
森安治は小学校の時から、伊丹十三は少し前から「気になるデザイナー」。前者は「暮しの手帖」の編集長、後者は「マルサの女」等の映画監として有名。両者とも、商業デザイン(イラスト、レタリング〔描き文字〕、広告コピー)でも有名。波風氏としてはこのデザイン面が気になるのだ。先々月、後者の明朝体をふと目にして感じるものがありエッセー2冊読む。今、「日本の暮らしをかえた男  花森安治伝」(津野海太郎著:新潮社)を読んでいる。
 
                         
 
森のイラストやレタリングは、上手過ぎず媚びず飽きない。ここらは伊丹十三の映画(全10本)やエッセーも共通だ。レタリングは両者とも基本を押さえた上で、前者は自由自在、後者は高い完成度のと自在なのがある。今はフォントデザイン(書体)をその筋の専門家が作ったのを買う時代だが、両者から手描き書体の面白さ温かさを感じる。「書体」は時代をなぞるデザインだ。

                         

れにしても、両者のマルチな才能に驚嘆する。先生について勉強したわけでもないようだ。いわゆる天賦の才なのか。高い完成度と独自性が快い。この多才が、雑誌出版や映画制作の組織者(マネージャー)の深さ豊かさに作用している感じだ。作品が世に必要な文化として没後数十年経つのに庶民に愛され続けていることが凄い。写真からでもオーラ漂うお二人、個性的だが話上手で高踏的でもキザでない感じ。但し絶対に偏屈だと思うなあ。(次回に続く)



画像は伊丹氏のレタリング。花森安治氏についてはこちらを → 「花森安治 特設サイト」。伊丹氏はこちらが詳しい → 「伊丹十三記念館」HP、「ほぼ日刊イトイ新聞(伊丹十三特集)2人の仕事と人生を紹介するこのサイト、とても気持ちが良いのは2人に通底するデザイン精神による仕掛けだねしばらく更新しなかったのに多くの訪問があり感謝。餃子とうどんと杏仁豆腐づくり、3膳の箸づくり、チーカマと木の実の燻煙、テレビの高校野球と日ハム戦、読書と昼寝等で忙しい毎日でした。
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