波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

持続するオオエケンザブロウ

2023年03月14日 | 読書

言葉も文体も異様に難しいが、時々はっとさせられ、イメージが身体に迫ってくる大江健三郎の小説。画像は、最初に手にした文庫本。裏表紙に「1970.1.5 富貴堂」と書いている。高校3年の冬、大学受験直前にこんなのを読んでいるから第一志望校に落ちるのは当然、だが「国語の先生も悪くないなあ」と思ったのはこの本との出会い。
吹雪(長い間、秋の雨宿りだと思っていた)で本屋に入り、バス代除き使えるお金がほとんど無いので一番薄い文庫本を買った。作家の名も、題名にある「奢り」の読み方も知らなかった。その時、まさか定価120円の縁で、大江健三郎を卒論にしたり国語教員になるとは思わなかった。

 

鯨の死滅する日、厳粛な綱渡り、核時代の創造力、持続する志・・・・この作家の言葉は読者の知と情と身体に強く響き続ける。詩を書かない詩人。
小説もエッセーも驚きの連続。小説は何ものにも囚われない、政治や性や人種、宗教や障害の中の人間を描けることを知る。小中高12年間の国語教科書には絶対に無い小説。虚構の小説と全く違う真摯で分かりやすいエッセー、平和希求の一貫した地道な行動に感銘を受けてきた。
20代後半から読まなくなり50代後半からまた読み始めた。この小説家の「まともさ」に再び触れたいと思ったからだ。エッセー『定義集』や小説『燃え上がる緑の樹』は高齢者として生きていく「物差し」を与えてくれた。


大江健三郎でなく「オオエケンザブロウ」としたのは、波風氏にとって普遍的な価値観を与えてくれる圧倒的に誠実な日本人だからだ。漢字では肉体が滅ぶと魂も消滅する感じする。そんなふうに思う小説家は今までいなかったし今後もいないだろう。一時代が終わったので無く、新しい時代の始まりとしてこの作家のご逝去(今月3日 享年88歳)に謹んで祈りたい。


本棚に、同じ装丁で並んでいたのが『芽むしり仔撃ち』。『死者の奢り』の江藤淳の解説にあった同書を続けて読んだのだろう。ふと考えてしまう題名の意味とともに映画を見ているような斬新な表現は今も驚き  茶色に日焼けした全ページ、変色した表紙カバー、半世紀以上前の文庫本。こういうのは捨てられないし捨ててはならない形ある記憶。この時に着ていたベージュの帽子付き中綿入りコートも思い出す。大きめのポケットに入れて雪に濡れないようにして家に帰ったんだろうなあ。

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続『老い』を考える

2023年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム


(前回からの続き)
夕陽を、人生の終わり頃に例えていることを書いた。
映画『プラン75』も、78歳の主人公が夕陽を見ながら歌うシーンで終わる。この映画ポスターがそうだ。笑いも涙も無く、只々暗いドラマだと思いながら見続けたが最後の最後に希望を感じたのは、国家的『姥捨て』に従事する若者のその制度への疑問と行動。それが夕陽のシーンとつながっていた。その先、主人公がどう生きていくのかわからないし、この映画の良し悪しも正直わからないが、今の時代が見ない考えないようにしている「老い」を、目の前に突きつけているのは確か。近未来のSFだが絵空事と思えないリアルさを感じるのは、貧しく役立たずの老人をはじき出しているのが事実だし、それは刻一刻と自分に迫ってくるのを何となく感じるからだ。元気そうな老人は少しの時間それに抗っているだけ、臥した老人は世間から置いていかれ、普通にしていてもそんな不安から絶対に逃れられない。あれ?こんな世の中にしたかったんだったかなあ俺?。

主人公(倍賞千恵子)が歌っているのが『リンゴの木の下で』。
♪林檎の木の下で
 明日また逢いましょう
 黄昏 赤い夕陽
 西に沈む頃に
 恋をささやきましょう
 真っ赤に燃える想い
 林檎の実のように
老いた友だちとカラオケで歌ったのと比べたどたどしさが消え、声は小さいが夕焼けを見ながら透明な声を響かせる。
この女優さん(実年齢81歳)、若い時の「さくらさん」も好きだけれど、この映画の凜とした存在感、自立している老人の佇まいも良いなあ。この映画でこの役、他の女優が浮かばない。

救いは、老人自らの「生きる」心と若者の「生かす」心のつながり。そうだよ、そういう世の中を求めているんだよ俺!。前に、江戸時代の働けなくなった老人はどうやって生きていたのでしょう?と聞いた時に、大学に勤めていた知人が「今よりも助け合って暮らしていたのでしょうねえ」と教えてくれた。お金があれば何でも手に入りそうな時代だからと言って、お金があれば老後も安泰、というのは少し違う気がする。人と人とのつながり無くして希望なんかあるはずが無い。夕焼けを眺められる「もしも」の時、自分のこと、そして家族や友人のこと、名前は忘れてしまったがどこかで一緒に生きた人たちのことを懐かしく嬉しく思えるような人生でありたいなあ。


老人を巧に追い込む『プラン75』画像。「生きるときは自分では選べないから死ぬときぐらいは自分で選べる・・・・あなたの最後をお手伝い」、まるで生命保険勧誘のコピーだが簡単に笑えない怖さが 甘いもの(小分けしたチョコレートの一包み)がとても美味い。好き勝手に食べていた頃に比べて。身体が喜び、脳が欲しがる。覚醒剤もこんなふうに虜になるんだろうなあ。ママヨさんが覚醒剤、いやチーズケーキ作った(涙)

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『老い』を考える 

2023年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

にあった「夕陽、無限に良し。只だ是れ、黄昏に近し。」という唐詩。同じような場面の同じような意味がカズオ・イシグロの小説『日の名残り』にあったのを思い出し最後近くを開いたら、こうあった。「人生を楽しまなくちゃあ、夕方が一番良い時間なんだ。脚を伸ばしてのんびりするのさ。」と、夕陽を前にこれまでの人生に涙している老いた主人公に語りかける見知らぬ老人の言葉。
話少し外れるが、小説のこの部分を読み返し記憶していたのと違うことを知った。最後がとても印象的なのでその前をぼんやり覚えていたというか、何かの拍子に違う記憶に変わってしまったのだろう。

 

黄昏は陽が落ちた時を言うから、人は亡くなる直前が最も美しく輝やく時間という意味だろう。平均年齢が60歳代の昔ならそうかもしれないが、親や習った先生の無残な黄昏前を目にしなくてはならない高齢化社会の今ではどうなんだろう。
ある哲学者が老人の『こだわり』として、幼児期の思い出や血筋、プライド、損得、所有を挙げている。「忘れていないこと」(=覚えていること)というより、過剰に執拗なこだわりが老人の特徴と。波風氏の母親(享年86歳)の晩年は確かにそうだ。(次回に続く)


頭の「本」は、『作家の老い方』(草思社) 黒沢映画の『生きる』をリメイクした『生きる   LIVING』の脚本をカズオ・イシグロが書き今月末に劇場公開される。『生きる』の主人公は黄昏直前で光芒を放った人間のドラマとして忘れられない歩いてバターとチーズと動物ビスケット(笑)買いに行く。その前、午後2時46分に黙祷。新聞1面片隅に政府広報でお知らせがあり、ママヨさんと「毎年、こんなお知らせが載っていたんだね」と話した。祈りの時、集中して1つのことを思い続けるという小説『燃え上がる緑の樹』(大江健三郎著)に出てくる言葉の意味を意識するようになった。神や宗教とはあえて関係を持たない祈りや魂の意味や意義。

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鉄瓶を描く

2023年03月09日 | 図工・調理

いわゆる南部鉄器の鉄瓶。ものを増やしたくないし、お金も使いたくないが、これは前から欲しかったしあって困らない子ども時代を思い出す生活用具。湯を沸かし、煎茶、時々抹茶、白湯を飲んでいる。正直、薬缶と鉄瓶の湯の違いは未だわからない。この先長く使い、湯を沸かす時を意識しつつ鉄分補給したい。昆布干しアルバイト代をこういう風に使うのも嬉しい。

くすみ色の色紙、6B鉛筆、木炭で。しばらく風景を描いていたが静物も面白いなあ。台所用品描くための準備体操のつもりで。

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困っている人に何ができる

2023年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

落ち込んだとき
人にどう接してもらいたいだろう。仕事や家族のことで悩むのは日常茶飯、時には命に関わる病気に罹ったり、周りから信用を失ってしまうことだってある。そんな失意の時。
職場の人間関係で自信がなくなりそうだった時にママヨさんから、「自分からは人を否定しない人に見えていますよ。誰にでも合わない人はいるから気にすることはない」と言ってもらえて安心できたと先日の読書会交流会でMSさん。「落ち込んだ時、ただ話を聞いてくれる人が側にいてくれるだけで嬉しい」とママヨさん。これは波風氏も同じ。老いるほど何か役に立ちそうなことを言いたくなったり、逆にどこかで読んだような偉そうなことは聞きたくなくなるものだ。

 

困っている知人
がいたら励ましたい、と思う波風氏。励ますと言っても、イラストを絵はがきにして「そばにいるよ。」を感じてもらうぐらいのこと。自分で決めているルールがある、「俺のやっていることは自己満足で無いか」を自問自答した上で決行する、「何かしてあげる」なんてことは考えない、相手からの返信は一切期待しない(送り返されないよう願うが)。それは、波風氏自身が失意にあった時、更にどん底に落とされる『励まし』を残酷な形で受けた体験から来ている。悪意につながるのなら、何もしない何も言わない方が良い。結局、困っている人を励ますとは、素の人間性がなせる技であり精神、その場限りの良い顔は迷惑至極。

 

困っている人に
寄り添う人を知っている。不登校の受け持ち生徒に週1回2年間自宅(往復だけで1時間弱)を訪ねてドア越しに声をかけていた先生。ある事情で家から出られなくなった友人に電話(友人は無言)をかけ続けている教え子。もっと知っているが誰も皆知られていない。さりげないのだ。売名や自己顕示の対極にあるそういう人は長く会わなくてもいつも温かく懐かしい記憶。こういうことを時々頭の隅から取り出して、「俺の知り合いに年齢に関係なくすごい人がいる」なんて思いを巡らせるのはとても幸せなことだ。


画像は『言葉を植えた人』(若松英輔著:亜紀書房)、言葉(意味の固まり)と言語(意味を表す形)、心(個々の人を規定)と魂(人間そのものの根底)の関係を知る良書。著者はTV『100分de名著』の読書解説で知ったブログ更新せず「言葉と芸術」などを考えていた。今日のブログ記事のことも  病気の人を励ます時のためらいは、自分が比較的に健康なこと。同病相憐れむは至言、「波風食堂再開するのでウドン食べにおいで下さい」の案内ハガキで出そうかな。

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