言葉も文体も異様に難しいが、時々はっとさせられ、イメージが身体に迫ってくる大江健三郎の小説。画像は、最初に手にした文庫本。裏表紙に「1970.1.5 富貴堂」と書いている。高校3年の冬、大学受験直前にこんなのを読んでいるから第一志望校に落ちるのは当然、だが「国語の先生も悪くないなあ」と思ったのはこの本との出会い。
吹雪(長い間、秋の雨宿りだと思っていた)で本屋に入り、バス代除き使えるお金がほとんど無いので一番薄い文庫本を買った。作家の名も、題名にある「奢り」の読み方も知らなかった。その時、まさか定価120円の縁で、大江健三郎を卒論にしたり国語教員になるとは思わなかった。
鯨の死滅する日、厳粛な綱渡り、核時代の創造力、持続する志・・・・この作家の言葉は読者の知と情と身体に強く響き続ける。詩を書かない詩人。
小説もエッセーも驚きの連続。小説は何ものにも囚われない、政治や性や人種、宗教や障害の中の人間を描けることを知る。小中高12年間の国語教科書には絶対に無い小説。虚構の小説と全く違う真摯で分かりやすいエッセー、平和希求の一貫した地道な行動に感銘を受けてきた。
20代後半から読まなくなり50代後半からまた読み始めた。この小説家の「まともさ」に再び触れたいと思ったからだ。エッセー『定義集』や小説『燃え上がる緑の樹』は高齢者として生きていく「物差し」を与えてくれた。
大江健三郎でなく「オオエケンザブロウ」としたのは、波風氏にとって普遍的な価値観を与えてくれる圧倒的に誠実な日本人だからだ。漢字では肉体が滅ぶと魂も消滅する感じする。そんなふうに思う小説家は今までいなかったし今後もいないだろう。一時代が終わったので無く、新しい時代の始まりとしてこの作家のご逝去(今月3日 享年88歳)に謹んで祈りたい。
本棚に、同じ装丁で並んでいたのが『芽むしり仔撃ち』。『死者の奢り』の江藤淳の解説にあった同書を続けて読んだのだろう。ふと考えてしまう題名の意味とともに映画を見ているような斬新な表現は今も驚き 茶色に日焼けした全ページ、変色した表紙カバー、半世紀以上前の文庫本。こういうのは捨てられないし捨ててはならない形ある記憶。この時に着ていたベージュの帽子付き中綿入りコートも思い出す。大きめのポケットに入れて雪に濡れないようにして家に帰ったんだろうなあ。