波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

『縁』の範囲

2024年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

(前回のブログ記事『悩まし 年賀状』から何となく続いている)

定年退職したら、同窓会や退職○○会、元勤務先からの行事案内が随分多いなと感じた。離れて一人暮らしの弱ってきた母親、東京で夢を追っている子どもたち、全く予定していなかった再就職という新しい環境変化は想定数以上の新しい人間関係を結ぶ機会の出現でとても気忙しかった。
参加不参加のハガキ連絡や近況報告も、最初のうちはこれも人の縁だと我慢してハガキ返信していたが、ある時その全てに参加する気が全く無いことに気づいた。どの会の会員も愛すべき方々ばかりだが、そのことと自分が属していたいかどうかは別。返信ハガキ前にして、不参加に丸付けする以上にコメント書きにを強迫される感じがあった。若い時からそういう団体のお世話活動やっていたから、周りは怪訝に思っただろう。実際、なぜだ?とお叱りの電話もいくつか来た。

全部辞めた。ある団体には縁を持ちある団体は切るというのは失礼千万だから。ただ、学校の卒業入学の案内状には一言祝い文書いて欠席にした。欠席の理由は「余計な気を遣わせたくない」からで、先輩面した老人の自分がロクな奴以外の何者でもない自覚は持っていた(笑)。食堂店主が来賓席にいてどうする?
最初、こんなことでは個人の縁も消えてしまうのではと心配した。返信式年賀状も同じだが、それで無くなる縁なら遠からず失うと腹を決めた。十年経つがそれは杞憂だった。人間関係の根本は、個人と個人の縁なのだ。形式や慣習で支えられる縁も大事だが、それが本筋ではない。縁を考えることは、自分と社会のあるべき距離感というか、慎ましく楽に生きていくために大事な気がする。


やっと文庫になったガルシア・マルケス著『百年の孤独』(新潮文庫)、久しぶりの本格長編小説読み始める。息子が非常に影響受けたと前に言っていた 今日のカット、85円ハガキを見ながら描いた。折り鶴でなく折りオウム?今日のブログ記事を書いていて、個人と個人の縁と同時に、個人と集団(組織)の縁を思った。いずれにしろ基本は個人。集団は決して先にも上にも来ない。

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悩まし 年賀状

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

波風家の年賀状、来た年賀状に返信するスタイルに変え7年。それまでは、年末最大の慌ただしい作業だった。出し終えた安心感でやっと大晦日を迎えられるようなところがあった。その分、いただく年賀状への関心薄くもっぱらママヨさんが読み、あいうえお順に整理。400枚ぐらい出して450枚ぐらい来ていた。これをすっぱり止めたのは、疲れもあったが、「出さなければ来なくなるとしたら、それはそれでこちら側が儀礼的慣習をただ押しつけているだけでは」という気持ちがあった。

 

無礼スタイルに変えたら、来たのを正月にじっくりと読むようになった。それまでも一言何かを書いていたが、書いてくれたことに対する言葉になり、相手方の一言も次の年から少し変わった。「今回をもって年賀状は終わらせていただきます」という賀状卒業連絡が多く届くようになったが、波風家は今のスタイルを続ける。来なかったら返信のしようは無いが。リアルにお世話になった方々だけでなく、親戚も恩師も容赦なく(笑)出さない、何か含みがあるわけではない。そう決めたからそうしている。ここ数年横ばいで最盛期の3分の一ぐらいになったが、無礼承知でいただける縁に驚いている。
さて、そろそろ年賀状買って来ようかな。年賀状はいただくと嬉しいし、出すのが好きなのも変わらないのだから。


年賀状の出し方のことを、このブログの『年賀状のこと』(22/1・6)、『年賀状の話』(19/1.1)、『辰年の年賀状』(2012/1.29)で書いていた ここ数日、組織と個人の関係を考えていた。学校や同窓会や町内会みたいな社会的なものだけでなく家族関係も。嬉しかったり悩ましかったりの出どころの話だが、感情でなく言葉で「それはどういうこと?」を考えるのは不思議な縁を解き明かすことだから楽しくすすめたい。

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