(前回のブログ記事『悩まし 年賀状』から何となく続いている)
定年退職したら、同窓会や退職○○会、元勤務先からの行事案内が随分多いなと感じた。離れて一人暮らしの弱ってきた母親、東京で夢を追っている子どもたち、全く予定していなかった再就職という新しい環境変化は想定数以上の新しい人間関係を結ぶ機会の出現でとても気忙しかった。
参加不参加のハガキ連絡や近況報告も、最初のうちはこれも人の縁だと我慢してハガキ返信していたが、ある時その全てに参加する気が全く無いことに気づいた。どの会の会員も愛すべき方々ばかりだが、そのことと自分が属していたいかどうかは別。返信ハガキ前にして、不参加に丸付けする以上にコメント書きにを強迫される感じがあった。若い時からそういう団体のお世話活動やっていたから、周りは怪訝に思っただろう。実際、なぜだ?とお叱りの電話もいくつか来た。
全部辞めた。ある団体には縁を持ちある団体は切るというのは失礼千万だから。ただ、学校の卒業入学の案内状には一言祝い文書いて欠席にした。欠席の理由は「余計な気を遣わせたくない」からで、先輩面した老人の自分がロクな奴以外の何者でもない自覚は持っていた(笑)。食堂店主が来賓席にいてどうする?
最初、こんなことでは個人の縁も消えてしまうのではと心配した。返信式年賀状も同じだが、それで無くなる縁なら遠からず失うと腹を決めた。十年経つがそれは杞憂だった。人間関係の根本は、個人と個人の縁なのだ。形式や慣習で支えられる縁も大事だが、それが本筋ではない。縁を考えることは、自分と社会のあるべき距離感というか、慎ましく楽に生きていくために大事な気がする。
やっと文庫になったガルシア・マルケス著『百年の孤独』(新潮文庫)、久しぶりの本格長編小説読み始める。息子が非常に影響受けたと前に言っていた 今日のカット、85円ハガキを見ながら描いた。折り鶴でなく折りオウム?今日のブログ記事を書いていて、個人と個人の縁と同時に、個人と集団(組織)の縁を思った。いずれにしろ基本は個人。集団は決して先にも上にも来ない。