電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

サクランボ等の果樹園が宅地になっていく様子は

2024年01月14日 06時00分24秒 | 散歩外出ドライブ
雪のない冬は、ドライブや散歩など外出にはありがたい面があります。最近、戸建住宅やアパートなどがどんどん増えている新興住宅地を歩いてみました。写真では住宅の正面入口が並ぶメインの通りは外していますが、戸建住宅に住んでいるのは若い人らしく、敷地いっぱいに住宅とカーポートが建っています。車社会の山形らしく、カーポートに入っている車は2台分で、おそらく若い夫婦のものでしょう。





以前はサクランボやリンゴ等の果樹園だったところが、すっかり住宅地に様変わりです。少し行くと、まだ畑や果樹園が残っていますが、これらもおそらくは時間の問題でしょう。人口減少の時代に、他市町村から流入し、微増とはいえ人口が増加する地域です。住宅の供給と共に、様々な事業所が近隣に移転新築され、働き口があるというのが大きい要因なのでしょう。



歴史をたどれば、この地域は昔から果樹園だったわけではありません。原始植生はブナ林と推定され、遺跡からみて縄文時代の集落が点在した地域ですので、おそらくは水の手が近い林縁地帯だったと思われます。そこに鉄器と稲作文化を持った人々が移り住み、小さな河岸段丘の下方の土地には水田を、上の方に集落を作り、県内の古墳分布を見ると北限に近いことから、北方の対抗勢力と拮抗しながら耕作地を広げていったのでしょう。荘園の時代には誰かの荘園として開かれていった時期もあるようで、土地と収穫を奪われないために自ら武力を養い、武士が台頭していった時代に支配領主は次々と代わりますが、中世の頃の道路が現在も集落を結ぶ主な生活道路となっています。湧き水では不足するため豪族と豪農が中心となって河川の上流から農業用水路を開削し、水田を広げていきますが、水田に不向きな台地上の畑は、ある時は紅花を植え、またある時はクワを植えて蚕を飼うなど、様々な利用のされ方をしてきたようです。サクランボ果樹園に変わったのは、高度経済成長が一段落しトラック輸送とコンピュータ化が進んだ昭和40年代以降のことでした。



水田のほうは土地改良事業により大きく四角い形に変わりましたが、本質的な変化は少ないようです。これに対して、サクランボ等の果樹園が宅地に変わっていく様子は、短期的に見ると残念なことのようにも思えますが、長い歴史を振り返れば土地の利用形態が変わっていく一断面に過ぎないのかもしれないとも思えます。台地の縁に湧く水源の上に立つクヌギの大木は、「水神」と彫られた小さな石碑を足元に置き、人間の営みをずっと眺めてきたのでしょう。

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