1980年代頃でしょうか、日本の学校教育を視察に訪れた視察団が驚いたことの一つに、「小学校にも理科実験室が整備されている」ことが挙げられていました。たしかに、中学校や高校以上では、諸外国、とくに先進諸国では物理・化学や生物などの実験室と準備室が整備されているのは珍しいことではありませんが、小学校でもとなるとたしかに珍しいことでしょう。おそらくは、日本の高度経済成長や Japan as No.1 と言われた当時の科学技術の強さの秘密を探ろうとしてやってきた視察団の目には、印象的なこととして映ったに違いありません。
では、日本で小学校に理科実験室ができ始めた時期はいつ頃なのか。山形県内を中心に調べてみると、次のようなことがわかりました。
まずは、見当たらないことがわかっているケースです。
次は、理科実験室の存在がわかる例です。
また、山形県外でこれに類した情報を集めようと試みましたが、小学校の場合はなかなか難しいようで、あまり進んでおりません。その中でも、
などが確認できました。
これら数少ない例から一般化するのはなかなか難しいのですが、大正期の児童中心主義の思潮による影響もあってか、大正時代に師範学校の付属小学校などが理科実験室を備えるようになり、昭和に入って、財政力のある都市部の小学校が理科実験室を備えるケースが出てきたけれど、この時期に大多数の小学校が理科実験室を備えるまでには至らなかった、と結論付けたいと思います。
では、日本で小学校に理科実験室ができ始めた時期はいつ頃なのか。山形県内を中心に調べてみると、次のようなことがわかりました。
まずは、見当たらないことがわかっているケースです。
- 明治9年、鶴岡の朝暘学校の平面図には、教場や試験場などの記載はありますが、理科実験室など特別教室はありません。
- 明治17年、写真のように、河北町立谷地小学校の校舎平面図には理科実験室など特別教室はありません。
- 明治22年、山形市立第一小学校の前身である山形市中部高等尋常小学校の校舎平面図にも、理科実験室など特別教室の記載はありません。
- 明治30年、河北町立谷地小学校の増築時にも、児童数の増加に対応して教室と裁縫室、講堂などが増築されていますが、理科室はありません。
- 明治33年に落成した山形市立第三小学校(現在名)の校舎平面図にも、理科実験室の記載はありません。
- 明治36年に河北町立南部小学校が独立開校したときも、明治41年に同西部小学校が独立開校したときにも、校舎平面図には理科室はありません。
- 大正2年の山形市立明治小学校(現在名)の平面図にも、大正13年の増築平面図、昭和5年の改築平面図にも、理科実験室の記載は見られません。
次は、理科実験室の存在がわかる例です。
- 大正3年、現在の山形大学附属小学校の沿革に、山形女子師範附属小学校に「理科室を特設する」という記述があります。大正8年の付属小学校の写真帳の中には、児童の理科実験の様子を撮影したものがあります。
- 昭和2年、山形市立第一小学校の大改築が行われ、東北初のコンクリート校舎が完成しますが、この平面図に理科実験室の記載があります。
- 昭和11年、河北町立谷地中部小学校の移転改築の際に、理科実験室と準備室が作られています。
- 昭和14年、山形市立第三小学校の新校舎平面図に、理科実験室の記載があります。
また、山形県外でこれに類した情報を集めようと試みましたが、小学校の場合はなかなか難しいようで、あまり進んでおりません。その中でも、
- 現在の大阪府豊中市立原田小学校の沿革中に、「昭和2年 創立、昭和3年 講堂・理科室・倉庫等 増築」との記載あり。
- 明治12年に開校した三重県四日市市立八郷小学校の沿革中に、「昭和8年 2階建て特別教室(理科・図工・音楽・裁縫)の増築」との記載あり。
などが確認できました。
これら数少ない例から一般化するのはなかなか難しいのですが、大正期の児童中心主義の思潮による影響もあってか、大正時代に師範学校の付属小学校などが理科実験室を備えるようになり、昭和に入って、財政力のある都市部の小学校が理科実験室を備えるケースが出てきたけれど、この時期に大多数の小学校が理科実験室を備えるまでには至らなかった、と結論付けたいと思います。
以前、言及された武田一美(かずよし)氏、講談社刊『実験をとおして知る物質の性質』(昭和57年)の著者の一人でした。1925年、島根県生まれ、東京都板橋区立成増ケ丘小学校校長、と肩書にあります。中学校の理科の先生だったようですね。
さきほど、都心の小学校の理科室が設置された頃の情報を送りました。
確かに、昭和初期に理科室が設置した例が多く、一般化できそうです。大阪も共通しているのが興味あります。東京では関東大震災が改築の機会になったと考えています。しかし、機運として理科室の必要性が認識されていたように思いました。(なぜなのか、この理由を探りたいとおもました。)
今後は東京の郊外の小学校や
師範学校附属や官立の学校について広げてみようと思います。
今後ともよろしくお願いします
山形県の教育資料については、戦災を受けていないことからかなり貴重な資料が残っており、教育資料館に保存展示されております。谷地中部小学校の記録も、母の記憶をきっかけに見つけたものです。
https://blog.goo.ne.jp/narkejp/e/a0bb4552896b9a472d824c1ce0d8022d
明治期の化学教科書については、同館に『小学化学書』の実物が残されており、下記の記事に原著者ロスコウの執筆の事情と翻訳者の概略を記しております。
https://blog.goo.ne.jp/narkejp/e/732d3113af73f88fc841437059b64ccb
何かの参考になれば幸いです。
都内の戦前の尋常小学校の理科室の設置について調べています。検索の結果、この記事をみつけ拝見しました。読んでみて山形県の明治の記録が残っていて、大変貴重だとおもいました。
都内の尋常小学校の理科室の設置の時期を調べ始めていますが、この記事のコメントと合致するところがあります。できましたら、情報を共有できたらありがたいく思います。
母校は、昔 分校で通学があまりに遠方のため見るに見かねて親の働きで小学校を作ったという話(母の通学中の先生の話)を聞いたことがあります。
ということで少し調べて見ました。
沿革にある「南豊島第二尋常小学校」の第二はその流れとみます。
その前は、「南豊島尋常小学校分教場」で当時の地図にそのように載っているようです。
それで「南豊島尋常小学校」を見ましたら、開校?は明治7年(1874年)にさかのぼるようです。( 麻田村第5番小学校?)
肝心の理科室のことはよくわかりませんが・・・。