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帝国大学初の女子学生となった三人の一人、黒田チカの生涯は、「黒田チカ 理研」などで検索すると、理化学研究所の広報ページに、YouTube に登録された短編映画にリンクされており、探すことができます。ここでは、黒田チカの生涯と業績、生前の声、考え方などが簡潔に紹介されています。佐賀に生まれた明治の民権派藩士の娘が、父母の理解を得て教育を受け、化学者として成長していったこと、途中、女子排斥運動だとか不愉快なことも少なくなかったことでしょうが、1916(大正5)年に東北帝国大学を卒業、日本初の理学士となります。真島利行が結晶化に成功した紫根の色素について、副手として構造研究をつづけ、東京化学会(現在の日本化学会)で『紫根の色素について』発表を行いますが、これは日本初の女性理学士による発表でした。
その後、1921(大正10)年に文部省外国留学生として英国オックスフォード大学へ留学しますが、その時の研究テーマには、「家事」の語を入れなければならなかったそうです。天然物色素の分子構造を決定しようとする研究者に対して、「家事」の語を入れなければ留学を認めないとは、いかにも帝国大学に女子の受験を認めようとしなかった、当時の文部省らしい対応ではありますが、留学期間を終えて、黒田チカは1923(大正12)年に米国経由で帰国します。帰国後は東京女高師で講義をするとともに、恩師・真島利行によって理研への道が開かれます。
当時の理研(理化学研究所)は、1917(大正6)年に創立された我が国の有数の研究機関であり、初代総裁が渋沢栄一、初代所長が菊池大麓でした。1921(大正10)年に、第三代所長に就任した大河内正敏により大きな改革を受け、研究者の自由な楽園と言われる理研の伝統が開始されます。1922(大正11)年に主任研究員制度が発足し、研究室を持っていた真島利行のもとで、黒田チカは紅花の色素の構造研究を行います。現代のようなNMRなどの機器分析の手段を持たない時代に、地道に実験を積み重ね、ベニバナの色素カーサミンのほぼ正確な構造決定に成功します。その業績から1929(昭和4)年に学位を受け、女性として2人目の理学博士となります。戦後は、東京女子高等師範学校を前身とするお茶の水女子大学の教授をつとめ、タマネギの成分ケルセチンの血圧降下作用を発見するなど、「物に親しむ」「物に語らせる」ことを一貫して追求しながら、後進の指導にもあたりました。
○
真島利行と黒田チカの師弟を通じて、側面から理研(理化学研究所)の成立と初期の発展の様子を簡単に眺めましたが、明治の実験室と研究・教育システムの移植の時期を過ぎて、大正期に科学研究の自立が進み、世界に伍したレベルの研究が行われるようになっていたこと、大学以外の専門研究機関が成立したことを示しています。また、「研究に男女差はない」とする理研の戦前からの伝統が生まれたきっかけは、やはり黒田チカらの実績によるところが大きい(*)と思われます。
(*):この点については、のちにSTAP細胞をめぐる一連の事件が起こりますが、このあたりは「再現が可能」で「検証可能」であることを求められる実験科学の根本が満たされないだけでなく、「実験ノートに記録がない」という時点で、お粗末な結末が予想できるものでした。
その後、1921(大正10)年に文部省外国留学生として英国オックスフォード大学へ留学しますが、その時の研究テーマには、「家事」の語を入れなければならなかったそうです。天然物色素の分子構造を決定しようとする研究者に対して、「家事」の語を入れなければ留学を認めないとは、いかにも帝国大学に女子の受験を認めようとしなかった、当時の文部省らしい対応ではありますが、留学期間を終えて、黒田チカは1923(大正12)年に米国経由で帰国します。帰国後は東京女高師で講義をするとともに、恩師・真島利行によって理研への道が開かれます。
当時の理研(理化学研究所)は、1917(大正6)年に創立された我が国の有数の研究機関であり、初代総裁が渋沢栄一、初代所長が菊池大麓でした。1921(大正10)年に、第三代所長に就任した大河内正敏により大きな改革を受け、研究者の自由な楽園と言われる理研の伝統が開始されます。1922(大正11)年に主任研究員制度が発足し、研究室を持っていた真島利行のもとで、黒田チカは紅花の色素の構造研究を行います。現代のようなNMRなどの機器分析の手段を持たない時代に、地道に実験を積み重ね、ベニバナの色素カーサミンのほぼ正確な構造決定に成功します。その業績から1929(昭和4)年に学位を受け、女性として2人目の理学博士となります。戦後は、東京女子高等師範学校を前身とするお茶の水女子大学の教授をつとめ、タマネギの成分ケルセチンの血圧降下作用を発見するなど、「物に親しむ」「物に語らせる」ことを一貫して追求しながら、後進の指導にもあたりました。
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真島利行と黒田チカの師弟を通じて、側面から理研(理化学研究所)の成立と初期の発展の様子を簡単に眺めましたが、明治の実験室と研究・教育システムの移植の時期を過ぎて、大正期に科学研究の自立が進み、世界に伍したレベルの研究が行われるようになっていたこと、大学以外の専門研究機関が成立したことを示しています。また、「研究に男女差はない」とする理研の戦前からの伝統が生まれたきっかけは、やはり黒田チカらの実績によるところが大きい(*)と思われます。
(*):この点については、のちにSTAP細胞をめぐる一連の事件が起こりますが、このあたりは「再現が可能」で「検証可能」であることを求められる実験科学の根本が満たされないだけでなく、「実験ノートに記録がない」という時点で、お粗末な結末が予想できるものでした。
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