終戦直後の混乱期をなんとか通過した頃、ベビーブームによる子どもたちが大挙して学校に入学するようになります。昭和23年に発足して間もない新制中学校(*1)は、義務教育の受け皿として拡充整備することが求められますが、選択科目の英語だけでなく各科目を教えられる教員も足りなければ教える教室も足りないという状況で、1クラスに55人も生徒が入っているという状況でした。特に戦後の町村合併と重なった地域では校舎建築が間に合わないほどだったようです。筆者の母校でも、それなりに歴史の長かった小学校と違い、当初は旧国民学校高等科の建物を利用していた新制中学校は隣接する二つの地区の請願により2校が統合されることとなり、一期工事で昇降口と便所、普通教室のほか第1と第2の理科実験室と準備室、二期工事で体育館とグランド、三期工事で普通教室と特別教室棟が追加建設されました。このうち特別教室は、音楽室、技術木工室、同金工室と準備室等を含むもので、新制中学校で新たに誕生した技術家庭科のための実習室でした。
ここで、一期工事に普通教室に加えて理科室が入っていることに驚きます。おそらくは、先の大戦が科学技術や合理的な考え方を軽視し、精神主義・非合理主義に陥っていたという反省から、科学技術教育の重視が打ち出されていたことの影響でしょうか。理科の先生が得意そうに白衣をひるがえし、科学部(クラブ)にはかなり多くの部員が所属していたということからも、当時の風潮がうかがわれます。また、放課後の部活動も、昭和40年頃にはおよそ6割が運動部に所属し、4割は文化部・生産部に所属して、科学、音楽、美術などのほか、木工、珠算、家庭(料理・被服)などの活動に従事していました。ほとんどが運動部に所属する平成〜令和の姿を思うとき、感慨を禁じえません。
それと同時に、産業復興を支える人材育成を目指したのであろうと思われますが、1951(昭和26)年に産業教育振興法が制定(*2)され、いわゆる産振棟・産振設備の整備が可能となっておりましたので、技術家庭科の実習室はこれらの補助を受けて整備されたものと思われます。また、1953(昭和28)年には理科教育振興法が議員立法によって制定され、理科や数学等の実験器具や模型等の整備ができるようになりました。二つの振興法に基づく予算規模は桁が違いますが、理科の場合は建物や設備整備ができず備品の購入の補助にとどまったのは、当時の社会情勢によるものと思われます。
というのは、昭和25年頃には約42%強だった高校進学率が、昭和35年にはおよそ60%に増加し、昭和40年には約71%、昭和49年にはついに90%を突破するという背景がありました。しかも、進学先の高校が、昭和25年、昭和35年、昭和40年と、ずっと高等学校在籍生徒数の約6割が普通科に、約4割が職業学科に学んでいたのです。私の年代でも、中卒で就職する人が同級生の約二割はいたと記憶していますが、産業教育の振興は、産業人材の育成を目指すという点で、高度経済成長を続ける当時の社会の要請でもあったのかもしれません。
◯
残念ながら、その後の展開は必ずしも趣旨が充分に生かされたかどうかは疑問な面があり、商業高校や工業高校が中型コンピュータ(ミニコン)によりオンラインで結ばれる整備がようやく実現した頃にはパーソナルコンピュータとネットワークが普及してきているという具合に、設備整備の速さよりも技術の進歩の速さが勝るなどの矛盾も見られるようになりました。設備整備が終わった頃にはすでに技術が陳腐化しているというものですが、それでも法律が制定当時に果たした役割は大きなものがあっただろうと思われます。
(*1): 新制中学校の発足と義務教育年限の延長〜「学制百年史」文部科学省
(*2): 産業教育振興法の制度〜「学制百年史」文部科学省
ここで、一期工事に普通教室に加えて理科室が入っていることに驚きます。おそらくは、先の大戦が科学技術や合理的な考え方を軽視し、精神主義・非合理主義に陥っていたという反省から、科学技術教育の重視が打ち出されていたことの影響でしょうか。理科の先生が得意そうに白衣をひるがえし、科学部(クラブ)にはかなり多くの部員が所属していたということからも、当時の風潮がうかがわれます。また、放課後の部活動も、昭和40年頃にはおよそ6割が運動部に所属し、4割は文化部・生産部に所属して、科学、音楽、美術などのほか、木工、珠算、家庭(料理・被服)などの活動に従事していました。ほとんどが運動部に所属する平成〜令和の姿を思うとき、感慨を禁じえません。
それと同時に、産業復興を支える人材育成を目指したのであろうと思われますが、1951(昭和26)年に産業教育振興法が制定(*2)され、いわゆる産振棟・産振設備の整備が可能となっておりましたので、技術家庭科の実習室はこれらの補助を受けて整備されたものと思われます。また、1953(昭和28)年には理科教育振興法が議員立法によって制定され、理科や数学等の実験器具や模型等の整備ができるようになりました。二つの振興法に基づく予算規模は桁が違いますが、理科の場合は建物や設備整備ができず備品の購入の補助にとどまったのは、当時の社会情勢によるものと思われます。
というのは、昭和25年頃には約42%強だった高校進学率が、昭和35年にはおよそ60%に増加し、昭和40年には約71%、昭和49年にはついに90%を突破するという背景がありました。しかも、進学先の高校が、昭和25年、昭和35年、昭和40年と、ずっと高等学校在籍生徒数の約6割が普通科に、約4割が職業学科に学んでいたのです。私の年代でも、中卒で就職する人が同級生の約二割はいたと記憶していますが、産業教育の振興は、産業人材の育成を目指すという点で、高度経済成長を続ける当時の社会の要請でもあったのかもしれません。
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残念ながら、その後の展開は必ずしも趣旨が充分に生かされたかどうかは疑問な面があり、商業高校や工業高校が中型コンピュータ(ミニコン)によりオンラインで結ばれる整備がようやく実現した頃にはパーソナルコンピュータとネットワークが普及してきているという具合に、設備整備の速さよりも技術の進歩の速さが勝るなどの矛盾も見られるようになりました。設備整備が終わった頃にはすでに技術が陳腐化しているというものですが、それでも法律が制定当時に果たした役割は大きなものがあっただろうと思われます。
(*1): 新制中学校の発足と義務教育年限の延長〜「学制百年史」文部科学省
(*2): 産業教育振興法の制度〜「学制百年史」文部科学省
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