太平洋戦争中、大学の研究室は様々な形で軍の体制に組み込まれ、悪い意味での「選択と集中」が強制されました。戦中期の実験室に関する記録を目にすることが少ない理由には、一つには学徒動員などで学生が減少していたこと、また促成教育や勤労動員の補習教育などが中心となり、自由な雰囲気の研究などはほとんどできなかった、ということなのでしょう。いくつかの回想記から、戦中期の実験室の様子をひろってみました。
『東北化学同窓会報・東北大学化学教室八十周年記念号』に転載された安積宏「戦争中の學生」によれば(p.91)、戦争不拡大方針のはずだったのにもかかわらず満州事変は次第に深入りしていき、昭和14年には学生の軍事教練が事実上必修課目となり、大学には配属将校の人数が急に増えていきます。日独伊三国同盟が結成された昭和15年には大政翼賛会が結成されますが、例えば(旧制)高等学校の校友会に所属する学内団体はすべていったん解消され、あらためて校長を団長として全教授を指導者とする全校一体の報国団が組織された(*1)ように、昭和16年には大学においても報国隊が作られます。これは、例えば東北大学理学部が第一大隊を組織し、数学と物理が第一中隊、化学と地学が第二中隊、助教授クラスが中隊長を命じられ、その組織に対して勤労動員の命令が下りる、というものでした。昭和18年には学生の徴兵猶予が廃止され、法文系の学生は学業を半ばにして戦場に出ていくことを余儀なくされます。昭和19年には、理科系の学生にも学徒勤労動員が決まります。
(写真は、大政翼賛会本部)
この頃の元学生の文章として、同『八十周年記念号』に掲載された武者宗一郎「世紀会万々歳」(昭和18年卒)には、次のような記述があります。
「…天下寛しとは言え、我が化学教室において、在学二年半を以て学業を全うせるは我等『世紀会』を置いて他に類を見ざるも我等満を足せず。これ豈はからんや東条英機の愚見によるなり。(略)」(p.287)
事実上、大学教育の実質的停止に相当したのではないかと思われます。
では、大学における研究活動のほうはどうだったのか。よく技術の画期的進歩の理由として戦争がきっかけになる例が指摘されます。原子力の研究と原子爆弾の製造が代表的な例でしょう。しかし、戦争に伴う「選択と集中」は、必ずしも科学技術を画期的に進歩させるとは限りません。その例として、東北大学工学部の電気工学科で研究されていた八木アンテナの原理等を用いた「電探」の技術開発が挙げられます。日本で先に研究が始まりながら英米で先にレーダーとして実用化され、ミッドウェー海戦等で日本軍が甚大な被害を被ったわけですが、その理由は軍部と政治家が主導した「選択と集中」が実情に合わず矛盾したものだったからではなかったか。
『同八十周年記念号』に掲載された塩浜喬「学徒動員と私達」(昭21卒)によれば、氏と同級生の二人が海軍からの委託研究で、「コンデンサー用絶縁油の合成」を担当したそうです。これは、電波探知機に使うもので、戦闘機にも積める小型のもの、そして高空でも性能が劣化しないものを、と要求されていました。o-ジクロルベンゼンとデカリンが縮合した物質で、合成過程の大要はできていたそうですが、工場から渡された材料の純度が60%と劣るため、発煙硫酸でスルホン化して不純物を除去しようと考え、発煙硫酸の手配を申請します。ところが、その回答は
「しかしながら、現下の情勢では、遺憾ながら発煙硫酸は支給できない。別の方法を工夫してやって欲しい。」
「でも…」
「解っとる。説明はいらない。無いものは無いのであるからして、是非大和魂で合成して呉れたまえ。」
というものでした。試薬がなく大和魂で化学合成ができるわけがありません。おそらく当時の工業生産の状況は、発煙硫酸の生産さえできないか、あるいは開発研究になどまわせないところまで停滞していたのでしょう。「電探」という軍事的要請度の高いはずの海軍の委託研究すらこの状況ですから、科学研究を軽視し研究費を抑制・削減し、優秀な人材を兵卒として前線におくるという軍政の矛盾がこうした結果を招いたのは必然のように思います。
(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴圃)
【追記】
日本化学会編『日本の化学 100年のあゆみ』によれば(p.98)、化学会誌のページ数の変化について、次のようなデータを載せています。
誌名 | 昭19 | 昭20 | 昭21 | 昭22 | 昭23 |
日本化学会誌 | 712 | 66 | 67 | 110 | 181 |
Bull.Chem.Soc.Japan | 216 | 0 | 0 | 26 | 77 |
工業化学雑誌 | 994 | 92 | 198 | 198 | 168 |
戦争が、ある一部の技術を進歩させた面があるのは否めないでしょうが、日本の戦中期に関しては明らかに停滞していることが、この論文等のページ数に現れていると言えます。
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