終戦直後の日本経済は、さまざまな曲折を経て、とくに戦争特需もあって、徐々に復興を果たしますが、その際に多くの人に指摘されるのが「品質管理の概念と手法の導入」です。日本製品が「安かろう悪かろう」で悩んでいた時期である1950年に、日本政府が国勢調査のアドバイザーとして米国から統計学のデミング博士を招きます。当時の経済界の主だった経営者たちは、デミング氏の品質管理の講演を聞いて感銘を受け、以後は氏の指導を仰ぎながら業務の改善を進め、1970年代頃までに品質の劇的な改善に成功し、1980年代には「Japan as No.1」と称されるようになります。「デミング賞」という賞の存在と共に、このあたりはテレビでもずいぶん取り上げられました。
ところが、デミング博士が品質管理について講演を行ったのは、日本だけではなかったようなのです。日本での講演に前後して、メキシコ、ギリシャ、インド等でも講演を行いましたが、品質管理について大きな成功を経験したのは、どうやら日本だけ(*1)だそうです。このことは、しばしば日本の教育水準の高さによって説明されることが多いように思いますが、デミング流の品質管理は本質的には統計的な手法によるものであり、教育の水準というだけではどうも漠然とし過ぎのように感じます。識字率が高ければ統計的手法になじむとは言えないでしょうし、コンピュータのソフトウェア開発の例を持ち出すまでもなく、20×20までの九九を暗証しているインド人の数学的能力は相当に高いでしょう。実際の品質管理においては、さまざまな要素を数え、比較整理し、作業工程の中の問題点を調べてどう改善を提案していくかが眼目となるわけで、チームの一人一人が読み書きや計算ができるだけでなく、観察力や注意力、工夫する発想力などの一定の経験があって成果が期待できるのではなかろうかと思います。では、日本における戦後世代のそれらの力は何によって養われたのだろうか。
1960年代の小中学校を経験した私の考えでは、おそらく今よりずっと理科の時間が多かった当時の小中学生のほとんどが経験したであろう、活発な自由研究等の影響があるのではないかと思います。あるいは課外のクラブ活動等も影響したかもしれません。識者はしばしば教育というと授業のことをイメージするようですが、授業は基礎的な力を付ける場であって、身につけた力を試し発揮するのは課外の活動の場合が多いようです。逆に言えば、活発な自由研究がすたれ課外活動がスポーツに偏重していくとき、日本の製造業における品質は必ずしも No.1 ではなくなっているだろう、とも言えます。昨今のさまざまな報道に、どうしてもその懸念がぬぐえません。
(*1): 吉田耕作『ジョイ・オブ・ワーク』(日経BP社、2005年)
ところが、デミング博士が品質管理について講演を行ったのは、日本だけではなかったようなのです。日本での講演に前後して、メキシコ、ギリシャ、インド等でも講演を行いましたが、品質管理について大きな成功を経験したのは、どうやら日本だけ(*1)だそうです。このことは、しばしば日本の教育水準の高さによって説明されることが多いように思いますが、デミング流の品質管理は本質的には統計的な手法によるものであり、教育の水準というだけではどうも漠然とし過ぎのように感じます。識字率が高ければ統計的手法になじむとは言えないでしょうし、コンピュータのソフトウェア開発の例を持ち出すまでもなく、20×20までの九九を暗証しているインド人の数学的能力は相当に高いでしょう。実際の品質管理においては、さまざまな要素を数え、比較整理し、作業工程の中の問題点を調べてどう改善を提案していくかが眼目となるわけで、チームの一人一人が読み書きや計算ができるだけでなく、観察力や注意力、工夫する発想力などの一定の経験があって成果が期待できるのではなかろうかと思います。では、日本における戦後世代のそれらの力は何によって養われたのだろうか。
1960年代の小中学校を経験した私の考えでは、おそらく今よりずっと理科の時間が多かった当時の小中学生のほとんどが経験したであろう、活発な自由研究等の影響があるのではないかと思います。あるいは課外のクラブ活動等も影響したかもしれません。識者はしばしば教育というと授業のことをイメージするようですが、授業は基礎的な力を付ける場であって、身につけた力を試し発揮するのは課外の活動の場合が多いようです。逆に言えば、活発な自由研究がすたれ課外活動がスポーツに偏重していくとき、日本の製造業における品質は必ずしも No.1 ではなくなっているだろう、とも言えます。昨今のさまざまな報道に、どうしてもその懸念がぬぐえません。
(*1): 吉田耕作『ジョイ・オブ・ワーク』(日経BP社、2005年)
■言い換えれば、今日のお話は「自然科学的分野」、つまり「人類の理性をもってすれば理解し合えるという、明晰判明な信念の上に成り立つ理論で、必ず検証や再現が可能なもの」という見地からのものでした(…って、だいぶ風呂敷を広げた言い換えになっちゃった…)。
■この分野のお話は、narkejpさんのblogの取り組み方の根底にある信念で、この点が、ご本人は「人畜無害」とはおっしゃるのですが、誰でも安心して「なるほど」とい頷ける要となっていると思います(←私個人はいつも目から鱗の思いです)。
■示唆された結論に、私もたぶん同じ方向性(だと思う)を感じています。現在は、小中高生の『部活』が、「自由に知的好奇心の羽を広げる」ことよりも、どちらかというと「スポーツに打ち込む十代の美しさ・一途さ」という価値観のアピールが強い風潮なのかなと思います。
本題の、日本で品質管理が成功した背景には教育水準の高さがあるという説の具体的な中身を、当時の「自由研究」等の課外活動の広範な展開に求める考え方は、逆にそれが失われた現代のQCサークル等の形骸化、品質の低下、日本の科学技術の停滞を意味するだけに、ちょいと悲しい事態ですね(^o^;)>poripori
小学校の理科室ではお世話になりました。引き続き調べています。
そうこうしているうちに、ジョイオブワークの話を読み、驚いているところです。吉田耕作先生が当社のご指導にいらっしゃったと書いてあったためです。私は昨年、定年後に入社したので知りません。今日、会社で会長に聞いてみたら、「来ていました」と確認できました。こんなところでつながるなんて、、、
10年ほど前まで、吉田先生をお招きして、全社員に講演をしてもらったそうです。働くなら生きがいをもって、はたらきやすさ、楽しく働くということを伝えてくれたようです。
当方、近代教育のポイントは「読み書き計算+実験実習」にあるだろうと考えていますが、理工系の方々には共感いただけることが多いです。「読み書き計算」だけなら江戸時代の寺子屋でもできますからね。フリースクール等の難しさも、実験実習にあると思います。
実験が果たす役割を評価することは、今後も大切にしたいと思っていました。座学でできる学習は、今後どのようい変わるのか、想像できませんが、理科が学校で教える意味は、まず、観察・実験ができることかと思います。これまでの実践を大切にしたいです。
×「かわりもの・はしりだね」
でした。変種や多様性、季節変化の指標などをとらえることで、子どもの観察眼を育てようとしていたのでしょうか。