電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

村上陽一郎『工学の歴史』を読む

2015年02月13日 06時02分05秒 | -ノンフィクション
当ブログのカテゴリー「歴史技術科学」の連載記事の関連で、19世紀の日本及び欧米の科学史・技術史・教育史に関する資料を集めて読んでいますが、たまたま某図書館で、明治の工部大学校に関する章を持つ本を見つけました。岩波講座『現代工学の基礎』より、村上陽一郎著『工学の歴史《技術連関系I》』です。

本書の構成は、次のようになっています。

序章 技術,工学,科学
1 技術の特殊な形態
2 工学教育と工学者の制度
   フランスの場合/ドイツ語圏の場合/イギリスの事情/
   アメリカの場合
3 日本の工学の歴史
   幕末から維新へ/工学寮と工部大学校/工学の他の流れ
4 初期工学者の系譜
   アメリカ電気工学の場合/イギリスの初期工学者/大陸の人々/
   日本における初期工学者たち
終章 結語

なかなか歯ごたえのある内容ですが、とくに私が知らずにいて、今回あらためて認識したのは、1877(明治10)年の雑誌「ネイチャー」に掲載された、"Engineering Education in Japan" という短信の内容です。

これは、16歳から20歳まで実地の訓練ばかりで理論のない英国の技術教育と、理論ばかりで実地の訓練に欠けているフランスの技術教育の欠点を指摘し、ダイアーらが中心になって推進している、理論と実地とを兼ね備えた日本の工部大学校における系統的な教育を評価するものです。

C.W.C.という署名のある筆者が誰なのかは不明ですが、英国のような歴史に由来する桎梏を持たない、明治の日本のような国だから可能な大胆な挑戦をしている、工部大学校における教育の世界的な意味を指摘するものです。欧米からの日本への影響という面だけではなく、日本が欧米に与えた影響もあった、という指摘は、初めてでした。もちろん、影響の大きさ・広さ・深さの点で、欧米からのほうが圧倒的だったのは間違いないところでしょうが。

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山形テルサホールで「松田理奈が奏でるモーツァルト」を聴く

2015年02月12日 19時47分48秒 | -室内楽
「建国記念の日」で休日となった水曜日の午後、妻と山形テルサホールに出かけました。正式には「松田理奈が奏でるモーツァルトwith池辺晋一郎&飯森範親」というコンサートです。今週末の土曜日に最終回を迎える、山形交響楽団の八年がかりの「モーツァルト交響曲全曲演奏」企画を応援し盛り上げるために計画されたものでしょう。

ステージ上には、真ん中にピアノが配置され、伴奏者と合図が交わせる位置に独奏者の譜面台が置かれています。そして、ステージの右側には弦楽四重奏のための椅子と譜面台が置かれ、ステージの左側にはちょっとした居間のような雰囲気で、三人分の椅子がテーブルを囲みます。おそらく、ここがトークの場所なのでしょう。




客席はほぼ満員で、人気企画であることがうかがえます。開演とともに、ヴァイオリンの松田理奈さんとピアノ伴奏の小森谷裕子(こもりや・ひろこ)さんの登場です。松田理奈さんは、昨年6月の山響モーツァルト定期でヴァイオリン協奏曲第1番を演奏(*1)しています。このときに、アンコールで披露したイザイの無伴奏がステキで、わざわざCDを購入してサインしてもらっていました(^o^)/

最初の曲目は、若いモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調K.304です。この曲は、切なさというか哀切さの中にも軽やかに音楽が息づいている、そんなチャーミングな音楽で、私も大好きで聴いております。松田理奈さんと小森谷裕子さんは、この曲の魅力を充分に表現してくれました。松田さんはもちろんですが、小森谷さんのピアノが素晴らしかった!

ヴァイオリン・ソナタの演奏が終わると、飯森さんと池辺晋一郎さんが登場します。わーお、池辺さんはN響アワー以来でしょうか。ずいぶん久しぶりにお顔を拝見するように思いましたが、全然変わらずお元気そうで、音楽の解説の中に恒例のダジャレをぶちかまします(^o^)/
このソナタはホ短調で書かれているけれど、ホ短調というのは私的な感情の表明にしばしば用いられるのだそうです。古典派の曲で用いられる例は少なく、ロマン派になるととたんに増えてくるのだそうで、この曲あたりが先例になるのだそうな。実に見事なのだけれど、モーツァルト君は実に謙虚で、「プロ?いえいえ、アマでぅす」(爆笑)

二曲目は、山響の首席奏者による弦楽四重奏で、第17番「狩り」から第1と第3楽章です。第1ヴァイオリンが犬伏亜里さん、第2ヴァイオリンが舘野ヤンネさん、ヴィオラが成田寛さん、チェロが小川和久さんです。山響のモーツァルト交響曲全曲演奏では、古楽奏法やオリジナル楽器の採用などを採用しておりますが、これを意識して、ヴィヴラートはごく少なく。八年目にもなると、もうすっかり慣れて、独特の澄んだ響きや軽快なリズム感などを楽しむようになりました。

演奏の後の、飯森さんと池辺さんのトークでは、どうしてもダジャレを期待してしまいます(^o^)/
ハイドン以来、モーツァルトもベートーヴェンも、弦楽四重奏曲というジャンルでは、作曲家は真剣に書こうとする。ほんとに難しいので、「しじゅう相談しながら」(爆笑)

三曲目、「ロンド」ハ長調K.373 です。楽しい曲です。松田さんのヴァイオリンと小森谷さんのピアノの呼吸にあらためて注目。素晴らしい!

ここで15分の休憩があり、後半の四曲目は、再び松田さんと小森谷さんによるクライスラー編曲「ハフナー・セレナード」より「ロンド」。こちらは、モーツァルトの原曲を、クライスラーが技巧的に編曲したものでしょうか。イザイの無伴奏を見事に演奏する松田理奈さんのことですから、安定感があり、思わずため息が出ます。

これに対する池辺大先生のコメント:スラーには暗いスラーと明るいスラーと二人いて、今のは暗いほう(爆笑)

続いて5曲目は、再び山響トップによる弦楽四重奏で、第1番ト長調「ローディ」K.80です。これは、正直はじめて聴きました。なかなかステキな曲ですね。うーむ、やっぱりモーツァルトの弦楽四重奏曲の全集が必要だなあ(^o^)/

池辺晋一郎大先生のネタをあまりバラしてはいけないのかもしれませんが、最後に一つだけ:少し前に、モーツァルトのアニヴァーサリー・イヤーがあったときに、世界で一番盛り上がったのは、実は福岡だった。屋台に入ると、「モツ、あると?」オヤジも「モツ、あるとよ!」(爆笑)
うーむ、最近は博多弁もポピュラーになっているからなぁ(^o^)/

松田さんと小森谷さんの二重奏の最後は、「ロンド」変ホ長調K.269です。ピアノ伴奏の小森谷裕子さんは、実は飯森さんの先輩だそうで、山響のオーディションの際のピアノ伴奏もお願いしているのだそうな。ふーむ、すると近年の山響メンバーの方々には、こわいような、ありがたいような、両面的な存在なのでしょうか。でも、ソロを巧みにサポートしつつ音楽を表現する役割は、実に見事なものだと感じました。

松田理奈さんのモーツァルト観は、と飯森さんに問われて、実は「感謝する」人と答えます。それは、小学校四年生のときに転校することになり、学校になじめなくて不登校状態になっていたのだそうです。手許にはヴァイオリンしかなくて、そのときに28番のソナタを練習していたので、この音楽に悲しい気持ちをぶつけていたのだそうな。そうしたら、ヴァイオリンのレッスンの際に、先生が「どうしたの?」とわかってくれた、ということがあり、ヴァイオリンで気持ちを伝えるという原点になっているとのことでした。
飯森さんも、必ずしも完璧ではない、あるいはわざと完璧から外そうとする傾向のあるモーツァルトに、ますます親しみを感じるようになった八年間だったようです。

最後は、山響の弦楽首席奏者4人による弦楽四重奏で、第21番ニ長調K.575から第3楽章「メヌエット」を。アンサンブルの中でも、小川和久さんのチェロの、高音域の甘い音色が素晴らしく、これに加わる成田さんのヴィオラの音色も、ステキにチャーミングです。この曲は、とりわけチェロの役割が大きいものに感じます。

山響モーツァルト定期の完結記念演奏会を期待させる、飯森さんと池辺さんのトークもたいへん楽しい、良い演奏会でした。



帰りは、例によって「ピザリア」で「季節の野菜ピザ」と「気まぐれ野菜パスタ」をいただきました。写真はありませんが、メニューを見たら、チーズフォンデュがあるみたい。山形でチーズフォンデュが食べられる店はそう多くないので、こんど試してみたいところです。

(*1):山響モーツァルト定期第19回でヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第23・28番等を聴く~「電網郊外散歩道」2013年6月

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ある休日のお昼

2015年02月11日 06時05分30秒 | 料理住居衣服
休日になると、私が裏の畑で剪定作業をしている間に、お昼ができています。たまに子どもが作ってくれることもあり、いつもの高齢者向け低カロリー精進料理風のメニューではなく、ボリュームのある若者向けのものになります。今回は、スパゲッティ・ミートソースと鶏の肉団子と大根の煮物でした。いや、なかなか美味しかった。まあ、後者は年寄りを意識した品目と言えるのかな(^o^)/



右奥のサラダはリンゴのスライスがたっぷり入ったもので、汗をかいた後には、さっぱりして美味しかった。さらに右奥の黄色いのは、老母の手作りで、カレー味のカリフラワーのピクルス。これも、酸味と甘辛さがバランスした、けっこう美味しい漬け物です。

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厳冬期の週末農業は

2015年02月10日 06時04分02秒 | 週末農業・定年農業
サクランボなど落葉果樹は、剪定により常に新しい枝を出させるようにして実をならせます。剪定作業は、本来は休眠期である厳冬期に行うべきもので、春になって暖かくなってからでは樹勢を弱める結果になってしまいます。でも、定年退職前は、多忙なためと風邪をひいてはいられない事情から、厳冬期の剪定作業をしていませんでした。さすがに時期遅れの素人剪定ばかりでは、樹勢も弱り樹形も乱れてきますので、二ヶ所あるサクランボの園地のうち昨年は片方の、今年は両方の園地ともプロに剪定をお願いし、過日、すでに終わっています。

とはいうものの、サクランボ以外の梅、柿、モモ、スモモ、リンゴ、プルーン、梨などは、自分でやらなければなりません。今年こそ、自分でできる範囲で、思い切って剪定できるように、厳冬期の作業を敢行しました。良いお天気に恵まれた土曜日と、曇り空でまずまずのお天気となった日曜日に、じゅうぶんに防風防寒対策をして、除雪機であらかじめ除雪してあった通路を通り、自宅裏の果樹園に入りました。



先日のプロの剪定の成果である剪定枝が、雪の中から出ています。雪が融けたら、これらを集めて焼却する仕事が待っていますが、今はまず剪定をすすめるのが先決です。



とりあえず、スモモと桃、それにしばらくほったらかしにしていた梨を整枝して、混み合ったところを切り取り、枝と枝の間隔を開けました。また機会を見て細かく剪定する必要がありますが、今回はここまで。寒さよりも、雪の中で動き回ったせいか、びっしょり汗をかきました。自宅に戻り、ぜんぶ着替えてさっぱりして、いれたてのコーヒーを飲みました。美味しかった!

この寒波はじっと我慢でやり過ごし、また好天の日に、続きを計画しております。週末農業は、なんといってもお天気次第です。

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フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」Op.80を聴く

2015年02月09日 06時05分29秒 | -オーケストラ
山形弦楽四重奏団の定期演奏会の演目に取り上げられた、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調をずっと続けて聴き続けておりましたので、このところ通勤の車中がほとんど巡礼気分でありました(^o^;)
少し気分を変えようと手に取ったのが、ジャン・フルネ指揮オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団によるフランス音楽の録音から、フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」作品80です。

原作はベルギーの劇作家メーテルリンクの劇「ペレアスとメリザンド」(1892)。それから六年後の1898年にフォーレが劇音楽「ペレアスとメリザンド」を作曲しましたが、その後次々に同タイトルの作品が作曲発表されます。ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」が1902年に初演されておりますし、シベリウスも1905年に劇音楽「ペレアスとメリザンド」を作曲、なんとシェーンベルグも1903年に交響詩「ペレアスとメリザンド」を作曲しているのだそうな。
行き倒れていた若い娘メリザンドを発見した兄ゴローが助け、二人は結婚しますが、メリザンドは弟ペレアスと仲良くなり、三角関係になってしまいます。兄は弟を殺し、娘は死を選ぶという、悲惨な、でもよくあるパターンの悲劇です。今ではそんな典型的な三角関係に基づく悲劇はステレオタイプとみなされ、書かれないのでしょうが、この時代にはけっこう衝撃的で、流行したのでしょうか。

第1曲:「前奏曲」。クワジ・アダージョ。弦楽合奏を主体とした、静かで情緒ある優しい音楽です。管楽器やハープが、そっといろどりを添えています。
第2曲:「糸を紡ぐ女」。アンダンティーノ・クワジ・アレグレット。弦楽を中心とした合奏の中で、オーボエが可憐な旋律を歌います。主題は先の曲とよく似ています。
第3曲:「シシリエンヌ」。アレグレット・モルト・モデラート。フルートの曲としてあまりにも有名な音楽で、はじめは「おや、この曲の中に含まれていたのか」と驚いたものでした。今は遠くなった学生時代に、吹奏楽経験者らしい女学生が芝生の上でこの曲を練習していたのを思い出してしまいます。
第4曲:「メリザンドの死」。モルト・アダージョ。恋人ペレアスがゴローによって殺され、望みを失ったメリザンドが死を迎える悲劇を描く、葬送行進曲のようなものでしょうか。

1988年10月に、オランダのユトレヒトにあるムジツェントルム・ヴレデンブルグにて収録されたデジタル録音で、CDの型番は DENON COCO-70503 というものです。録音は自然なもので、自宅のステレオ装置で音量をあげると、繊細ななかに訴える力も感じられて、たいへん聴きやすいです。演奏・録音ともに、素晴らしいものだと思います。

■フルネ指揮オランダ放送フィル盤
I=5'57" II=2'41" III=3'42" IV=4'05" total=16'25"

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オクラホマミキサーのメロディで

2015年02月08日 06時02分38秒 | アホ猫やんちゃ猫
♪アラこんなところでアホ猫が
 日だまり探して丸くなり
 スヤスヤ寝息をたてている
 ホントにアンタは平和だね
 アホ猫ったらアホ猫!
 アホ猫ったらアホ猫!
 猫の手も借りたい忙しさ
 こちらの気持ちも知らないで~♪



だァれ?うるさい歌を歌ってるのは。
アタシは眠いんだから、ほっといて……Zzz…


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長年の習慣

2015年02月07日 06時04分58秒 | ブログ運営
早朝に目を覚ますと、台所と書斎の暖房を点火し、コーヒーをわかします。コーヒーメーカーが作動しているあいだに洗顔をすませます。デスクに戻り、パソコンの電源を入れ、コーヒーを飲みながらメールチェックやブログの更新などを行います。多くのアクセスがあったり、コメントやトラックバックが来ているときなどは、うれしく張り合いがあります。早起きのアホ猫が暖房目当てに飛んでくるのも、可愛いものです。

そんな生活を続けて10年。すでに習慣となりました。この習慣が崩れるのは、出張以外では大雪で早朝から雪かきをしなければいけない場合とか、流感やぎっくり腰など健康上の理由で寝込んでしまう場合などでしょう。こんな日は、日頃の習慣から外れてしまうために、何か忘れ物をしているような気になってしまいます。習慣のもたらす安心感、習慣から外れると感じる不安定感でしょうか。

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『帆布トートバッグの本』を読む

2015年02月06日 06時05分04秒 | -ノンフィクション
誠文堂新光社から2011年に刊行された実用書で、『帆布トートバッグの本』を読みました。「定番から作家ものまで+作り方」と副題がありますが、表紙には著者名が記されていません。奥付を調べてみたら、編者名として「誠文堂新光社」とありました。たぶん、出版社の中の実用書部門が、ムックを作るような姿勢で作った単行本なのだろうと思います。

実際、構成もムック風で、

■帆布のキホン
■長く愛される帆布トートバッグ
一澤信三郎帆布/工房HOSONO/犬印鞄製作所/須田帆布/帆布牛や/アトリエペネロープ/工房おのみち帆布
■新定番の帆布トートバッグ
BAG'n'NOUN/BLANC-FAON/倉敷帆布/mishim/TEMBEA/koton/伊兵衛Ihee
■手作りする帆布トートバッグ

という具合です。

仕事で通勤するには、いかにも中年おじん風な(^o^;)ブリーフバッグを愛用していますが、寺の会合に出たり、地域の会合に参加したりするような時、あるいはちょっとしたお出かけ時には、A4判のファイルがすっぽり入る大きさのトートバッグなどが便利です。今は、山響マークの、小さく折りたためる合成繊維のものを愛用していますが、もう一つしっかりしたものがあってもいいのかも。例えば米沢の「牛や」の日乃本帆布(*)の製品など、ちょいと実物を見てみたい。春になって新しい車が来たら、週末農業の合間をみて、妻と一緒に足を伸ばしてみたいものです。

(*):有限会社三香堂~日乃本帆布×牛や

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佐伯泰英『白鶴ノ紅~居眠り磐音江戸双紙(48)』を読む

2015年02月05日 06時03分21秒 | -佐伯泰英
双葉文庫の新刊で、佐伯泰英著『白鶴ノ紅~居眠り磐音江戸双紙(48)』を読みました。前巻では、出羽山形の前田屋奈緒母子の救出のために弥助と霧子の師弟が向かっておりましたが、本巻では途中経過がごそっと省略され、その二年後、奈緒母子は江戸で無事に暮らしております。



第1章:「輝信の迷い」。利次郎と辰平は、それぞれ霧子・お杏と祝言を挙げ、豊後関前藩及び筑後福岡藩黒田家の家臣となっております。尚武館坂崎道場に残された田丸輝信は、自身の将来に悩み、焦ります。ところが、輝信の兄の一人次助は、金もうけがしたいと家を出てすでに武士ではなく、その地歩をしっかりと固めていますが、弟に十年の修業を無にしてはならないと諌めます。心優しく都合に合わせるのが得意な作者は、なんと早苗さんを相手方に配しました(^o^)/

第2章:「八朔の雪」。奈緒母子の江戸暮らしは、まずは順調のようです。奈緒さんは、職人として一流であるだけでなくビジネスの才能もあるようで、「最上紅前田屋」を開店します。商うのは紅染めだけでなく、口紅も製造販売するのだとか。ふーむ、紅花から色素カルタミン(*1)を抽出精製するのですか。そのためには大量の紅餅を必要とし、入手にはかなりの元手が必要なはず。バックについたのは、某今津屋か、あるいは出羽山形藩でしょうか(^o^)/

第3章:「秋世の奉公」。商売上手な奈緒さんの最上紅前田屋は繁盛し、武村武左衛門の末娘・秋世が本格的に手伝うことになります。現代風に言えば、アルバイト君が正社員に昇格したようなものか。「また一人、娘が旅立つのか」と呟く武左衛門の感傷は理解できなくもないですが、日ごろの行状を思えば「よく言うよ」の部類でしょうか(^o^)/
それよりも、久々に新たな登場人物です。豊後関前藩の新顔で、物産所に勤務することになった米内作左衛門さんは、なかなか頑張り屋のようです。剣の才能はそれほどでもないようですが、経理総務畑に強いという想定で、もしかして中居半蔵が亡くなるとか、その準備のための布石? 幕府のほうも、将軍家治が危篤状態にあり、今後どういう展開になるのかちょいと先が読めません。

第4章:「老中罷免」。老中・田沼意次は、田沼意知の城中刃傷事件による死去を受けて、急速にその力を失います。さらに、領地は減封、上屋敷は没収、本人は謹慎の沙汰を受けてのことでした。豊後関前藩では、権力中枢の動きとは関係なく、藩主実高と磐音が、旧姓小林奈緒の江戸での暮らしぶりを話題にしながら歓談します。しかし、だいぶ酔っているにもかかわらず、刺客の襲撃を軽く退けるなど、磐音クンは相変わらずスーパーマンです。むしろ看過できないのは、田丸輝信と早苗サンの進展もさることながら、次の権力者となる松平定信の腹の内でしょう。

第5章:「お代の還俗」。鎌倉の尼寺・東慶寺を訪ねた中居半蔵と磐音の目的は、藩主実高の正妻であるお代の還俗を迎えに行くことでした。奈緒の運命と殿からのプレゼントである紅板がお代の決意を促し、六郷の渡しで養子の俊次との対面となります。もとはといえば、嫡子のないことが原因となった夫婦の溝は、人柄の良い福坂俊次の存在により、解消されていくことが期待できます。

さて、残るはあと二巻。

(*1):紅花の赤い色素カルタミンを得るには…… 紅花の花弁を押し潰してもみ洗いし、水溶性の黄色い色素を溶かし出し、残りの花弁を練り固めて紅餅にします。この中に、水に不溶の赤い色素カルタミンが含まれています。草木灰等に含まれる炭酸カリウムを用いてアルカリ性の水溶液を作り、これに紅餅をほぐして溶かし、カルタミンのアルカリ塩にして溶かし出します。紅餅のかすを取り除き、きれいにしたカルタミンのアルカリ塩水溶液に酢またはクエン酸を加えて中和し、水に不溶のカルタミン色素だけを沈殿させるという原理で、得られるようです。

(*2):カルタミンの分子構造の推定は、丹下ウメさんとともに我が国初の女性帝国大学学士となった黒田チカさんの業績(1929)でした。後に、実はC原子を介した二量体の構造であることが判明(学位論文:PDF)しましたが、NMRなど機器分析の装置もない時代に、ほぼ正しい構造を推定できていたことに驚かされます。


【追記】
『居眠り磐音』シリーズで、奈緒さんがらみで、出羽国山形だとか紅花だとか、地元ゆかりの単語が出てくると、とたんにいろいろと調べ始めます。今回はカルタミンの抽出法と、構造決定の化学史でした。自分でも物好きだなあとは思いますが、こういうのがけっこう楽しいものです(^o^)/
まあ、山形在住の『居眠り磐音』ファンで化学専攻のブロガーの記事ということで、もしかしたら他にはない特徴かもしれません(^o^)/

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節分と「でん六豆」

2015年02月04日 06時04分21秒 | 季節と行事
昨日は節分。夜には豆撒きをした家も少なくなかったことでしょう。平均年齢の高い我が家では、さすがに「福は~内!、鬼は~外!」と叫んでの豆まきはいたしませんでしたが、格好ばかり袋入りの「豆」を用意しました。ただし、豆は豆でも、山形名物「でん六豆」。これが意外に美味しいのです(^o^)/
年の数だけ食べたらお腹いっぱいになってしまいますので、Excel風に表せば
 =2*round(age/10,0)
で計算して12個だけ食べました(^o^)/

と思ったら、な~んだ、6個入りじゃなくて5個入りじゃないか。
訂正。食べたのは2袋=10個でした(^o^)/

これをぽりぽりかじりながら、しばらくぶりにテレビのニュースを観ました。世間は殺伐たるニュースが多く、いやになってしまいます。若い頃に、年寄りが「水戸黄門」や「遠山の金さん」みたいな、勧善懲悪ステレオタイプの番組を見て喜んでいたのをバカにしていましたが、いざ自分がその年齢になってみると、要するに世間の現実にうんざりしていたのだな、と気づきます。元気で前向きな若い人たちを見るとこちらまで嬉しくなるのは、彼らの背中の向こうに希望が見えるからなのでしょう。

さて、今日は立春。暦の上だけではなく、少しずつ春の兆しが見えてきてほしいものです。「春は名のみ~の~風の寒さや~」早春譜の出だしのほうが実感があるようですが、でも南の方から少しずつ春の便りが聞こえてきはじめました。通勤の音楽は、フォーレの組曲「ペレアスとメリザンド」Op.80 を聴いております。

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川又一英『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読む

2015年02月03日 06時02分54秒 | -ノンフィクション
新潮文庫で、川又一英著『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読みました。NHK-TVの連続テレビドラマ「マッサン」で話題になっている、竹鶴政孝とリタ夫人を描くものです。全体は五章に分かれています。

第1章:造り酒屋の息子として生まれた竹鶴政孝が、大阪高工の醸造科に進み、清酒ではなく洋酒をやりたいと摂津酒精醸造所に入ります。そこで模造ウイスキーの製造に取り組みますが、先見の明のある社長の命令で、スコットランドにウイスキーの研修留学に出ることになります。

第2章:政孝のスコットランド生活を描きます。日本から来た政孝に、グラスゴーの王立工科大学の主任教授ウィリアムは一冊の専門書を紹介します。著者に会いに行きますが、高額な謝礼を要求され断られてしまいます。たまたまある蒸溜所の見学を許され、職工と一緒に実習をさせてもらえることになります。現場の装置の状況や実際の作業のノウハウをノートにメモしながら、どんな役でも自ら買って出ます。
そして、カウン家の末弟の柔術コーチを依頼されたことから、長女リタと親しくなり、さらに別の蒸溜所で実習を許可されます。この実習の後に、政孝はカウン家で日本の鼓を披露し、リタはピアノでシューマンのソナタを演奏します。シューマンのソナタ?もしかしたら、シューマンが若いクララにささげた、あの第1番(*1)?
だとしたら、その後の「オールド・ラング・ザイン」の日英合唱の場面の重要な伏線になりますね。そして、政孝とリタは、周囲の反対を押し切って、グラスゴーの結婚登記所で結婚します。

第3章:リタとともに帰国した竹鶴政孝は、本格的なウイスキー製造に乗り出しますが、経営的な観点から考える者と技術的な観点から考える者の議論は、どうもかみ合いません。これは、いつの時代にも変わらないようですね~(^o^)/
後にサントリーになる寿屋山崎工場からは独立し、政孝とリタは北海道に旅立ちます。

第4章:竹鶴政孝は、北海道余市で「大日本果汁」略して「日果」を立ち上げ、原酒の樽を寝かせながら太平洋戦争をくぐり抜けるところです。この時代、英国人のリタさんは、さぞや居心地が悪かったことでしょう。海軍監督工場の社長夫人という立場が、もしかしたら身を守ったのかもしれません。

第5章:戦後の復興の時代です。まがいものでない、本物のウイスキーが全国商品として認められるまでの、経営的な苦労が描かれます。なるほど、そんなふうにしてニッカは成立・成長し、仙台のニッカの工場も作られ定着したのですね。



NHK-TVの放送のほうは、大日本果汁でジュースの販売に苦労するあたりの場面に差し掛かっていたようです。どんどんストーリーが進んでいきますので、ついていくのに苦労します。それよりも、竹鶴政孝氏がグラスゴー留学時代に書き留めていた留学時代のノートがネット上で眺めることができる(*2)のですね。すごいものです。

(*1):シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」を聴く~「電網郊外散歩道」2007年12月
(*2):竹鶴ノート:ニッカウヰスキー80周年ストーリーより

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明治初期の留学生の行先

2015年02月02日 06時04分54秒 | 歴史技術科学
文部科学省の「学制百年史」(*1)によれば、維新後に海外への留学生は急増し、留学生の選抜や規律等について、必ずしも良好とは言えなかったようです。そこで、政府は、明治3(1870)年に留学生をすべて文部省の管轄と定め、官選と私願の2区分に分けて試験で選抜することとしました。こうした制度改革に前後して、国費で留学生を派遣します(*2)。

1871(明治4)年には、第1回として長井長義、柴田承桂、菊地大麓、矢田部良吉ら11名が派遣されています。当方がわかる自然科学関係とくに化学分野で主な留学先を調べてみると、次のようになります。


■長井長義は、阿波藩の藩医の家に生まれ、長崎に留学して精得館で西洋医学をマンスフェルトに、化学をボードウィンに学んだ後に大学東校に進み、医学を目指してドイツに留学することになります。駐独代理公使の青木周蔵に下宿を斡旋してもらい、ベルリン大学に入学、リービッヒの教え子であるヴィルヘルム・ホフマンに化学を学びます。ヘルムホルツの植物学に惹かれながら化学実験に没頭するうちに、本来の留学目的である医学ではなく、化学・薬学の方向に転換してしまいます。ホフマンは長井を大学に留めておきたいと考えてドイツ人女性のテレーゼを紹介、二人は結婚します。

帰国後は、医科大学薬学科の教授となります。明治18(1885)年に、漢方薬の麻黄からエフェドリンを抽出発見し、後に化学合成が可能であることを示し、多くの喘息患者の症状を緩和することとなります。塩酸メチルエフェドリンは、交感神経興奮薬として今も感冒薬などに使われ、重要な意義のある発見でした。また、日本薬学会を創立し初代会頭に就任、テレーゼ夫人とともに女子教育に力を入れ、日本女子大学校に香雪化学館を創設し、最新の実験設備を備えて、後に帝国大学に入学する女性第1号の1人、丹下ウメを育てます。

■柴田承桂は、漢方医の家に生まれ、藩医・柴田家の養子となります。藩の貢進生として大学東校に進みますが、承桂も医師の道ではなく、化学・薬学者の道を選びます。長井長義とともにドイツ留学生に選ばれ、同じくリービッヒ門下生であるベルリン大学のホフマンの下で有機化学を学び、ミュンヘン大学で薬学・衛生学を学んだ後に、1874(明治7)年に帰国して東京医学校の薬学科教授に就任します。日本薬局方(1886)、改正日本薬局方(1891)の編纂などに携わります。

1875(明治8)年と1876(明治9)年、文部省は、東京開成学校在学生の中から第二次留学生を選び、海外に派遣します。この中には、化学関係では松井直吉(明治8)、桜井錠二(明治9)、杉浦重剛(明治9)らが含まれています。

■松井直吉は、美濃国大垣藩の出身で、大学南校でアトキンソンに化学を学び、文部省の国費留学生として米国コロンビア大学鉱山学科に留学、帰国後は帝国大学工科大学教授、同農科大学教授兼学長などを歴任、明治38年には東京帝国大学総長をつとめます。



  (photo:桜井錠二)
■桜井錠二は、加賀藩士の家に生まれ、父が早逝したために経済的な苦労をしますが、加賀藩のお雇い外国人教師オズボーンに英語で教育を受け、大学南校~東京開成学校でアトキンソンに学び、選ばれてロンドンのユニヴァーシティ・カレッジのウィリアムソン教授のもとへ留学します。初年度から首席となって奨学金を受け、有機水銀化合物の研究でロンドン化学会の会員として認められます。1881(明治14)年に帰国後は東京大学理学部講師となり、教授に昇進しますが、師匠と同じく原子論の立場を取り、初等中等教育における実験及び理論科学の重要性と意義を重視します。東京化学会の会長、東京帝国大学理科大学長となり、後の理化学研究所の前身となる研究所の設置をすすめます。

■杉浦重剛は近江国膳所藩の儒者の子として生まれ、漢学洋学を学び、藩の貢進生として大学南校に進み、選ばれて国費留学生としてイギリスに渡ります。はじめは農学を志すのですが、日本の農業には役立たないとこれを放棄、オーエンス・カレッジのロスコウ教授のもとへ移ります。ロスコウ教授は、実験観察を重視した優れた化学教科書を執筆発行したほか、南北戦争で失業したランカシャーの労働者のために「人民のための科学講義」という講演・教育活動を行うなどの事績が知られています。このあたりは、ファラデーの影響でしょうか。教授は、若い時代にユニヴァーシティ・カレッジでウィリアムソン教授に習っていますので、その点ではリービッヒ門下の孫弟子と言ってもよいでしょう。杉浦重剛は、ここではなんとか続いたようですが、さらにロンドンのサウスケンジントン校やロンドン大学に移ったら神経衰弱になってしまい、四年後の1880(明治13)年に帰国します。この後の国粋主義的言動は、おそらく英国留学時代の挫折経験が影響しているのではないかと考えられます。



このように、化学関係の留学生の行き先は、ほとんどがリービッヒ門下生またはその盟友の弟子たちのところであったということが分かります。リービッヒが開始した「実験室を通じて化学を学ぶ」という流儀が当時の大学教育を革新し、続々と生み出されるその門下生たちが、多くの大学に教授として就任していたわけですから、当然といえば当然の話です。

(*1):学制百年史:文部科学省
(*2):四:海外留学生と雇外国人教師~学制百年史:文部科学省
(*3):井本稔『日本の化学~100年のあゆみ』(1978,化学同人)

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今ごろになってカレンダー

2015年02月01日 06時08分40秒 | 手帳文具書斎
自宅のデスクのわきに、毎年カレンダーを下げておりました。従来は、日産のディーラーの美麗なカレンダーで、風景とクルマを両方楽しめるものをずっと飾っていましたので、もうそこにあることが長年の習慣になっておりました。

ところが、昨年末には12ヶ月点検整備に出したのに、例年のカレンダーを貰えませんでしたので、デスクサイドの壁面ががらんと空いてしまっていました。電話が来たときなど、日付と曜日を確かめようと振り向いても、あるべきところにあるべきカレンダーがない。これはけっこう不便です。

ふと思い付いて、先日契約した某ディーラーの若い営業さんに、今年のカレンダーが残っていないか聞いてみたところ、一本だけ残っているとのこと。ラッキー! 印鑑証明書を届けるついでに、カレンダーをもらってきました。

今ごろになって、ようやくデスクサイドの壁面にカレンダーが下がりました。やっぱり落ち着きますし、便利です。

さて、2015年も、早や二月。冬の厳しさも、正念場です。ここをなんとか辛抱すると、春の兆しが少しずつ見えてきます。

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