
(美しいジュリ馬の女性、戦前の沖縄の遊郭の女性たちの美しさに圧倒されます!)
沖縄の戦前の遊郭街もソープランド街になっているが、その街でみかけるボーイさんたちの素顔が少し迫ってきました。女王のような綺麗なソープのお姉さんたちの営業を支えるボーイさんたちの日常、たいへんそうです。吉原で8万円という高値のソープの実態が少し見えてきたような気がしました。
遊里、遊郭、料亭、Aサインバー、戦前はさかなやなども沖縄の糸満、与那原、名護、平良、石垣、大島などにもあったのですね。
家父長制度の存続、有史以前から性の解放区を二律規範で生み出す人類史のありよう、性、生、死、カオス、幻想などなどいろいろ考えさせられます。遊郭の芸妓の美しい女性たち、歌・三線、箏、舞踊に長けた芸能者たちは娼妓でもあったー。遊女歌舞伎のおよそ「20~30年」の素顔とも被るのですね。
電子版は平易な表現で仙台から東京の吉原のソープで働いた50歳のボーイの日常の大変さが迫ってきます。ボーイさん、けっこう重労働だとわかります。一気に高額の収入を得るために、裏商売があるのだということ、何時の世も社会の裏の悲哀も美しさも満ち満ちているのですね。今取り組んでいる近世から近代の遊里遊郭を考えるとき、現在も本質的なところでの「変わらなさ」があるのだと、納得させられます。どの道にも其の道のプロのシビアさがあるのですね。風俗の女性たちがやはり変わることなく性行為をビジネスにすること、その仕事がまた管理され、データー化され、顧客に反映されていくこと、人気稼業の高収入の陥穽があり、長期にはできない身体との闘いがあるのですね。
頭脳ではなく身体をワークにする職業、表象的なものも含めて、有限の身体の極度とのかねあいのある悲哀のメロディーが流れているのも宿命のようなものなのだろうか?最も、どの仕事も生身の身体の条件や状態が基本になります。ただ肢体が不自由でもホーキング博士のように、明晰な頭脳で天文学、物理学を解明していきます。頭脳が意識の総てでもないのだろうけれど、身体はその着物のようなものでしょうか?生きていくための欲望を充足するために作られる性ビジネスだが、それはまた表のシステムの維持装置でもありつづけるのかもしれませんね。ボーイの目から見たソープのリアルな姿は必死に家族を守ろうとする50代男性の生きる闘いの現場でもあったのですね。那覇のソープ街辻の鏡寺に行きたくなりました。最近花の台の仏壇に手を合わせてなかったので、いかなければです。わたしがまとめているのは戦前そして戦後もたくましく生きたジュリへの鎮魂歌というより、彼女たちが担ってきたものを表に出してそれをしっかり歴史に刻む事なのかもしれないなー。埋もれているものをどれだけ表に掘り出せるかですね。時間があまりないのでした。
次はKindleでソープで働いた女性たちの人生を読もう。現在を知るためにー。