goo blog サービス終了のお知らせ 

志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

【しまくとぅばは今・・・】フォーラムの中身です。全体をパンフレット用に要約したものですがー!

2011-09-06 22:50:29 | 言語

【しまくとぅばは今・・・】フォーラム
基調講演者、パネラーのご紹介

<基調講演>
 宮良信詳氏:1946年石垣生まれ。1969年琉球大学卒業後ハワイ大学大学院修了。マサチューセッツ大学博士課程修了(PhD)。現琉球大学教授。2011年3月琉球継承言語会を設立し会長に就任。6月に那覇市文化協会「ウチナーグチ部会」会長に就任。NPO沖縄語普及協議会顧問、日本英語学会評議員。著書『うちなーぐち講座:首里ことばのしくみ』他多数。

<パネラー> 
 平田大一: 沖縄県文化観光スポーツ部部長。笛、太鼓、三線と駆使して個性的な詩の朗読会を開始、1000校を超える公演を実現。2000年、うるま市の「肝高の阿麻和利」を演出、現代版組踊シリーズを展開した。2005年に那覇市民会館芸術監督に就任。タオファクトリーを立ち上げ、教育で地域を文化で産業を興す社会企業家として注目される。今年4月、仲井真知事に抜擢されて県の部長に就任。

 宮里朝光:沖縄語普及協議会会長。1924年那覇市首里生まれ。昭和19年沖縄師範学校卒業。首里第2国民学校訓導。昭和60年那覇市立城東小学校を最後に定年退職。平成12年沖縄方言普及協議会(現沖縄語普及協議会)を設立し会長に就任。首里振興会顧問。那覇市政功労賞、県観光功労賞。著書に『沖縄文化史辞典』など多数。

高良 勉:詩人、批評家。1949年玉城村(現南城市)生まれ。静岡大学理学部化学科卒業。前県立高校教諭。詩集『岬』で第7回山之口獏賞を受賞。NHK生活人新書「ウチナーグチ練習帳」の中に記述されている「言語は文化の遺伝子」というキーワードがこのフォーラムのテーマに重なる。批評家としての評価も高く今年7月に「魂振りー琉球文化・芸術論」を出版。他詩集など著書多数。

 大田守邦:沖縄芝居実験劇場代表。1969年那覇市生まれ。琉球舞踊・琉球歌劇の伝統芸能を中心に組踊、沖縄芝居、ミュージカルなどジャンルを超えて幅広く活躍。曾祖父は玉城流創設者で沖縄の近現代芸能史に功績を残した玉城盛義、祖母は乙姫劇団の女優・演出として活躍した玉木初子、玉城流二代目玉城秀子に師事。平成21年度高円宮陛下記念地域伝統芸能賞受賞、沖縄タイムス芸術選賞映像・演劇部門大賞受賞。

山城直吉:那覇市文化協会ウチナーグチ部会会員。1946年石垣市生まれ。復帰後の1973年沖縄県職員に採用され、八重山支庁の次長、首里城公園管理センター所長などを経て平成19年に定年退職。八重山古典民謡保存会師範、「香辛料のピィパーズを生かす会」会長。今年7月から一ヶ月間沖縄県対米放棄請求権事業協会の事業でブラジルに派遣され「しまくとぅば」を収録。

 船越龍二:沖縄テレビ放送・取締役報道制作局局長。1959年那覇市生まれ。1982年沖縄テレビ入社。制作部報道部、東京支社などを経て今年取締役報道制作局長に就任。「南半球 もうひとつの沖縄」など報道特別番組を制作している。父親は『戦争・辻・若者たち』など多くの著書をもつ船越義彰氏。

 <コーディネーター>
 与那覇晶子:1983年カンザス大学大学院国際演劇科修了。現在、琉球大学大学院地域比較文化研究科でSexuality & Genderの観点から「女性の表象」について博論に取り組む。演劇評論家、大学教員。論文に「演劇に見る琉球処分」「『八月十五夜の茶屋』の原風景」など多数。真喜志康忠著『沖縄芝居と共に』の編集・解説を担当。IFTR/FIRT国際演劇学会、多言語社会研究会、沖縄文化協会会員。

*****************************************

与那覇
 グスーヨー チューウガナビラ。ワンネー ウチナーグチヤ イッペー ディキランヌー ヤイビーシガ……。実は2002年に、沖縄芝居の名優、真喜志康忠さんの『沖縄芝居と共に』という本を一緒に編集して解説を書きました。その時はやはりウチナー方言と書いています。琉球大学で真喜志先生は、約12年間沖縄芝居の講座を教えていらっしゃいました。私は約7、8年おつき合いさせていただいたのですが、先生の物凄い情熱と絶望をそばで見てまいりました。組踊から沖縄芝居、そして現代劇まで対象にして研究・批評する者ですが、いかにうちなーぐちが大事かということをひしひしと危機感を感じながらこの場にいるわけであります。先ほど宮良先生の「ウチナーグチは方言ではない、独立言語だ」という力強い宣言を受けて、強く頼もしく感じているところです。早速フォーラムに入りまして、パネリストの方にお話していただきます。まず最初に平田さんからお願いします。

平田
  私は4月1日から県庁職員になりまして、文化観光スポーツ部という新しい部が出来ました。ほんとにまれにみる人事で、42歳の新人部長です。県では平成18年3月に「しまくとぅばの日に関する条例」が制定されて県民のしまくとぅばに対する理解、関心を深め、その普及、継承を図るための事業を展開してきました。平成18年度は非常に多彩な催物がありまして、条例制定記念式典として「しまくとぅば講演会」や舞踊、民謡、伝統芸能の舞台など開催しました。平成19年度から21年度まで一般県民を対象に「沖縄芝居体験講座」、9月18日の「しまくとぅばの日」に合わせて「しまくとぅば劇場」を開催し、その中で沖縄芝居、沖縄芝居体験講座、受講生の成果発表も行ないました。
 さて現在は地域でのしまくとぅばに関する取り組みの活性化を目的に、各市町村でしまくとぅばワークショップを実施、ワークショップは多くの子どもたちが参加しています。平成23年の取り組みですが、今日行なわれているこのフォーラムも喜劇「ウチナーグチ万歳」も県が今年採択した事業の一つです。文化芸術振興、産業創出支援という新しい事業ですが、公募したところ一次、二次合わせて80件ほどの応募の中から選ばれた事業です。
 これを筆頭に、県の文化協会が主催する「しまくとぅば語やびら大会」や、しまくとぅばプロジェクト、しまくとぅばの普及、継承、保存、記録活動事業も展開していきます。今年はウチナーンチュ大会もあります。ウチナーンチュ大会の連携イベントとして「NPO法人うちなぁぐち会」主催の「語やびら世界大会」など予定しているようです。その中でちょっと心配なことは一つ一つの事業予算が少ないことですね。例えば250万、170万、150万となっており、シマ言葉を広げる意味で力を入れるならば、県としても予算をしっかり組んでいくべきじゃないかと考えます。ちょうど今、来年から10年間の新しい沖縄振興計画が始まるのですが、その中の21世紀ビジョンという中で新たな取り決めとして「しまくとぅば力向上プロジェクト」ということで、大きな予算をしっかりかけて、これから各地域にあるしまくとぅばを一つ一つていねいに10年かけて拾い上げていきたいと思っております。

 与那覇
 力強い宣言だったと思います。続いて宮里先生にNPO沖縄語普及協議会の活動報告をお願いします。

宮里
 ワッターイッペー沖縄語流行(ヘー)ラスンチ、ハマトールチムイヤシガ、ナカナカ流行(へー)ランセー、沖縄人(ウチナーンチュ)ヌ思(ウ)ミーヌヨーサルバーヤクトゥ、ナーフェー沖縄語カイ気(チ)ニカキティ使(チカ)ランデーナラン。ディウムイ、クヌ「しまくとぅばの日」ディシガディキトーセー。ワッターNPO沖縄語普及協議会ガ初ミテ作タシガ、ナマヌ字ンカエー、昔(ンカシエー)村(ムラ)ンディ言ユイ、マタ、村ヌクトー島(シマ)ンディ言ユタン。
 道隔(ミチフィジヤ)ミティ言葉(クトゥバ)ヌ変ワインデユルクトゥ、隣(トゥナイ)ヌ村トゥン言葉(クトゥバ)変ワトータン。ヌーガンディイーネー、ダー皆(ンナ)沖縄人ルヤクトゥヤー、皆ターガンムッチョール共通ヌ文化ガアシガ、マタ、ナームラムラ ドゥクルシ作テールムチメーヌ文化(ティーカタ)、独特の文化ヌアン。ウレー、他村カイヤネーングトゥ、ウマヌ村ヌシマクトゥバシドゥ言ヤリール。ヤクトゥ隣ヌ村トゥン言葉ヌ違ティチューン、ヤシガ、互イニ行チュ通イスクトゥ、ワカイシガヤー。遠クナイシデーニ解グルクナティ、カーマヌ村トークトゥバーワカランナイタン。
 国頭(クンジャン)ノチュヌ、島尻(シマジリ)ヌクトゥバーワカラン、島尻ンチュヌ国頭ヌクトゥバーワカランセー、ウヌタミヤンディウムイン。
 クヌヨーニ、シマクトゥバンディイセー、ナームラムラムルチガトーシガ、ウリマトゥミティ言ユル場合ヤ沖縄語ディ言ユクトゥ、沖縄語ヌ中ンカイヤ、マーヌ村ヌシマクトゥバンムルイッチョークトゥ、ウチナーグチディ言チンシマクトゥバ言チンイヌムンディ思テユタサンディ思イン。シマクトゥバンデ言イシエー、生マリジマヌ文化イルクトゥバヤクトゥヤー、祖先(ウヤファーフジ)ヌ難儀苦労(ナンジクンジン)チュクテールミヤル。ウリネーンセー、ナラノーアラニ。
 シマクトゥバ使ティ、ドゥヌムラヌ、文化、掘リウクシールンセー、若者(ワカムノー)ワッワーヤウガンスオー、アンシスグリトール文化作テータル喜(ウ)ッサシ、祖先アヤカーティ、祖先ヌ作テール文化モトニ、ナーヒンスグリトール文化作ティイチールセー、如何(チャッサ)村(ムラ)文化発展(サケーティ)イチュガ、村興しカイナユンドー。
 ウヌフージーシ、ジヒ皆(ンナシ)ドゥヌ生マリジマヌシマクトゥバ使ティ生マリ島ヌ文化、ネーンナサングトゥサナ。
 ナーティチェー、ウチナーンチョー、ムル他県人(ヤマトンチュー)ヌ言ルママニナティヤー、ナーイチデージナトーン。
 
与那覇
 宮里先生ありがとうございました。本当にウチアタイするお話でした。宮里先生の原稿、全部ウチナーグチで書いてあるのですが、その中で文化ということばはティーカタと言うんですね。初めて知りました。このあと質疑応答でもいろいろ教えていただきたいと思います。次は高良さんに、文化遺伝子としての沖縄語(ウチナーグチ)、基本的な言語観を含めてお話お願いします。

高良
 沖縄県が2006年に9月18日を「しまくとぅばの日」として、条例制定してから、今日は5周年の記念フォーラムをやっている訳ですが、この5カ年間のウチナーグチ、シマクトゥバをとりまく状況をみると、私は隔世の感がして、いよいよ琉球諸語復興期、しまくとぅばの新時代に入ったなぁと感じています。
 その理由を3つ挙げておきます。
 一つは2008年10月30日に国連が「琉球民族は先住民」と認定して学校教育の場で琉球語や琉球文化を教えなさいという勧告をやったことですね。
 二点目は翌年2009年に国連のユネスコが琉球語は独立した言語である、世界で危機に瀕している2500の言語の一つだから大事にすべきだという。つまり、もはや琉球諸語は日本の一方言であるとの学説、俗説は成り立たない時代が来た。奄美諸島から宮古、八重山、与那国島に至るそれぞれの言葉は独立の言葉だから、人類の宝物として守りなさいというこういう時代に入ってきた訳です。
 宮良先生の講演につけ加えて3つ目に、昨年11月に組踊がユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。さらに多良間島の八月踊りも今候補に挙がっています。組踊が世界文化遺産に登録されたということは、大変なことなんです。その重要さがまだお互いに十分広まっていないじゃないかと思われます。私は実は2000年前後に県教育庁文化課にいまして、例の琉球王国の城及び関連遺産群を世界遺産に登録する事業の事務局をやっていました。首里城跡をはじめ斎場御嶽、園比屋武御嶽等、9つの資産を世界遺産に登録したわけです。その作業でわかったことは、世界遺産に登録することはどういう意味があるか、つまり琉球の、沖縄の文化財は人類共有の宝物ですよ、ピラミッドや万里の長城と同じように全人類の共有財産として全人類のために、人類の続く限り、永遠に保存活用する。その重要な意味があるんですよ、ということ。そうすると組踊が世界無形文化遺産になるということは組踊も永遠に人類の続く限り、人類の共有文化遺産として保存、活用しなさい、ということなんです。
 では組踊を支えている舞踊、地方の音楽、唱えのセリフ、これを守るためには一番根本であるウチナーグチ、琉球諸語を守らんと話にならんわけですね。これから、子、孫の代まで世界から誰かが来て、組踊について説明してご覧と聞かれたら誰でも説明できるようにならんといけない。組踊の唱えをやってご覧といわれたら、誰でも応えられるような子どもたちを育てないといけない、という話なんです。私はそういうものを、そういう琉球諸語は伝統文化の一番核心点である大事な文化遺伝子であると表現しています。先ほど宮良先生もことばは1300年位前に使っていた言葉が現在に残っていると話していましたね。そういう風に遺伝子というのは人間が続く限り一万年、何万年とくぐりぬけてくる大事な情報伝達の機関であるわけです。今は1300年前の話をしましたけど、この琉球諸島には、縄文時代から数える少なくとも5千年、7千年前から人間が住んでいたわけです。その人間たちは何を考え、どんな言葉を使って、そして現在の私たちに何を与えているか。その遺伝を解くカギが実は言葉、琉球諸語にあるわけですね。そういった意味でわしたしまくとぅばは、人類共通の宝物です。

与那覇
組踊がユネスコで無形文化遺産に登録されたことの意義の大きさを話されました。次に実演家としてまた演出家として現在の沖縄芸能を力強くリードしながらかつ玉城流を支えていらっしゃる大田さんにお話をしていただきましょう。

大田
  私は芸能の一家に生まれ育ちまして、子どもの頃、物心ついた時から沖縄の音楽、お芝居のセリフとか聞いて育ってまいりました。それで三線とか沖縄の音楽には全然抵抗がなくて、たまに夜遅くまで遊びましてタクシーの中で〝暁(アカチチ)デービル〟を聞くと、昔、おじいちゃん、おばあちゃんの家に泊って、朝起きたらそれが流れていて、すごく心地よくて胸がキューンとなるような思いでした。夜明け前の白々としている頃に沖縄民謡を聞くとすごく当時を思い出しました。こういう思いで沖縄民謡を聞ける人が僕らの世代でどれくらいいるのか。僕らの世代は殆どウチナーグチはしゃべらないんです。学校の教育の場でも郷土の文化、戦前の琉球王朝の歴史など殆ど学んだ覚えはありません。私は子どもの頃から芸能をやっていたんです。今でこそ県立芸大とか男性舞踊家、男性の実演家が増えているんですが、当時はとても恥ずかしい。女の人がやる芸能という感じでした。友達に「お前舞踊やっているのか」と聞かれると「イヤ」とか何とかいってはぐらかす自分がいたんですね。今はとてもいい時代、沖縄の芸能が認められて、私たちがさせていただくことはすごく嬉しいことです。
 私は「バーテー」世代なんですね。当時おじいちゃん、おばあちゃんたちが使っていたウチナーグチを自分たちの仲間で流行っていた「バー」「テー」というんですね。「バーヨー」ということばも普通に使っていました。
 私がなぜこういった形で芸能の世界にいるかといえば、きっかけは沖縄芝居ですね。私、大先輩の真喜志康忠先生のときわ座でまず最初のお芝居にチョイ役から出させていただいて勉強しました。私は今、沖縄芝居実験劇場の代表をしていますが、一番最初、真喜志康忠先生、北島角子先生、兼城道子先生、間好子先生とか大先輩方がバリバリやってらっしゃる頃に共演させていただいたんですが、その頃の台本は大和グチで書かれているんですよ。それを先輩の所へいって、訳してもらって、一生懸命覚えてやったんですけど、先輩方の流れるような、歌のようなウチナーグチを目の当たりにして、なんて素晴らしい、なんて美しい言葉なんだろうと思いながら、ずっとやってきているわけなんです。お芝居や組踊の唱えなど演ってきているんですが、まだまだ普通にしゃべるには程遠くて、英語をたどたどしくしゃべっているような状態かなぁと思っているんです。せっかく沖縄にこういった素晴らしい言葉がある、美しい言葉があることを認識してこれからもっともっと勉強して、しっかりと先輩方とお話できるように、舞台だけでなく勉強していきたいと思います。私が若い頃、先輩方から教わっていたように私も後輩たちにこういったウチナーグチの素晴らしさ、美しさを伝えていけるようにしっかりとやっていきたいと思います。

与那覇
 では次に山城さんにお話いただきたいと思います。

山城
 私は7月5日から8月4日までほぼ一ヵ月ブラジルのサンパウロ、カンポグランデ、アルゼンチンのブエノスアイレス、ボリビアのサンタクルス、ペルーのリマ、それにロサンゼルスと5ヵ国を殆ど飛行機ばかり乗って行ってまいりました。目的は沖縄県対米請求権事業協会という県の外郭団体ですが、今危機に瀕している琉球諸語の話を書くことのできる人は非常に減っているので、後継者を育成しなければいけないということで、「書いて残そう島々のことば 琉球諸語継承事業」というのを平成21年度から実施しております。私は事業の審査専門部会の部会長という立場で今回参加させていただきました。概要を申し上げます。
 南米におきましては、沖縄に対する気持ちは非常に強く、沖縄を誇りに思っている方々が多く大変感銘を受けました。戦前、戦後、一世の方々のご苦労、小さなジャングルを切り開いて生き抜いた。例えばカンポグランデという町は殆どウチナーンチュだけしか居なかったそうです。ところが、今や74万人の大都会になっていて、近代的な道路、都市計画が立派にされていて、治安が悪いといわれていましたが、そんなに悪いとは思いませんでした。私は収録のため三泊しましたが、朝夕一人で散歩もしました。南米のウチナーの皆さんはウチナーグチを非常に大切にしておられます。この5ヵ国で84名の方々の声を収録してまいりました。これを全部本にしたりCDにしたりするのは無理ですが、ピックアップします。やっぱりウチナーの血は地球の裏側でも息づいています。三線も非常にたくさんありましたのでそれの鑑定もしました。地域の言葉が交じった混合語といわれる言葉もありました。中には日本語は全くしゃべれないが、ウチナーグチはしゃべれる人が5人位いました。
 このように各国を廻ってまいりましたけれども大変沖縄の言語文化が大事にされていることを身を持って感じてまいりました。会場にお越しの皆さんも是非、ウチナーグチを大事にして引き継いでいけたらと思います。

与那覇
 最後にメディア報道の面でこの間「ウチナーグチ」を応援してくださっている沖縄テレビの船越さんにお話をお聞きします。

船越
 私は小さい頃の体験ですが、首里のお年寄りから言葉使いでおこられまして、子どものことで軽口を叩いたんでしょうね。それ以来きちんとした形で使えないのであれば、方言は使っちゃいけないんだろうなぁといったようなことが刷り込まれてしまいました。また父親が那覇人(ナーファンチュ)で母親が首里の人間ですので、那覇はナーファグチ、首里はスイクトゥバ、何で那覇はクチで首里はことばなんだろうということも子ども心に混乱しましてウチナーグチというのはかくも複雑なものだろうかと思いました。もちろん友達の間とか気安い所では我々なりのウチナーグチは使うんですけど、こういったフォーマルな所では使ってはいけないであろうとずっと骨身にしみております。
 私のこうした状況と我々テレビの仕事が似たような状況にありまして、最近沖縄テレビでは若いスタッフが中心となって月曜夜7時から「ゆがふーふー」という番組を放送しています。ユガフーとサーフーフーを合わせた言葉なんですが、この番組の中で「ウチナーグチ数え歌」とかいろんなコントであるとか、若い人たちの感覚で遊んでみようと番組を作っているんです。非常に支持は得られていて、視聴者からの反応もいいと感じているんですが、中には苦々しくご覧になっておられる先輩がいらっしゃるだろうなぁと当然感じております。それから土曜日の6時から、生放送で「ひーぷーホップ」という番組があります。これはほんとにおしゃべり、ユンタクですね。ユンタクを中心にした番組ですが、今の若い人たち、20代、30代、皆さんの日常の言葉を使って、大和グチでもないウチナーグチと言われればそうかなというような言葉で展開している番組です。ここまでウチナーグチという言葉を何度も使っておりますが、「ホントニイッターガ使トールムンヤ ウチナーグチルヤルイ」と問われるとはなはだ自信はないですね。先程からありますように各地の言葉もありますし、本来とは違う使い方をしている言葉もありますし、結果的に乱れたウチナーグチを使っているんだよ、お前たちはとウチナーグチを乱している元凶はテレビだよと言われれば返す言葉もない部分もあるんです。テレビを通してウチナーグチというものに子どもたちも含めて親しんでもらうきっかけを作ってもらえればいいのではないかと思っております。もちろん影響力を非常にテレビは持ちますので、誤った使い方がないように演劇界の方々からアドバイスを仰いでなるべく誤用、誤った使い方をしないように心掛けているんですが、しまくとぅばというのはことほどさように、いろいろ先程もありましたが、道を隔てればもう違うといったようなこともありますので、多分100点はないんだろうなと思っております。そんな中、なんとかウチナーグチに親しむきっかけを作れれば成功かなと現在の目的は達成できるのかなというふうにやっています。
 今後もメディア、特にテレビは映像、言葉、音楽など総合的に感覚に訴えて、具体的なイメージを膨らませていただけるメディアだと思っておりますので、信頼を損なわない範囲でウチナーグチを楽しんでといいますか親しんで行く中で、皆さんの中にウチナーグチの体系的なものを作るべきではないかといった議論ですとか、そういったものが生まれてくると嬉しいかなと感じています。
 先人への感謝と畏敬の念を抱きつつではありますけれど、頑なでもなく誇りをもってウチナーグチと接してまいりたいと思います。

与那覇
 6人のパネリストの皆さんから多様な形のウチナーグチについてのお話がありました。それではパネラーの方々同志でご質問がありましたらどうぞ。それからフロアの皆さんからもご意見、ご質問を受けたいと思います。それでは船越さんからどうぞ。

船越
 もう少しお聞きしたいのは山城さんですが、南米で採譜された方々、一世、二世のバックグラウンド、どういった方々なのかお伺いしたいと思います。

山城
 この事業は対米協がやっている素晴らしい事業だと思っています。一世、二世の方が残念ながらいらっしゃらないんですね。小禄出身で91歳のおばあちゃんがいましてね、その方の純粋なウチナーグチが収録されています。これはとっても印象深い言葉です。こういう方々は数が少ない。20年前にこの事業があれば、もっと純粋なウチナーグチが収録できたんじゃないかと思いました。二世、三世の方が殆どで、一世の方で高校はこちらで出て南米に来たという方々もいました。ほんとの昔のウチナーグチをしゃべっておられた方々がもう殆どいらっしゃらなかった。先ほど少し触れたんですが、日本語は全然解らないけれど、おじいさんから習ったという方、日常的にウチナーグチを使って、これが日本語だと思っていたと実際にそういう方がいらっしゃいましたね。三世、四世の若い方は三線に大変関心を持って熱心に三線の勉強をしている姿はとてもいいと思いましたね。わたしも少し三線をやりますので、トゥバラーマを演奏しました。一世が少なく、二世の中には純粋なウチナーグチを話されるがそれ以外は話せないという方もいました。三世、四世は沖縄に対する、琉球文化に大変関心が高いという風な印象を受けました。

平田
 今の話と関連するんですが、四日前に私はブラジルから帰ったばかりです。ブラジルでは100年かけてハード事業を整備して、今、ソフトの整備をしています。二つの大きな事業を始めていると聞いて、一つは家系図のインターネット上のデータベース化、もう一つは香炉の灰を2000件分とっておくこと、これは100年後、自分たちのルーツを見失わないようにとっておくというんですね。彼らの発想力が素晴らしいと思うんです。これは母県である我々沖縄県民には欠けている部分だなと、言葉に関しても同じことが言えるんだなと感じました。

高良
 去年7月、ブラジルに行ってきました。移民の方々を訪ねて。90何歳の南風原町出身の新垣タンメーに会ってきたんですが、私たちが明治以後、戦後66年で簡単に失ってきた島の文化というのを移民先の皆さんは大事にしているなと思いました。ウチナーグチと三線と歌、踊り、それから空手、その5つはアルゼンチンだろうが、ブラジルだろうが、みんな誇りにして大事にしている。肝心な母県である私たちの島の方が大和化されて簡単に忘れ過ぎるんじゃないかと痛感しました。南米の二世、三世、四世の方たちも言葉はポルトガル語とかブラジル語とかスペイン語とかしゃべっているが、ウチナーの音楽とかエイサーを聞かせると体のリズム感というのが我々と同じように反応するんですよね。音楽とかリズムとかいう波のように水平に移動していくんですよね。周りが海に囲まれているせいかも知れません。南米に行ってもどこに行ってもウチナーンチュは反応するんですよ。

宮里
 ウチナーンチュは、大和ンチュのいいなりになってもう本当に可哀想ですね。識名御殿というすばらしい名前があるのに大和ンチュが識名園いえば、それでよしとして、しかも世界遺産に登録している。識名御殿はウチナームンですよ。世界遺産から取り下げなければいけません。そういうことは県の役人がしっかりやってもらわんと困る。博物館とか資料館とは違うんですよ。本当にウチナーの言葉はそれほどイヤなんですか?ヤナ言葉なんですか?そういうことがあるから沖縄の言葉というのはなくなるんですよ。沖縄の歴史文化を大事にするならウチナーグチを使いなさいとこう言いたい。
 この首里の言葉はシマクトゥバじゃないですよ。シマクトゥバといえば村ごとに違うでしょう。首里は昔20ムラありました。ムラ毎には変わりません。身分毎に変わった。だからそこに住んでいる身分によって言葉が違ったんです。首里の言葉はどうしても身分を意識する。だから昔流に言えば身分の低い人には敬語は使いたくない。首里の言葉を教えなさいといってもどの言葉を教えるか非常に困るわけ、しかし今はみんなに敬語使っても構わないと思うんです。これからはそうしましょう。

与那覇
 今、ほんとに転換期だなあと思いますね。新たな沖縄の文化を再構築する現在に至っていると感じます。それは1879年から1945年の戦争まで66年、戦後から現在まで66年なんです。転換地点に達しているんではないかと思います。
 沖縄芝居のこと、敢えて真喜志康忠さんを持ち出したんです。戦前ばかにされた沖縄芝居の役者ですが、彼らが作った芸能こそ今、沖縄の文化のコア(核)として成り立っていて、芝居小屋で組踊も継承されて来たんだと。やはり芝居の影響力は大きいので、県の方でももっと沖縄芝居を応援していただきたいなぁという思いです。
 それではフロアからの発言を受けたいと思います。

フロア女性A(主婦)
 実はしまくとぅばで感激した経験があります。娘がアメリカの高校にいった時ですが、しまくとぅばが懐かしいから、お母さんしまくとぅばを使ってということがあって、大学ノートにしまくとぅば、英語、日本語と対照表にしたんです。ところがしまくぅとばはいろいろあって英語に転換できないというんですね。その時にあらためて、しまくぅとばの豊富なこと、黄金のことばはなくしてはいけないと思いました。それから学校の授業でしまくとぅばの時間を設けてはどうでしょうか。週一回でもいいと思うのですが………。

フロア男性(地方公務員)
 糸満の役所に勤めている者です。学生の頃からしまくとぅばに興味を持って来た。これからどうすればウチナーグチを永遠に残せるかパネリストの先生方に伺いたい。

フロア女性B
 チューヌ質問ヤイビーシガ、ウヌ習シーニ教本が必要ヤイビーン。教科書、基本になるテキスト、小学生、中学生、高校生、大人(ウフッチュ)、教本チュクティクミソーランガヤー、平田さん。アンシ教本作イニン、マ—ヌ言葉サーニ作イガヤーリシガアラヤーンリ思イビン。マーヌ言葉サーニ習シエーシムガヤーンリン、一つの問題と思トーイビン。ナーティーチェー、ワーガ習チエーシ、ワラバーターヤ書チャビーン、ウヌ書チーニ、ウチナーヌ独特ヌ発音ガアイビーシガ、沖縄文字使ティ習シエーヤーンリ、ワンネー思トービーシガ、チャーヤイビーガヤー。ウレー表記の問題ヤイビン、3つ程お尋ねしました。よろしくお願いします。

フロア女性C
 何度も出てくることが、やっぱり子どもたちに伝えるために教えなきゃいけない、教える人は誰かというと、私はローカルのその集落のおじいちゃん、おばあちゃんたちだと思います。その人たちが使っていることばを教えなきゃいけない。教科書もありますが、CD、音、ウチナーグチは音です。やっぱり沖縄の言葉を聞いて私たちは沖縄のことを思うわけで、あれが文字になったらつまらない。リズムのある生きた言葉だと思うので、生きた人間がしゃべったそれも標準化されたものではなく、本当に使われている言葉を是非入れてほしい。やっぱり、地域のお年寄りを引っ張り込んで行くような形に是非、県が持っていけたらと思います。

船越
 先に答えさせていただきます、今のご意見は、まさしく我々が日常抱えている悩みでもあるんですね。テレビはあまねく、全ての皆さんに伝えなきゃいけない、という前提があるので、ウチナーグチ、しまくとぅばでやっていくには標準語をどこにスタンダードなものをおくのか、あるいはおかなくてもいいのか。言葉は通じれはいいというものではありませんね。味わい、ニュアンスも含めてのものだと思いますので勝手なこともできない。また、宮古とか八重山とかを置去りにしてしまくとぅばを使って放送するわけにはいかないという状況にありまして、今後、そういったものが、体系的にできて行くのか、その必要は逆にいうと細分化されたしまくとぅばでいくのか。その辺のウチナーグチのスタンダード化の必要性があるのかということを私もパネリストの皆さんに聞いてみたい。フロアの皆さんからの話もありましたが、その辺も含めてお考えをお聞かせいただければと思います。
与那覇
 それでは宮良先生、そして言語学の石原昌英先生もお見えのようですからさらに突っ込んだ、専門的なご意見を伺いたいと思います。宮良先生お願いします。

宮良
  言葉を教える際に、例えばテキストを作るのですが、そのテキストは、那覇や首里の言葉で作られると思います。那覇言葉で作られたテキストであっても教える地域の言葉に変えて教えていけばいいと思います。必ずしもテキスト通りに教えないで地域に合わせて変えて教えていくという方法もあると思います。 
 地域の多様性という部分は是非残したい。そういう努力をする必要があると思います。つまり地域の子どもたちには地域の言葉を地域の方々が教える。特に地域のお年寄りの言葉を子どもたちに教えたい。そのことで交流の場が出来て、地域の活性化に繋がり、子どもたちは地域の言葉を知ることで自分の地域を意識し、地域の文化や行事に対して誇りも持てるようになるのではないかと考え、沖縄語普及協議会を設立したのです。

宮里
 ウチナーンチュは「ンガー」といって生まれる。大和ンチューは「おぎゃあ」といって生まれる。同じ声を出してもそういうふうにしか聞こえない。「コケッコー」と聞く人もいれば、「コッコローウー」と聞く人もいる。それは母語によって変わってくる。いかに母親の胎教が大事であるかということです。胎教のままにしか言葉は聞こえないので、そういう一つの先入観でもってすべての人の言葉を聞くから母語のとおりにしか聞こえない。私の考えでは、琉球時代に話していた人の言葉は「琉球語(ウチナーコトバ)」で、それに対して県民が使っているのはこれが変化したもので、大和グチを取り入れて、発音も大和風になっているので「ウチナーグチ」と私は呼んでいます。他の人は違うと思います。
 戦前戦後の文字の読み書きができない人たちに手紙が来た場合、読めないから読んでくれと頼まれると書かれている通り大和グチで読むとわからない。ですからその場でウチナーグチに直して読んであげたものです。これは薩摩が琉球を支配することになって、それまでは琉球文を書いていたのですが、やめさせて、全部日本文にしたんです。候文や和漢混交文にしたんです。日本の書物はそのまま日本語で読みます。しかし説明はウチナーグチでやるわけです。記録とか手紙などは大和グチ、候文で書くわけです。でも読む時はウチナーグチで読む。これをみんな忘れているんです。

与那覇
 宮里先生のお話はすごく重要な核心をついていると思います。表記の問題です。かつては、候文と漢字の表記とウチナーグチの語りの二重構造の中にあったのですね。この表記と琉訓で読んでいくという二重構造というのを頭の中で押さえてほしいと思います。
 平田さん皆さんのお話を受けてどうですか。

平田
 しまくとぅばを残すこと、普及させることがいかに難しいかということを私自身感じました。恐らくフロアの皆さんも感じたと思います。地域ごとに言葉が違うように言葉に対する考え方も多種多様だなと感じられました。あらためて考えるのは沖縄県の役割は何なのかということです。沖縄県という大きな括りでいうと沖縄語の標準語みたいな話になると思いますが、県の中の地域ごとに市町村があり、市町村の中にもさらに小さな地域ごとの文化がある。それらを細分化しながら、僕ら県はもっと地域と密着していかなければならないなと感じました。それから県庁に入ってから五ヵ月経ちますが、県庁の先輩からは苦労すると思うよと言われています。行政の仕事には法の壁、組織の壁、予算の壁の三つの壁があると言われました。その壁と向きあいながら県の中で一つ一つ残すべきこと、やるべきことを進めていく。例えば今学校の中で「しまくとぅば」をということになれば、教育庁ということになります。文化観光スポーツ部からは切り離されてしまいます。こうした組織の壁がある中で頑張ってこれを横断的に「しまくとぅば」というものをやっていかなければならない。この認識が今日の一番の収穫であるし、文化観光スポーツ部の中に「しまくとぅば」のほとんどのものが所管されていますので、県の役割の中で責任を持ってしっかりとこの「しまくとぅば」に対する様々なことを一緒に考えていきたいと思います。非常に難しいことだと感じていますが、頑張っていきたいと思いますので、みなさんの意見もどんどん出してもらいたいと思います。ありがとうございます。

与那覇
 是非県は平田さんを中心に頑張ってほしいですね。

フロア女性C
 今日の話を聞いて私は喜んでおります。私は劇団むりぶしでいかに沖縄の方言を残すかということを考えてきましたが、一生懸命やればやるほど落ち込んでいきました。なぜかというと「ウチナーグチ勉強してヌーナイガ」という意見があったのです。これだけ価値のある沖縄語であるならば、是非、若者たちが使って喜ぶような機会を作ってください。沖縄語が世界に誇れる文化遺産であるということを広めて沖縄語を使うことはいいことなんだと教えてほしい。
 
大城立裕
 数十年来不思議に思っていることですが、私は標準語励行、方言撲滅運動の真最中に旧制中学を卒業したんです。我々の中学時代の方言弾圧と言うものは今の皆さんには想像もつかないことでしょう。学校の中では一言半句もしゃべれなかったが、学校の校門を出たら全く逆でウチナーグチばかりでした。そういう時代でした。ところが戦後になってその弾圧は終わりました。学校の先生によっては方言札を使った方もいたようですが、体制としての方言弾圧はなくなった。にもかかわらずなぜウチナーグチは滅びてしまったか。この矛盾をどう解釈すべきか。ある人はマスメディア、テレビラジオの影響だというが、私はそれは違うと思う。基本的には人口の都市集中化のせいだと考えている。いろんな地方の人が那覇や沖縄市などに出てきて全体の人口の二分の一を占めている。地方から都市へ人が集まってくると必然的に多くの人とのあいさつをする機会が増える。昔の村落時代の沖縄であれば、村落内の上下間系(歳上、歳下)はすぐにわかっていたのであいさつには困らなかっただろう。すなわち敬語を使うべきか使わざるベきか、ウチナーグチでいえばウーフーすべきかイーヒーすべきかという難しい問題だと思う。これは日本全国で同じ問題が起こっていて、明治政府、東京市民は、解決するためにていねい語が考えられた。ウチナーグチでもそれがあれば良かったと思います。それがあればウチナーグチの共通語が生まれると思います。ウチナーグチをどう教えるかですが、今日の学問的常識では首里ことばを基本にするということになるのではないか。その際地方出身の教員が苦労するでしょう。これからどこの言葉を標準にするか、あるいはエスペラント語のような新しい言葉を作るのか。さきほど船越さんのウチナーグチについて先輩から怒られた話がありましたが、これからは若い人が使う新しいウチナーグチに寛容になるべきだと思います。自由にしゃべらせておけばその内共通語ができると思います。
 大事なのは正書法です。ウチナーグチ特有の発音をどの字で表記するかという問題です。標準的な表記法を作っておかなければ学校の教育に差し支えると思います。

与那覇
テキスト化の問題ですね、表記をどうするかという問題ですが石原先生一言お願いします。

石原
 表記法に関しては、宮良先生を中心に研究を進めていらっしゃると思いますのでそれを待ちたいと思います。今いろんな人たちがそれぞれの表記法を考案してやっている状況です。そうなるとその表記法を解る人しか読めないということになります。そういう意味では統一した表記が必要だと思います。但しそれは宮古、八重山の言語にも通じるかというとそうではなくて沖縄本島地区に通じるものとなってくる。奄美、国頭、沖縄、宮古でそれぞれの言語で統一したものが必要になると思います。
 どういうふうにしまくとぅばを残すかという問題ですが、ニュージーランドやハワイの事例では「言語の巣」という取組があって、それは地域のお年寄りが地域の子どもたちを集めて、一日中預って地域の言葉で会話するというものです。そのうちに子どもたちが修得してどんどん大きくなっていって滅びそうになっていた言葉が復活したというものです。そういう意味では地域のお年寄りと子どもたちをどうつなげるかが問題となってくると思います。個人的には学童保育を利用して、その学童の場に地域の人たちが積極的に参加していって地域で子どもを教えるんだということで、地域の言葉で地域の子どもたちと接していけばいいと思います。もう一つ問題があって、親の世代がその地域の言葉を話せない場合、学童から家庭に戻った子どもたちがその言葉を使うチャンスがないということも考えられます。ですから親の世代をどうするかということを考えないといけないと思います。私もそうですが、方言を使ってはいけないという教育を受けてきた世代の意識改革も必要です。世代に応じた言葉の教育というようなものが必要だと思います。

与那覇
 ありがとうございました。示唆に富んだ内容で、親の世代、子どもの世代、お年寄りの世代をどう繋いでいくか、ある意味では地域活性化、文化力の養成ということになると思います。
 平田部長、「肝高の阿麻和利」、あるいは一連の現代版組踊の取り組みにおける地域活性化、文化力、子どもたちについて簡潔にまとめていただけますか。

平田
 現代版組踊は伝統的な組踊の入口まで連れていくということを目指しています。これを続けていくことで最終的には子どもたちが自分たちで沖縄にある古くて新しいものに気がついていくというきっかけ作りになることが大事だと考えています。今日の言語、言葉の話も入口まで連れていく部分とその入口からさらに奥に入っていく、二段階、三段階のステップがあるのではないかと思います。これまでしまくとぅばに関するいろんな議論があったと思いますが、今日は改めて強く県としても取り組まなければならないなと職員と共に感じています。今までも県の職員の皆さんも頑張ってきたと思いますが、新しい部になりましたので、さらに強化していきたいと思います。そのためにも今日お集りの先生方のお力を借りながら本気で取り組んでいきます。こういう語り多き場をこれからどんどん持っていけたらいいなと思います。ありがとうございました。

与那覇
 「王府おもろ」の継承者安仁屋眞昭先生一言お願いします。

安仁屋
 安仁屋ヤイビーン。チューヤいろいろな立場の方からいいお話ニへーデービル。
 ウチナーグチは生活の日常の言葉でないので、なかなか普及するのは難しいと思います。子どもたちは上から教えられても生活で日常的に使う言葉でないので難しいと思います。一つ提案ですが、今すぐはできなくても、大学入試に沖縄の言葉をいれることはできないでしょうか。試験ということだと範囲はどうだと色々と難しいことがありますが、沖縄独自の規格をつくってやればできると思います。是非平田部長が定年する前に実現していただけませんか。手始めに県立芸大の入試に導入したらどうでしょうか。

フロア女性B
 大学入試にそれが加わると高校や中学の先生も真面目に取り組んでくれると思います。ウチナーグチ習シシヤカ 英語の単語ティーチ習シシマシ。という言葉が教育庁の職員から出た時はびっくりしました。こういう考え方は困ります。提案ですが、「ディーサイ、平田さん、山城さん、県民運動シンジャビラナ。アノヨータイ、琉球処分リーチシマビーシガ ウチナーグチリーシムンリーウムイシービガ、沖縄語再生運動を起クチンジャビラナ」。その最初としてあいさつをリッカサイ、ウチナーグチシンジャビラ。「グブリーサビタン」「ニへーデービル」「クヮッチーサビラ」「マタンヤーサイ」そういう日常のあいさつをウチナーグチでする運動はいかがでしょうか。

与那覇
 いい提案だと思います。最近の若者は「おはよう」のあいさつもできなくなっている時代です。まとめに入ります
 フロアからとても建設的な意見が多く出て、これを機会に沖縄方言アイビラン、ウチナー独立語としての再生が今日から新たに始まったという感じがします。さきほど高良さんから言葉は文化遺伝子という話がありましたが、大城先生が「ウチナーグチ万歳」のパンフレットの中で『言葉は魂である。この魂である言葉を失ったらワッターヤウチナーンチュアイビラン』と述べています。そして明治以降、現在に至るまで私たちはその悲劇の中で生きてきました。先ほど宮里先生がおっしゃっていました1879年から戦争まで沖縄のリーダーはワッターウチナーンチュヤアイビランタン、アンシ先の戦争で15万20万の人が死んだわけですね。現在、復帰を経て、戦後66年目です。今新たにユネスコや世界が、世界のマイノリティの現況をみながら、沖縄の状況を温かく見ています。世界的な視点で人権意識、文化意識、それぞれの地域の言語や文化、伝統、歴史を大切にしようという流れの中に私たちはいます。学校のカリキュラムや今の県も含めて沖縄のリーダーの文化的センスは遅れていると思います。常にカリキュラムや法制化は遅れるのですが、そこはもっと大胆な発想で切り開いていければいいなと思います。意外にインターネットの世界では若い人たちがウチナー語に対してコンシャス、意識的になっています。これは新しい潮流です。ハワイではイマージョン教育が闊達で、大学までハワイ語のカリキュラムがあるという状況です。世界的に沖縄的な地域、その文化圏が持つ可能性が注目されています。ウェールズなど、ケルト文化圏でも、台湾でも中国でも色々な形で展開されています。宮良先生の大胆な「方言ヤアイビラン、クリヤワッター独立言語である」という報告を肝に命じて今日から明日へ、180度転換する沖縄を私は生きている間に見たいと思います。そこから新たな沖縄の本当の意味でのルネッサンスが始まるのではないかと思っています。本日は長い時間でしたが、ありがとうございました。一緒に盛上げていきましょう。みなさん本当にありがとうございました。ニへーデービタン。


**********
こちらに紹介したのは全体の6、7割ほどです。全容はあらためてご紹介したいと思います。割愛したものを含め冊子にまとめることができれば幸いです。

(このヤシの木はどこに生えているのでしょうか?)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。