(1955年、歌舞伎座の舞台)
「茶屋」がなかった沖縄で茶屋に近いのは【料亭】だった!だから【料亭15夜】の題名を見た時、その率直さに驚いた。人は自らの体験・経験に基づく感性を生き生かされている。ふとこの題の小説や演劇や映画が、歪められた沖縄イメージに塗りつぶされていることは、極めておかしくはない現象・表象なのだと思えてきた。そうだったのですね。
なかったものの題名がつく。それは芸者が極め付きである。沖縄に芸者が存在したのか?という問を立てると、戦前某料亭に芸者がいたことは知られているが、しかし沖縄の辻に芸者はいなかったと言えよう。芸者の代わりにジュリが存在した。尾類や女郎、遊女、娼妓などと漢字で形象された女性たちがいた。
今盛んに池上永一の『テンペスト』が批判の眼差しに晒されている。著名な琉球史の研究者による歴史的観点からの批判もネットで読めるようになった。時代考証をする方もまた歴史学者で、歴史家の間のコンセプトの違いがまた浮かび上がってもくる。たかがフィクションではないのか、ではすまないその誤謬・基本的歴史認識が問われているのである。
ファンタジーの面白さがある。近世末期の琉球王府を舞台に繰り広げられるラブストーリーは単純に面白くあっという間に分厚い二巻本を読んだ。物語は都会の女性をターゲットに恋物語であり、成長物語であり、女性のサクセス物語である。違和感があるとすると、ありえなかったホオウボクや花風や主人公の変身変化と王府内部での外交手腕や王の側室になってその子を宿すことなど、しかしファンタジーとしては面白いと思った。薩摩の在番屋敷の男性と真鶴の愛の物語にしても、ありえる、女性が願望する幻想の愛の物語になっている。それに対して歴史家の鋭い見かたは中国と薩摩という二重権力とのからみにも触れていかにも一方を揶揄した物語構成だとの指摘など、興味を惹いた。
同じようにこの『八月十五夜の茶屋』もまたリアルな沖縄の歴史認識に照らすとかなりの誤謬があるという事に尽きる。こんなことありえなかったはずだ、という一面もあるが、しかし、すべてが実際の現象と無縁かと問うと、そうでもない。フィクションの中に戦後の沖縄がちりばめられているのは確かだろう。そして美しい芸者ではなく元ジュリの女性の存在も浮かび上がる。ジュリが売買や寄贈の対象になっていた、という事実も無視はできない。戦争を反転させると見えてくる沖縄社会の隠部がまた浮かび上がってくるのはその通りなのだからーーー。
なかったはずのものがあったように描かれる。フィクションのエキスの中にあるものは何だろう?人間の属性がもっとも新奇なものに絡められる。まさに異文化接触の先端で強烈に迫ってきた対象、それが物語を書かせたーーーそれは美しい沖縄女性の存在だった?!
そしてスナイダーの関心は逆に蓋された沖縄社会の暗部をまた照らしたのである。その点でこの作品は永遠に上演され続けられるのだろう。
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9月10日、1時半から『八月十五夜の茶屋』の映画が上映され、13:55分から17:30ごろまでシンポジウムが開催されます。
場所県立博物館・美術館講堂
研究発表は各20分ほど、3人が報告した後、質疑などの時間もあります。多様な視点で捉え返すことができれば幸いです。