
10日の基調講演はPetra Kuppers(ペトラ・カッパー)のCultural Work and the Somaticでとても感銘を受けた。普段車椅子で移動する彼女が壇上にドカッと座って柔らかく講演する姿は、身体障害、精神障害あらゆる身体や精神の障害をもつ人間の毅然とした個の気品さえ感じさせた。と同時にいかに人間が小島を生きているのかという事、しかし人はつながりあえる。誰でもどんなスペースにどんな時の渦の中にあっても人は表現し集団で生きている昨日、今、明日に手を伸ばしあえる。表現できる。伝えあえる。
May I touch you?
【Journy to the Hoocaust Memorial in Berlin(ベルリンのホロコースト追悼への旅)】
は短い身体表出と詩の朗読劇だが、なぜか人が失いつつあるものを焼き付けた。私自身が失いかけているもの、失ったものなのかもしれない。
無数の棺桶があり、人が横たわり互いのお腹に頭をのせる。生きている。自由に呼吸しあえること、相手を自らの命の鼓動と同じように感じあえること、おそらくそこには相手を敵視して殺すという怒りは生まれない。
Express emerges from somatics! Why to me, somatics, and the honoring of breath, space, embodiment, are so vital to a disability aesthetics, and a political aesthetics of access.
Freedom of breath, Freedom of expression, Touch, Lovingkindness!

(即興のダンスが披露された!)
障害のある者たちが表現する自由スペースを主催する彼女ののびやかな精神、その声、そのことば、その空気に満たされた講堂の中に、次の可能性が満ちているように思えた。自信に満ちて障害を生きる。その体系・経験を言語化し、論理化し、表現する。割れるような拍手に包まれた。
そしてシンガポールのPaulの講演はArchipelagic Performance「群島のパフォーマンス」である。
人間の活動が地球の生態系や地質に大きな影響を与えるようになった産業革命以降の時期、群島の認識は新たな視点で世界をつなぎえるか?

【群島のパフォーマンスを詩的にお話したポールさん)
----temper our zeal for self-destructive innovationが最後のことばである。自らも破滅させかねない革新への情熱!最近群島という概念を日本の人類学者も提唱していた。その概念を誰が最初に概念として登場してきたのだろうか?世界の知のアンテナは今は即座に呼応しあっている!それが多様な分野で巡り巡る時代、夫々のパネルでグラスルーツという言葉も踊っていた。
Grassroots、草の根である。ネット時代の新たな草の根の運動、研究と文化的運動の連携が模索されている!と感じさせた。
博士課程の学生の研究発表も面白かった。
Gender Negotiations:Theories and Identities
は4人の博士課程、ポストドクの学生が発表した。結構面白かったのはハワイ大学院の中国人の発表でジェンダー化された聴衆とうことばなど、また北京オペラと歌舞伎の女形芸の背景・分析なども含め、アジアのPerforming Arts全体に敷衍化できるテーマも含んでいる。男性性や女性性など、日常と表象の落差など、中国共産党は北京オペラの女性キャラクターを女性が演じる方向へ転換している。戦前まで沖縄もそうだが、(現在の例えばパキスタンなどは特に現代劇でもほとんど男性だけの世界である)舞台の表象は総べて男たちの世界である。男が作ったフィクショナルな物語を男たちが演じてきたのである。長ーい、長ーい時が流れました。そして現在である!
歴史痕跡の豊かさと傷の両面が浮かび上がる。
それから
Feminist Research:Uncomfortable Attachments:Mournig, Memory Anger and Bare Life
はかなり論理的に組み立てられた4人の研究者の報告である。インパクトがあった。山城知佳子はこのセッションで登場した。時間が少ないので、彼女の創作の凄さまで見せる時間がなかったのがもったいないと思った。レベッカは彼女たちの本を英語に翻訳することを考えているようだ。そうでないかぎり世界に伝わらない!
そしてInternational Feminist Theatre and Performance:tradition, innovations and communities
である。それもアメリカ、インド、イギリス、日本の代表的理論家がダイアローグ形式で発表して興味を惹いた。
夕方はバスで大塚能楽堂へ移動した。そこで「善知鳥」うとうを見た。お能研究者の天野文雄先生の解説があり、アフタートークはお能のシテもご一緒でお能の新たな世界の広がりを感じさせた。スペースと時の広がり、あるモメントの広がりのようなものがそこに溢れていた!能楽堂はとても自由な空気が流れ、固定化した舞台様式ながらそこは新しいものが湧き出てくる感じがしていた。

(能楽堂はいつでも高揚感がある。海外の研究者の質疑が興味深かった)

(天野文雄先生、能楽師大槻文蔵先生、通訳を頑張った鈴木雅恵氏)
バスの中で韓国の女性研究者と懇意になってずっとおしゃべりしていた。彼女はシェイクスピアで博士論文を書いているのだが、韓国では批評を主に書いているようだ。韓国に戻ってすぐまたエジンバラの演劇祭に参加するという。日本は初めてという彼女が最初に大阪で行った所は韓国人が多く住む村だと言った。やはり舞台を見ることに拘泥しているのは分かる気がした。
もっと色々書きたいのだが、時代は暗い色に染まっているのはその通りのようだ。
スゥエーデンの研究者が話したのだが、結局は経済と政治に振りまわされるフェミニズム活動なりその表象があり、金持ちと貧乏人の格差の問題が大きいと!北欧も民族問題や格差、諸々、social democraticの政治潮流の陰りもありそうである。
さて今日はどんな感動と新たな知見に出合うのだろうか?
May I touch you?
【Journy to the Hoocaust Memorial in Berlin(ベルリンのホロコースト追悼への旅)】
は短い身体表出と詩の朗読劇だが、なぜか人が失いつつあるものを焼き付けた。私自身が失いかけているもの、失ったものなのかもしれない。
無数の棺桶があり、人が横たわり互いのお腹に頭をのせる。生きている。自由に呼吸しあえること、相手を自らの命の鼓動と同じように感じあえること、おそらくそこには相手を敵視して殺すという怒りは生まれない。
Express emerges from somatics! Why to me, somatics, and the honoring of breath, space, embodiment, are so vital to a disability aesthetics, and a political aesthetics of access.
Freedom of breath, Freedom of expression, Touch, Lovingkindness!

(即興のダンスが披露された!)
障害のある者たちが表現する自由スペースを主催する彼女ののびやかな精神、その声、そのことば、その空気に満たされた講堂の中に、次の可能性が満ちているように思えた。自信に満ちて障害を生きる。その体系・経験を言語化し、論理化し、表現する。割れるような拍手に包まれた。
そしてシンガポールのPaulの講演はArchipelagic Performance「群島のパフォーマンス」である。
人間の活動が地球の生態系や地質に大きな影響を与えるようになった産業革命以降の時期、群島の認識は新たな視点で世界をつなぎえるか?

【群島のパフォーマンスを詩的にお話したポールさん)
----temper our zeal for self-destructive innovationが最後のことばである。自らも破滅させかねない革新への情熱!最近群島という概念を日本の人類学者も提唱していた。その概念を誰が最初に概念として登場してきたのだろうか?世界の知のアンテナは今は即座に呼応しあっている!それが多様な分野で巡り巡る時代、夫々のパネルでグラスルーツという言葉も踊っていた。
Grassroots、草の根である。ネット時代の新たな草の根の運動、研究と文化的運動の連携が模索されている!と感じさせた。
博士課程の学生の研究発表も面白かった。
Gender Negotiations:Theories and Identities
は4人の博士課程、ポストドクの学生が発表した。結構面白かったのはハワイ大学院の中国人の発表でジェンダー化された聴衆とうことばなど、また北京オペラと歌舞伎の女形芸の背景・分析なども含め、アジアのPerforming Arts全体に敷衍化できるテーマも含んでいる。男性性や女性性など、日常と表象の落差など、中国共産党は北京オペラの女性キャラクターを女性が演じる方向へ転換している。戦前まで沖縄もそうだが、(現在の例えばパキスタンなどは特に現代劇でもほとんど男性だけの世界である)舞台の表象は総べて男たちの世界である。男が作ったフィクショナルな物語を男たちが演じてきたのである。長ーい、長ーい時が流れました。そして現在である!
歴史痕跡の豊かさと傷の両面が浮かび上がる。
それから
Feminist Research:Uncomfortable Attachments:Mournig, Memory Anger and Bare Life
はかなり論理的に組み立てられた4人の研究者の報告である。インパクトがあった。山城知佳子はこのセッションで登場した。時間が少ないので、彼女の創作の凄さまで見せる時間がなかったのがもったいないと思った。レベッカは彼女たちの本を英語に翻訳することを考えているようだ。そうでないかぎり世界に伝わらない!
そしてInternational Feminist Theatre and Performance:tradition, innovations and communities
である。それもアメリカ、インド、イギリス、日本の代表的理論家がダイアローグ形式で発表して興味を惹いた。
夕方はバスで大塚能楽堂へ移動した。そこで「善知鳥」うとうを見た。お能研究者の天野文雄先生の解説があり、アフタートークはお能のシテもご一緒でお能の新たな世界の広がりを感じさせた。スペースと時の広がり、あるモメントの広がりのようなものがそこに溢れていた!能楽堂はとても自由な空気が流れ、固定化した舞台様式ながらそこは新しいものが湧き出てくる感じがしていた。

(能楽堂はいつでも高揚感がある。海外の研究者の質疑が興味深かった)

(天野文雄先生、能楽師大槻文蔵先生、通訳を頑張った鈴木雅恵氏)
バスの中で韓国の女性研究者と懇意になってずっとおしゃべりしていた。彼女はシェイクスピアで博士論文を書いているのだが、韓国では批評を主に書いているようだ。韓国に戻ってすぐまたエジンバラの演劇祭に参加するという。日本は初めてという彼女が最初に大阪で行った所は韓国人が多く住む村だと言った。やはり舞台を見ることに拘泥しているのは分かる気がした。
もっと色々書きたいのだが、時代は暗い色に染まっているのはその通りのようだ。
スゥエーデンの研究者が話したのだが、結局は経済と政治に振りまわされるフェミニズム活動なりその表象があり、金持ちと貧乏人の格差の問題が大きいと!北欧も民族問題や格差、諸々、social democraticの政治潮流の陰りもありそうである。
さて今日はどんな感動と新たな知見に出合うのだろうか?