王府時代、組踊「女役」≪女方≫が30歳以上はほとんど考えられなかったことでしょう。しかし現実には50代、60代、70代の女形です。その落差はオリジナリティーを追及する時、問題になりますね、歌舞伎と組踊とも異なります。歌舞伎は老齢の女形の遊女なり、お姫様の美が演じられています。
しかしオリジナルの王府時代の女形は若衆を中心に演じられた可能性が高く、せいぜい年齢的にも20代でしょうか?しかし、1719,1756、1800,1808,1838 1866年と演じられた機会は少なく、25作品が冊封使の前で演じられていますね。その中で女性の役柄は誰がどのように演じたのでしょうか?若衆でしょうか?
近代以降の変容があり、戦後の変容があり、復帰(1972年)以降の変容があり、古典化が今なされているのですね?オリジナリティーを求めるならば、多良間の組踊の形態になりますね。すり足ではなくなみ足で、女性の役柄は若い乙女たちが演じていますね。戦前はもちろん若衆(若い青年・少年)です。
お能、歌舞伎、狂言と多少類似性をもっていても異なる組踊ですが、王府時代の組踊の復元を目指す時、現況は多くの問題を含んでいるようですね。
茣蓙の上の三間四方のステージで、瑞々しい若衆の女形の芸を見たいものです。戌の御冠船でも茣蓙の上ですか?若衆たちの芸を見せてください、「国立劇場おきなわ」さま!
宮城能鳳さんの芸の鋭さを味わいながらも、やはり若衆の女形の美を見たいという思いは消えません。あるいは、女性舞踊家(組踊伝承者)の芸を見たいですね。仮設舞台の組踊以上に、士族層の屋敷内の座敷芸が多かったようですね。そして遊郭で盛んに「組踊」が演じられていた可能性は大きいですね。つまり言いたいことは、女性たちが王府時代から組踊、古典舞踊を座敷で踊ってきた可能性が高いですね!遊里の座敷で唱えたり、場面を演じたこともありえますね。
近代以降もそうです。ジュリ(芸妓)たちの中で上間郁子さんなどは、玉城盛重に抜擢されて「姉妹敵討」を演じていますね。ですから、現組踊の法的処遇の在り方は、問題があります。遊里、遊郭は芸が花開いていた空間だったと言えますね。若かりし頃の楽童が長じて辻や仲島の詰めジュリの妓楼で、組踊を唱えたり、実際に立って演じたり、踊ったりしたことが100%なかったと言えませんね。近代において琉球芸能は日本への同化の過程で卑下されていたのですね。古典音楽の大家の皆さんは遊郭で歌って踊って、解放されていたのかもしれませんね。そこで古典音楽の指導もした方々がいるのですよね。でもその中で継承されてきた芸、形をなしてきた芸の数々は、沖縄文化のコアになっていますね。
田中優子さんが論稿の中に書いているように、「遊郭と劇場がやはり都市の中心であり、都市生活の象徴であり、ー(略)-毎日が祭りである。ハレの日常化こそが都市というものの象徴だった」江戸時代ですね。近世、近代の沖縄、那覇の街も類似しますね。