志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

去年のこの時期、劇団「うない」は大阪で『月城物語』を成功させ、今年は『昔子守節』!男の真心《愛》!

2012-10-10 23:09:49 | 女だけのうちなー芝居劇団「うない」
《アンマー(仲里松子)、カナミー、太良:リハの写真》
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「うない」大坂公演は大成功!揺れる手に心極まる一日!
                 (舞台上から手を振る、会場の観衆もまた手を振る!手を振りあう劇場がある!)リハを見て心配したが、本番の舞台は大勢の手が揺れた。名残惜しげに揺れ...
 

 

沖縄芝居の中にはエキスのように時代の象徴的な社会や思潮が浮かび上がってくる。首里に支配されていた間切の村人との関係性が炙りだされてくる。支配階級の目線と百姓階級の目線がぶつかる。階層を超えるもの、内から瓦解させるものは人の志情でもあった。それは戦争や占領などの経験の中で人間が異文化と接触するようにその媒体構図の最たるものはまたセクシュアリティー=情緒《情動》的な人と人のつながりであることがわかる。《戦争の場合はレイプなど、戦後は娼婦と占領軍の関わりなどがある。もちろん公に結婚したカップルも多く誕生した。一方で性が暴力の牙をむき出し犠牲になった女性たちも多い。》

《階層を超えさせるものが身体性の中に秘められているリアリティーがある。欲望=性愛・情愛であり支配欲であり慰安であり快であり安寧である。》

許嫁のいる村の美しいみやらびが首里から来た里之子に惹かれて恋中になる。村の百姓にない色艶・素振り・気品に溶けていく村の美しい女の気持ちが痛く伝わってきた。

(侍階層の殿内での親子の対面、真実が明らかになる場面:リハの写真)

《支配する階層の男性は強く美しく頼れる大きな木でありその木陰でしばしの安寧を求め生きる縁を求めた女たち《百姓》の生きてきた道《愛》を、誰も倫理的に批判することはできない。一方で、その愛をしかし踏みにじる侍階層の女性たちの厳しいスタンスがある!》

許嫁を袖にして愛を交わし妊娠したカナミー《久米ひさ子》は首里に戻る侍のことばを信じ待ち続けた。「きっと迎えにくる」と真三戸は言い切った。しかし、待っても待ってもこない男を訪ねて素足で首里に向かった女は身重の姿で再会するが、その日は永遠の愛を信じた男の婚姻の日だったのだ!

真三戸は家族の意向に逆らえないままに婚姻の日を迎え、カナミーに首里の外れで待っているようにと伝える。しかしそれを漏れ聞いた母親は下男に耳打ちをしてカナミーを手篭めにするように計らう。そのカナミーを助けたのが許嫁の太良である。産気づいて赤子をガマの中で産み、太良の優しさに感謝のことばを残して死んだカナミーだった。

それから18年、一人で娘を育てた太良である。そして恋物語が繰り返される。美男の首里から来た里主(松金・比嘉いずみ)に一夜の宿を提供して恋仲になるカナミーの娘カナシー(祖慶しのぶ)である。そして二人は首里に登る。しかし、侍百姓の壁がまた立ちはだかった。そこで過去の真実が顕になる。金松の母親《嘉陽田早苗》はカナシーの実の父親《真三戸:佐和田君枝》の姉妹だったのだ。素性を明かして親子の名乗り。そして侍の娘だと判明した二人は幸せな結末(始まり)を迎える。しかし太良には悲しく嬉しい別れの時、そのモメントに「昔子守唄」を太良は唱う。カナシーの好きな歌である。その主題曲が生きている。太良は二度この歌を唱うのである。

泣かせる人情歌劇だが、背後に王府時代の身分制度がせり出す舞台である。その身分の過酷さはたとえば戦後沖縄でも侍階層の子孫は決して百姓階層の子孫との婚姻を是としなかったことからも伺える。母や叔母たちは同じ侍家系の子孫と婚姻していたのである!それが復帰後は変容したと言えよう。

リアリティーが背後で蠢いているからこそこの人情歌劇は心を打つ。

(中曽根律子さんと祖慶しのぶさんの名場面!リハの写真)

支配階層の人間(男たち)と被支配階層の女たちの愛(の行く末)の物語は数多ある。しかし、セクシュアリティーが階層を超えさせ、拡散《撹乱)し、新たな関係性を生み出すのは確かだろう。ゆえに規範の中の婚姻に王府時代も支配層がこだわったのだ。階層は秩序の維持であり王府の存立基盤にとって重要だったのだから。

それゆえに尚の事太良《中曽根律子》の志情が染み渡る。太良の存在は階層や身分を超越した人間の情けの立証ゆえに魂に訴える。この作品の凄さは太良の人情であり誠実であり、実直に愛した一人の女カナミーの忘れ形見を育て、将来侍階層の一員として娘の立身出世を願ったところにも現れている。

人の真心の在り処が問われているのである。愛の犠牲になった男だった。しかし彼の忍耐と愛情の形はセクシュアリティー=身体性を超えた美を放っているのである。

しかし、カナミーが実現できなかった愛を娘のカナシーが成就したことになりそれを支えたのが太良ということだが、体制に殉じた犠牲であったのかもしれない。侍と百姓みやらびの愛が実ることは、カナミーが百姓であったゆえに、ある垣根を超えたことにはなるね。男系相続であり系譜の支配構図の中にあったとはいえ、百姓の血が混じっていくことになる。それは撹乱《越境》の可能性とは言えよう。愛は制度を超える。


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1 コメント

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Unknown (なんくるなる‘りゅう’)
2012-10-11 10:22:50
愛は制度を越える・・・。

うちも初代は首里か今帰仁のお侍さんと徳之島在地の女姓(土地の有力者の娘だったかもですが)の仲が始まり・・・。

ストーリーを読んでいて遠い記憶が蘇る感じがします。

士族と百姓の愛物語は、当地沖縄でも受けのいいお話なんですね。
太良や船頭主の様な人格も。

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