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県立劇場、新設は当面なし?琉球弧の芸能文化の「核」として必要!

2012-10-11 22:56:27 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

郷土劇場が2009年に閉鎖されて以来県立郷土劇場の新設を要望するアンケートや署名活動がなされ、仲井真知事もその方向性を示した。「文化発信交流拠点整備事業検討委員会」は慎重な姿勢である。「旧県立郷土劇場と同じ役割・機能では、県民の理解も含めて新たに建設する必要性は低い」と結論づけた。

それに対し疑問が浮かぶ。ソフト面での建設的な取組み、現況の各地域のホールや公民館、文化センターなど、その現状の把握と共にこの間の文化運動がどう連携・機能していたのか、確かにもっと論じられるべきである。多目的機能の建物は建ったが実はどれも多目的で特化された琉球・沖縄芸能の個性を十二分に生かせない現況である。

「国立劇場おきなわ」そのものが、本来の三間四方の舞台で、三方から見ることができる伸びやかな空間をもっていない。額縁舞台にしても、舞台と観客席との距離が遠い劇場である。綺麗な歌舞伎も民俗芸能も文楽もお能も、琉球舞踊もあらゆる身体表象舞台を想定した劇場は、それゆえに新作組踊=現代劇にもっともフィトする劇場の体をなしている。この間見た中で幸喜良秀演出の新作組踊「海の天境」や現代劇「ラッキーカムハワイ」、嘉数道彦演出の額縁舞台「逆さま執心鐘入」「首里城物語」などが最もその劇場に相応しい作品に思えた。感動した。笑いがはじけてすすり泣きも聞こえてきた。

冠船芸能の復元にも曖昧な形態で、かといって明治以降の大衆芸能(額縁舞台)にも距離感をもった曖昧さである。折衷主義・事大主義的志向の産物としてそこに建っている。何でもありの舞台はなぜか劇場が本来の琉球・沖縄の芸能を矯正している場にも見える。額縁舞台はもはや舞台と観衆が一体間をもてる空間ではない。鑑賞の場であり沈黙を余儀なくされる場となっている。窮屈である。舞台に笑い舞台に泣き共に一体感がもてる祝祭的空間がなかなかそこから生まれない。まれにそうした体験はできるが、なぜかいつでも距離感があり続ける。琉球舞踊の取り澄ました美がもはや身近なものではなくなりつつある。舞台と観衆が心を添わせる場はどこにあるのだろうか?

それが郷土劇場=県立劇場だと考えている。可能ならば戦前の芝居小屋を復元してほしい。大衆演劇としての沖縄芸能を再現する方向性を持ち、當間一郎(沖縄芸能史研究会会長)が提言するように、沖縄芝居の研修制度を創設しないといけない。ウチナーグチの復興運動と共に、ウチナーグチ芝居を盛り上げる方法論を充実させる必要があろう。芝居と民謡は一蓮托生である。民謡もまた郷土劇場で大いに観衆の前で人気のある古典民謡や新民謡を披露しまた琉球舞踊も観衆の目線におりてくる踊を追求することも必要ではなかろうか?

ハイカラな劇場は大衆芸能に似つかわないのである。大衆芸能の天堂こそ必要なのだ!組踊劇場もそれだけに特化できる空間(劇場)をもったらいいと思う。

現在の国立劇場おきなわは歌舞伎や新作組踊=現代劇に相応しい。大胆なミュージカルや太鼓や古典のコンサートなどにもいいのかもしれない。しかしウチナー芝居は全く似つかわしくないのである。組踊もそうだ。見ながら拍手し、ヒーローイックな行為に声をかけ得ない劇場は誰のものだろうか?観光客を対象にした韓国のコリアハウスのような機能ならまだわかる。しかし地べたをはうような民衆の肝心、手足に届く芸能は戦前の芝居小屋の中にしか復元できないのではなかろうか?

笑い泣き声をかけ共に一体感をモテる劇場である。歴史の修復をそこからやり直す必要があろう。大胆な企画・思念の転換が必要なのだが、委員会のメンバーは組踊=首里方言と発言する研究者が中心だから、もはやそこに琉球弧の文化ナショナリズムを大胆に構築せんとする理念は感じられない。復帰後の沖縄の思潮を切り刻み、独自の州を自治を独立を希求するほどの気概をもった構想が必要だ。日本の中の沖縄ではない沖縄の沖縄を目指した新たな発想と取組が必要だね、などと思った。理念が見えない。どの方向を目指すのか、それも見えない。いつまでも日本中央を見上げる文化政策なのだろうか?琉球弧から日本へ、アジアへ、世界へ飛び出す心意気が見えない。残念だ!もっと世界の劇場と文化アイデンティティについて学習してほしい。県立郷土劇場ならではの目的があり機能があり文化記憶装置の自立性がありえるはずである。

紹介する記事は後半が切れているが参考になるに違いない。


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