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志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

仲間由紀恵主演「テンペスト」批評

2011-03-02 09:37:26 | 表象文化/表象文化研究会
沖縄から電話予約した千秋楽の席は最高にいいL19!おそらく1000人は収容できる劇場だろうか、後で確認したいが、舞台と客席は近く感じられ、大きな女性の子宮を感じさせる空間!設計者は劇場の意味性をうまく引き出した方だと思う。沖縄の国立劇場のあの冷たい形式ばった空間とは違う。ここには大衆の息吹を吸い込む空気が流れている。ただ休憩時間にレストルームに並ぶ女たちの列にはびっくりで、観客サービスという点でどうなのだろうか?15分ではなく、20分のわけが分かった。

ディフォルメされた物語はメロドラマになっていた。そして琉球王府の末期の物語だが、ありえない女性の男性への変身による王府の政治への関与、そしえあむしだれ(側室)になり王の子を産む。国難を解決しかつ女として薩摩の在番の一人に恋する。

小国琉球と薩摩、清、かつペリー総督との渡り合いがあり、時代の縦の線と横の線は兄と妹の物語であり、薩摩の男と琉球の女とのラブストーリーである。男の類型的なロマンがそこにはまたつらぬかれている。そして女もまた学問ができ仕事ができ母になり妻になり女としての幸せも得られる理想が描かれる。これは実は根底に女性たちへおもねるエールの物語であり、恋愛讃歌である。つまり待つ男がいる。一図に真鶴を求める男(浅倉雅博)のロマンで多くの女性たちの感情に訴えている。

二律背反する人間の存在、引き裂かれる身体と観念(感情・思惟)があり、いたる所に二元的な弁証法的な構図がちりばめられる。対立と止揚・統合のパターン、そして羽原大介の脚本はまた彼独自の世界感が網羅される。多くの日本の女性たちを対象化した言葉であり、時評があちらこちらで、聞得大君・真牛の台詞の中にそれば濃厚に出ている。事業仕訳なんてね、アメリカーにやがてお前たちすべてはやられる!ジュリではなくユタに身を落として予言者の力とことばを付与されて、最後まで馬天ノロの残したマガタマをめぐる物語にもなっている。そしてイメージ・メタファーは巨大な龍であり、龍の交尾などのことばがセンシュアルに感性を刺激する。東京に住み、日本人の空虚さを含めた官能する要因をうまく取り組んだ物語である。

ある面池上が八重山の出身だからこそ、日本人の空虚さがよく見えるとも言えるのかもしれない。しかし大衆迎合的な物語は美と教養の賛美である。陶酔感!確かに琉球王府のおかれた当時のグローバルな位置づけを現在に敷衍できないことはない。それは計算されつくされていると感じる。

舞台のスペクタクルの演出は、マンガ的な現在の若い女性に受ける身体・ダンスをまず提示する。沖縄の平田太一もそうだが、若者たちの踊りたがる身体と心をつかむ。しかもそれは群舞でなければならない。シンセサイザーの無機質的なメロディーに民謡や島唄がかぶさる。そこに微妙な現代の無機質性と地をはいずりまわる根の感性が融合する。

ホウボクの大樹に水をかける。戦後沖縄にもたらされた、輸入された大樹の下の愛の物語は美しい。しかしこの樹は何だろう?小説や舞台のフィクションがリアリティーを席巻する。これが現実、もはやリアルはアン・リアルに襲われる。嘘が現実を襲う。それを感受する。

しかしそもそもこの現実とは、人類の歴史は、巨大な怪物じみた虚構の産物ではないのか?
幽鬼的虚構を体系化し、真実の砦として、産業化され、化学技術も発展してきた。虚構の中の真実、それがどこへ向かうのか?少なくとも限られた命を生きざるをえない人間の属性はあまたの命の宿命をまた生き生かされているわけで、生きるための夢、ロマンスは常に麻薬のように必要なのである。

演劇とは何だろう?そして物語とは?魂(精神)のエキスは生きるエネルギー源!空疎・空虚な日本の浮遊感に水をかける!原初的な人類の集合的夢の現実、そこにまた人は(命薬)を得ているのも確かだろう。

資料収集のためにホテルを出る前にロビーのPCで打ちこんでいる。演技や舞台効果などについて沖縄に戻ってから書き留めたい。

テレビの仲間由紀恵さんのイメージが舞台でも素敵だったが、舞台の彼女は痛々しかった。華奢な身体が舞台で壊されることがありえるのかもしれない。幻想の大きさゆえにリアルな身体はまたーー?!

<赤坂ACTシアター内>

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