
昨夜ジュンク堂でフーコーの性の歴史I.II.IIIなどと買ってきた。そこで2時間も本の物色をしていた。久しぶりに書店でぶらぶらも悪くはないね。書いたい本が山とあって、貧しいポケットから2万円弱も買ってしまった。
『図録性の日本史』や絵葉書を集めた『遊郭をみる』も手にとってしまった。ジェンダー&セクシュアリティーをこれから掘り下げる。今始まったばかりで、この間横目で見ていただけだが、本気になって対象化しないと後がない所である。一応スタンダードなジェンダーやセクシュアリティー論をインプットして頭を整理する必要がある。性は生存そのものが性の営みの中でこの世に誕生したわけで、大きなテーマ、さて遊郭、遊女、尾類(じゅり)、近代演劇‥芸能、さまざまな表象、近代の帳のそのトポスにどんな渦・闇・希望・花が開いていたのか?ワクワク感も伴うが、逃げ場がないところで向き合う緊張感はいいと思う。『八月十五夜の茶屋』にしても性と暴力が河底を流れている。戦争という究極の暴力装置の処理である。パニック治療と同じ部分がある。
ライフストーリー、のドギマギも含めて備忘録。キジムナーフェスタは見たいけど、いいシンポジウもあるけど、なかなか目先の課題が重くて参加が難しい。
キジムナーフェスタはなぜ沖縄の優れた現代劇の上演をサポートしないのか、不思議!ちねんせいしんの「人類館」、謝名元慶福の「島口説」「命口説」、玉木一兵の「陸橋」「軍艦島」など面白い現代劇はたくさんある。下山さんが公の金でご自分の会社のプロデュース作品を優先させているようで気になるのは確かである。また県もどうなのだろう?一括交付金で「人類館」を100ステでも世界で公演したら、沖縄の磁場のアピールになるのでは?琉球芸能も前座で披露する。歌・三線もありだ。
党派性がどの組織にも、行政にも祭にもイベントにも学会にもあるのは、官邸前の脱・反原発のデモと同じだが、日本中で路上民主主義が花さかりなのは、それほど、日本は危機的状況だということを暗示しているといえるのだろう。怖いアメリカさんにいじめ抜かれてもいっしょがまだいいと擦り寄っている日本政府の姿があり、その足枷からどう自立へ突き進むか、蛹からの羽化の苦しみの様態、その前に制御不可能なものから殺されかねない。KUROSAWA AKIRAの「赤富士」の予言的作品にゾッとした昨今でもある。優れた芸術家は預言者でもある。カフカがそうだった。迫り来るユダヤ人殺戮を予言していたね。全存在が、時代の空気を嗅ぎとる臭覚が他の人間より長けているというより、彼らはそれを表出する媒体(能力)を持っていたのだ。いわばマジョリティーのアンテナの繊細な部分を引き受けているのかもしれない。
今あらためて以前読んだバトラーさんの本をまた読みはじめた。パフォーマティビィティー:Performativityがこんなに焦点になっていたのだ!
アウトラインの書き直しと論稿を書くための資料の再集約と基礎固め、すべて遅い、でもこれが現実!ヨタヨタでも歩かなければならない。一つに焦点を絞り、集約していくというのは面白いとは思う。