志情(しなさき)の海へ

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詩人以倉紘平氏が推薦する「山の人生」柳田國男の冒頭はゾッとする。「遊行女婦のこと」は参照になる!

2012-07-29 11:43:01 | 博士論文資料集

以倉紘平さんの『地球の水辺」は以前読んだことがある。人の痛みを悲(哀)しみを掬い取る詩人だということに胸打たれた覚えがある。その氏が推奨した事実を淡々と書いたのが「山の人生」だという。最後まで丁寧に読めなかった。冒頭の実話なのか伝承なのかわからない山の人生そのものに参ってしまっていた。山と里、不条理の世界、そういえば最近、半裸で道を歩いていた二人の気になる男と女の姿が見えなくなった。永遠の死の世界に入ったのだろうか?それとも老人ホームのような所に収容されたのだろうか。今更ながら気になった。男は藁のようなものを腰に巻いているような姿でたまにはシャツを着けていた。女は何かつぶやくように歩いていた。姿がそういえば見えなくなった。

山に住む男が餓死にまで追い込まれるなかで斧を研いだ子供たちの首をはねた実話など、物語として読むと悍しくて、目を背けたくなる。しかしこの夢現の世界、親子無理心中にしろ、ますます増えていくのだろう。20代30代の若い者たちが殺されていくこの日本という國である、何も明治大正時代とは変わらない悍ましさが延々と続いている人の世である。自らを殺さなければならない社会の有り様があり、これは全ておかしいのではないかと思わざるをえない。そこで豊かな恵まれ者たちへの怨念が雲のように沸き起こっていく。自己保身という名の醜さが、周りにも見える時勢である。腐れていく魂をプンプンさせながらもご本人たちは気が付かないという様態かもしれない。柳田國男の作品世界のおぞましさにいや勝っている現在かもしれない。主観を事実のように書くこと、なるほど!

さて横道をそれて本題に向かわねばね。

大島のジュリについても書いている「遊行女婦」の文章は短くて以前も読んだが、参照になる、遊行してあるくジュリの存在がある、。奄美には遊郭はなかったが遊行してあるく女たちがいて、そして歌ったのである。三線と歌、そして踊りがあり、酒肴の慰安の場で性が介在していった。セクシュアリティーが慰安そのものであったし、ありつづけるのは人間の属性ゆえであろうか?引用をさっそく打ち込んでおこう、前に進まなければです。

 

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