最近の沖縄では、原 聖さんやパトリックさんなど多言語社会研究会の影響もあって、じわりと言語認識の大胆な変換が始まっているように思えます。欧米の状況と世界の共通認識が背後にあるのですが、ユネスコを中心とする世界へのアンテナの影響です。ユネスコが世界の有形、無形の文化財、言語や文化や多様な生物種を含めた保存活動にまい進している、その潮流の中にもあると思えるのですが、そうした世界に照らした時、沖縄の言語はどうなのか?ということになります。
ことばは魂の依代、風土の依代と身近な詩人は言っています。言語は民族の呼吸とかの伊波普猷は言い切っています。おそらく同化論は伊波の沖縄への熱い熱い思いの中で構築されたことば(観念・思想)のたまものだと言えるかと思うが、少数民族が傷を抱えて同化せざるをえなかった歴史・文化を総べてもう一度再検証する必要があるのかもしれませんね。
その場合独自の言語を方言にすぼめるのではなく自立語として再認識し、その表記方や文法をしっかり確立し、教育システムの中に網羅していく。そうでないかぎりのっぺらぼうのモニスティックな宗教と同じように、モニスティック(monistic)な文化や権力構造の中に埋没していく可能性があります。ただ言語学者を中心にその骨格への作業は続いているようで、頼もしいですね。またネット時代ですので独自にウチナーグチへの翻訳も始まっています。多様な展開があり、それらはすべて独自性への追求であり、自らの根を取り戻したい動きに見えます。(Monistic--Dualism & Pluralism)
もはやこの間培われた(葛藤と政治・経済構造の渦の中で)ものが徐々に摩耗していくことになりますよね。保存と継承と革新!伝統と現代、イノベーション、リバイタリゼーションの可能性はどうなるのでしょうか?
もはや国家は一国でなりたちえず、相互関係やネットワークの中、つまりいわゆるグローバリぜーションの波の中に揺らいでいてそこでどうこの海(ネットや地理的な)を泳いでいくか?が従来の宗教対立や民族対立も含め、日本ではあのXさんのような日本ナショナリストの強烈なアジテーションも含め、危険な色合いはいつでもここそこにあり、ひょっとしたら核ミサイルが飛んできて総べてが一緒にシムルになる、あの広島・長崎の悪夢の再現もありえないと、誰にも云えないのが悲しい人間社会という事でしょうか?
悲観的にみたらいかようにも悲観的に見ることが可能で、かといって生きている現在の持続を願い、未来に夢を希望をもって生きて行きたいゆえに、明るい展望も持ちたい。その狭間に生き生かされている現実のようです。
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ところで昨日那覇市民会館で有名な方の作品「帰国」を見ました。舞台としては薄い闇の中の出来事で、倉元さんらしいドラマの展開でした。泣けました。つまり家族の絆、親子の情愛の大事さをメッセージとして残しています。30万人もの英霊が亜熱帯の海に沈んでいる!という単純な数字の持つ威力、それらの骨の上に成り立つ戦後66年目の日本を倉本さんらしい視点で批判しているという事ですが、今回衝撃に思えたのは手紙の検閲担当の兵士の存在とその苦悩であり、浮かばれない霊やさ迷える霊の存在を表に見せたこと、英霊たちが戻ってきて現在を見るとどう見えるかの構図が面白かったです。日本の携帯を中心とした現代文明の中で希薄になっているもの、それが何なのか?
ドラマの展開のズレが面白かったが闇の舞台は装置としてはシンプルで、ドラマの展開もかなり削ぎ落されています。政府の中枢にいる甥を英霊が殺すという不条理性のあるありえる話しがまぁ泣かせる中心ではありました。不思議な物語でした。
舞台の暗さと展開。現代への痛切な批評などは良かったと思います。いつの世もどの世も人の思いやりや愛(志情)を忘れたらもうズタズタの単純に地獄ということで、最も生きているこの生の社会の天獄と地獄の境界、その往復も大変な生きることだとも言えそうだが、死人に口なしではなく、死人がモノ申すことができるのは、生きた人間の感性や思想の中にありえるわけですよね。
まぁ単純に親を大事にしなさい。愛する者たちを大事にしなさい。そして無念に死んだ者たちの無念な命の愛の事実(物語)があります。戦争を二度と起こさないようにというメッセージではありませんでしたね。ただ最後の映像の中にそれは込められていたとも言えます。舞台の暗さが現代を十分反映しえていない弱さはありました。クラブで踊る者たちの陳腐さも含めて現代の描き方の弱さは面白みに欠けました。ただエキスをつないでいかざるをえないのは舞台芸術の宿命でもあって、その暗さから刺してくるものを受け止めた大勢の観客がいるようでした。
これは終戦記念日にテレビでビートたけしさんたちが主演で演じるようですね。戦後66年目の日本への射程(批評)、英霊からの眼差しということでしょうか?おそらくテレビの方がもっと生な現代批評になりえるのでしょう。
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「ウチナーグチ万歳」のチラシを後でコピーしてこのブログで紹介しますね。
作:大城立裕
演出:幸喜良秀
舞台は2011年9月11日、那覇市民会館大ホール 午後6時半開演
沖縄芝居実験劇場の面々が演じます。
チケットはリウボウ、沖縄三越、コープあぷれなどで
大人2500円(当日3000円)
子供1250円(当日1500円)
問い合わせ:那覇市文化協会 098-861-1909・トピアプロジェクト090-4347-8798
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公開フォーラムもあります。【しまくとぅばは今】(個人的には、「うちなーぐちは今」がいいですね)
2011年9月3日午後1時 「琉球新報ホール」で。
基調報告「言語としてのウチナーグチ~」宮良信詳氏
パネラー:平田太一(県文化観光スポーツ部長)予定
久高将輝(NPO沖縄県うちなぁぐち会長)
大田守邦(沖縄芝居実験劇場代表)
宮里朝光(NPO沖縄語普及協議会会長)
高良勉 (詩人)
船越龍二 (沖縄テレビ報道制作局長)
コーディネーター:与那覇晶子(演劇評論家)
ことばは魂の依代、風土の依代と身近な詩人は言っています。言語は民族の呼吸とかの伊波普猷は言い切っています。おそらく同化論は伊波の沖縄への熱い熱い思いの中で構築されたことば(観念・思想)のたまものだと言えるかと思うが、少数民族が傷を抱えて同化せざるをえなかった歴史・文化を総べてもう一度再検証する必要があるのかもしれませんね。
その場合独自の言語を方言にすぼめるのではなく自立語として再認識し、その表記方や文法をしっかり確立し、教育システムの中に網羅していく。そうでないかぎりのっぺらぼうのモニスティックな宗教と同じように、モニスティック(monistic)な文化や権力構造の中に埋没していく可能性があります。ただ言語学者を中心にその骨格への作業は続いているようで、頼もしいですね。またネット時代ですので独自にウチナーグチへの翻訳も始まっています。多様な展開があり、それらはすべて独自性への追求であり、自らの根を取り戻したい動きに見えます。(Monistic--Dualism & Pluralism)
もはやこの間培われた(葛藤と政治・経済構造の渦の中で)ものが徐々に摩耗していくことになりますよね。保存と継承と革新!伝統と現代、イノベーション、リバイタリゼーションの可能性はどうなるのでしょうか?
もはや国家は一国でなりたちえず、相互関係やネットワークの中、つまりいわゆるグローバリぜーションの波の中に揺らいでいてそこでどうこの海(ネットや地理的な)を泳いでいくか?が従来の宗教対立や民族対立も含め、日本ではあのXさんのような日本ナショナリストの強烈なアジテーションも含め、危険な色合いはいつでもここそこにあり、ひょっとしたら核ミサイルが飛んできて総べてが一緒にシムルになる、あの広島・長崎の悪夢の再現もありえないと、誰にも云えないのが悲しい人間社会という事でしょうか?
悲観的にみたらいかようにも悲観的に見ることが可能で、かといって生きている現在の持続を願い、未来に夢を希望をもって生きて行きたいゆえに、明るい展望も持ちたい。その狭間に生き生かされている現実のようです。
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ところで昨日那覇市民会館で有名な方の作品「帰国」を見ました。舞台としては薄い闇の中の出来事で、倉元さんらしいドラマの展開でした。泣けました。つまり家族の絆、親子の情愛の大事さをメッセージとして残しています。30万人もの英霊が亜熱帯の海に沈んでいる!という単純な数字の持つ威力、それらの骨の上に成り立つ戦後66年目の日本を倉本さんらしい視点で批判しているという事ですが、今回衝撃に思えたのは手紙の検閲担当の兵士の存在とその苦悩であり、浮かばれない霊やさ迷える霊の存在を表に見せたこと、英霊たちが戻ってきて現在を見るとどう見えるかの構図が面白かったです。日本の携帯を中心とした現代文明の中で希薄になっているもの、それが何なのか?
ドラマの展開のズレが面白かったが闇の舞台は装置としてはシンプルで、ドラマの展開もかなり削ぎ落されています。政府の中枢にいる甥を英霊が殺すという不条理性のあるありえる話しがまぁ泣かせる中心ではありました。不思議な物語でした。
舞台の暗さと展開。現代への痛切な批評などは良かったと思います。いつの世もどの世も人の思いやりや愛(志情)を忘れたらもうズタズタの単純に地獄ということで、最も生きているこの生の社会の天獄と地獄の境界、その往復も大変な生きることだとも言えそうだが、死人に口なしではなく、死人がモノ申すことができるのは、生きた人間の感性や思想の中にありえるわけですよね。
まぁ単純に親を大事にしなさい。愛する者たちを大事にしなさい。そして無念に死んだ者たちの無念な命の愛の事実(物語)があります。戦争を二度と起こさないようにというメッセージではありませんでしたね。ただ最後の映像の中にそれは込められていたとも言えます。舞台の暗さが現代を十分反映しえていない弱さはありました。クラブで踊る者たちの陳腐さも含めて現代の描き方の弱さは面白みに欠けました。ただエキスをつないでいかざるをえないのは舞台芸術の宿命でもあって、その暗さから刺してくるものを受け止めた大勢の観客がいるようでした。
これは終戦記念日にテレビでビートたけしさんたちが主演で演じるようですね。戦後66年目の日本への射程(批評)、英霊からの眼差しということでしょうか?おそらくテレビの方がもっと生な現代批評になりえるのでしょう。
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「ウチナーグチ万歳」のチラシを後でコピーしてこのブログで紹介しますね。
作:大城立裕
演出:幸喜良秀
舞台は2011年9月11日、那覇市民会館大ホール 午後6時半開演
沖縄芝居実験劇場の面々が演じます。
チケットはリウボウ、沖縄三越、コープあぷれなどで
大人2500円(当日3000円)
子供1250円(当日1500円)
問い合わせ:那覇市文化協会 098-861-1909・トピアプロジェクト090-4347-8798
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公開フォーラムもあります。【しまくとぅばは今】(個人的には、「うちなーぐちは今」がいいですね)
2011年9月3日午後1時 「琉球新報ホール」で。
基調報告「言語としてのウチナーグチ~」宮良信詳氏
パネラー:平田太一(県文化観光スポーツ部長)予定
久高将輝(NPO沖縄県うちなぁぐち会長)
大田守邦(沖縄芝居実験劇場代表)
宮里朝光(NPO沖縄語普及協議会会長)
高良勉 (詩人)
船越龍二 (沖縄テレビ報道制作局長)
コーディネーター:与那覇晶子(演劇評論家)
ウチナーグチ=沖縄語だと単純に考えていいのではないかと思っているのですがーー?「うちなーぬくとぅば」=琉球語・沖縄語ででいいかな?
実は2003年前後まで私の認識もウチナーグチ=沖縄方言です。何しろ卑下されてきた沖縄の言語を自然にそのように受け取ってきたのですよね。琉球処分から132年です。真喜志康忠氏の御本を編集した時も氏のことばから漏れ出てくる「ウチナーグチ芝居」ゆえに時代に取り残されるような忸怩たる思いをお聞きしながら、全く疎外されてきた、否定されてきたウチナーグチ=方言の感覚でお聞きしていました。この間の教育がまたそうですよね。ウチナーグチは「方言札」の対象で、いけないもの、時代遅れ、唾棄すべきものという認識にどっぷりつかる教育を受けてきたのです。
しかし日本の某学会で研究発表した時、「日本語が変だ」と著名な研究者から指摘を受けました。それまで意識してこなかった接ぎ木された日本語を生きてきたのだと、感じました。アメリカに留学した影響があるのか、その辺の言語的ニュアンスは例えば沖縄の学生からも「先生の日本語ハーフぽいね」などと言われたことがあります。
ともかくここで言いたかったのは、私自身の言語に対する価値観が変わったという事です。方言としてすぼめることを強いられてきた歴史を180度反転できないだろうか、という事です。
方言ではなく言語としての認識は新たな一歩だと言えるでしょうね。方言は下位言語ですよね。独自の言語としての意識(認識)は今後深まっていく可能性は高いと考えています。
日本語と琉球語のクレオール化も増えるでしょう。
わんねー日本語さーに物考えし、日本語さーにむぬん かちょーびん。やいびーしが、なまからうちなーぐち(沖縄語)さーにむぬん かちゅるくとぅ、また考えーるくとぅん ないがすらわかやびらん。うぬとちに ちゃんぐとぅーる肝心が うまりーがすら、いっぺー不思議な気持さびーん。
うちなーぐちさーに話すしん ぬーがら 挑戦やいびーしが、うむさいびんやー。
わんねー いっぺー でぃきらんぬー やいびーしが うちなーぐちさーに話する 勉強するつもりやいびーん。沖縄芝居がうぬ勉強にいっぺー上等やいびーさ。
うんじょーちゃーうみやびーが?