![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/fe/0cc8470113034dd047b1034370065b52.jpg)
昨今、日本の植民地沖縄在住の日本人の文芸家や大学知識人を見ると、例えば20世紀のフランスとアルジェリアやイギリスとアイルランド、イギリスとインドのような関係性に思い至る。
宗主国と植民地の関係性そのものではないかと、今頃ウチアタイしている。そして宗主国の人間にとって侮蔑してやまない植民地の人間の総体がまた浮き彫りになるという構図に「あら、まぁ!」である。
魂の依代のことばからして、すでに傷を持っていて、国語難民化(詩人Y)を生きているという事実があり、世界の潮流の中でかろうじて危機言語として認定された琉球語の現在がある。そして表現は日本語が主体であり、口語の中に琉球語が混ざるという苦渋の表現活動がなされている。
しかし沖縄芝居や新作組踊は琉球語で表現される。それにローマ字でまた表記されたら小学生でも読める文字になる。琉球語の表記・表現は可能なのである。その大胆な現在の文芸の表出が大城立裕の新作組踊の作品群かもしれない。【花の幻】と【真北風が吹けば】などがそうである。
また目取真俊の【眼の奥の森】の小説の中の盛冶のあの独白のウチナーグチには泣ける(感動する)。気骨のあるウチナーイキガはあの小説の中の盛冶であり、現実の沖縄の男たちは魂の抜け殻のような体に見える。システムとしては日本にかすめ取られ、その都合のいい植民地政体を生かされ続ける沖縄を生きる我々である。その実態を無視して見て見ぬふりをしているのが大方の心情なのだろうか?体のいい妾、あるいはジュリ的な存在、かといって卑猥な比喩でいけば、日本もアメリカの都合のいい妾ということにもなる。つまり主人は男で客体は女の比喩が歴然としてそこに有り続けるならばーーー。セクシュアリティーの比喩は満ち溢れていて(笑)、しかしその淵(問い)は永遠の課題?攪乱・陶酔・革新・変身・統合・進化・融合・そして?
植民地文学について意識的に研究しているわけではないので、といって逃げることもできないが、今女の表象をテーマにしているのだが、女、女、女であり男、男、男である。
ネットで植民地文学を打ち込むと多様な項目が出てきたが、例えば日本の有能な研究者たちがグループで沖縄文学を制度的な視点で研究していたり、沖縄の同人誌を分析したりしている。沖縄の器は研究素材としては、やりがいのある(手ごろな)いいスポットだと言えよう。独特だからね。耕し分析しやすい対象・オブジェクトであり続ける。上手い素材・媒体で、それがまた日本を世界を逆に照らす事にもなりえるという事もまた明らかだろう。一方で日本の研究者たちがどの立ち位置でどう沖縄を見据えているかが分かる、というのも事実だ。
以前、「世界の中の沖縄演劇」という題で研究助成などいただいたことがあったが、沖縄文学が即世界文学になりえるとこのブログで書いたことがある。どの国の文学もどの地域の文学も世界文学でありえる。それは文学はすべて人間が関与し人間を描いているわけで、この地球に住む人間のどの言語で書かれた文学も私たちにとっては無縁ではなくまさに地球市民の文学として共感できるものだという認識を前提にしている。もっとも翻訳によらないと理解できないという壁はありつづけるが、それでもシェイクスピアが何カ国語にも翻訳され理解されるように、沖縄文学もまた世界の言語に翻訳され共有されることは可能である。
今後その潮流が進んでいくのだろうが、その前に植民地文学のジャンルに入る沖縄文学かな、である。日本中央の沖縄への眼差しは植民地への眼差しそのものではなかろうか?そして沖縄から中央への眼差しには同化と異化が常に伴っている。迎合と異化(独自性の追求&自立性かもしれない)の微妙な心理的要因を常にまとっている。中央から辺境への周辺への眼差しの中に侮蔑もまた込められているのだろう。そしてその侮蔑を周縁の人間はしかし察知している。察知しながら関与しあう。それも確かである。是認するシステムが中央にあり、是認されるために、評価されるために卑屈にも気に入られる文体や物語を想像(創造)するという構図も成り立つ。経済やマーケットの流通を優先すると、はしたなくも魂とその産物であることば・物語もまたその商品化の流れにそっていくことになるのもやむえない?のだろうか?
昨今は盛んにコンテンツということばが飛び交っている。売れる文化アイテムの産出である。独自性を打ち出した方が、差別化の方がブランドを創出することになりそれがグローバル経済や文化に参入するには都合がいいという側面もありえる。全く同じりんごには人はあまり振り向かなくなっている。大量消費製品に飽きる性質もある。斬新なもの、新奇なもの、面白いもの、新しい価値などに人はまた惹かれて行く。それは人間の属性として必然なものでもあるのだろう。
沖縄文学の可能性はその辺にあるのではないだろうか?あるいは沖縄演劇、詩劇でもいい。一方でトランスナショナルな現在である。越境する文学・文学の越境は遠の昔に始まっている。
ネットで以下のサイトを見つけた。
**************************
越境の文学/文学の越境
文学が現実の国境を越え始めた。日本文学といいフランス文学といい、「文学」の国籍を問うこと自体の無意味さが、誰の目にも明らかなほど、露呈してきた。
「自国と外国」の文学を、用いられている言語によって区別することが不可能な時代を、私たちは生き始めている。思えば、この越境は、西欧近代が世界各地で異世界を植民地化した時に不可視の形で始まっていた。
世界がさらに流動化し人びとが現実の国境を軽々と乗り越えつつある五世紀後のいま、境界なき、この新たな文学の誕生は必然である。
文学というものが、常に他者からの眼差しと他者への眼差しの交差するところに生まれ、他者からの呼びかけに応え自己を語るものであるとするならば、文学を読む営みはこれらの眼差しの交わるところに身を置き、この微少な声に耳を澄ますことでなくてはならない。
*******************
そしてまさに越境文学作品が何冊が紹介されていた。それは省略するが、興味深い作品が並んでいる。読む余裕はないかと思うが、植民地文学がまた世界文学であり、関係性の文学であることも確かである。多様な世界の現実がある。この小さな沖縄の現実を表象としてえぐり出すだけですでに世界を視座に置いていることになる。世界の帝王・アメリカがこの地で大きな顔として有り続けることからもそれはあからさますぎる。日本という国家の枠組みの中にあってその枠からずれた所にまた位置する沖縄でもある。境界の可能性のようなもの、深い傷を抱くゆえに、トラウマゆえに、疼くものを多く抱えるゆえにこそまたそこから編み出されることばがありえる。中国の色合いもまた含んだこの沖縄植民地の色彩の中に明日の色(ことば)が滲んでいるのかもしれない。
結論として植民地文学には可能性がある。必ずしも否定的なものだけがそこに流れているわけではない。盛冶のようなウチナーイキガがたくさんいたら、沖縄は植民地を返上できるのかもしれないね!ウチナーイキガたちにエールを送りたい!ウチナーイナグたちは祈りからセクシュアリティーからイキガたちを支えすぎるくらい支えているんでしょう?ウチナーイナグたちは祈って踊って島をまるごと身体に取り込んでいるようなイメージがしている。
しかし利用される植民地だけではね、問題なんですよ。さていかに植民地から脱することができるか?課題は大きいですね?!
【さよなら人類館】上演に協力者がほしい!
≪写真は今年一月末、鹿児島で宿泊したホテルのレストランで撮影した窓際の花≫
宗主国と植民地の関係性そのものではないかと、今頃ウチアタイしている。そして宗主国の人間にとって侮蔑してやまない植民地の人間の総体がまた浮き彫りになるという構図に「あら、まぁ!」である。
魂の依代のことばからして、すでに傷を持っていて、国語難民化(詩人Y)を生きているという事実があり、世界の潮流の中でかろうじて危機言語として認定された琉球語の現在がある。そして表現は日本語が主体であり、口語の中に琉球語が混ざるという苦渋の表現活動がなされている。
しかし沖縄芝居や新作組踊は琉球語で表現される。それにローマ字でまた表記されたら小学生でも読める文字になる。琉球語の表記・表現は可能なのである。その大胆な現在の文芸の表出が大城立裕の新作組踊の作品群かもしれない。【花の幻】と【真北風が吹けば】などがそうである。
また目取真俊の【眼の奥の森】の小説の中の盛冶のあの独白のウチナーグチには泣ける(感動する)。気骨のあるウチナーイキガはあの小説の中の盛冶であり、現実の沖縄の男たちは魂の抜け殻のような体に見える。システムとしては日本にかすめ取られ、その都合のいい植民地政体を生かされ続ける沖縄を生きる我々である。その実態を無視して見て見ぬふりをしているのが大方の心情なのだろうか?体のいい妾、あるいはジュリ的な存在、かといって卑猥な比喩でいけば、日本もアメリカの都合のいい妾ということにもなる。つまり主人は男で客体は女の比喩が歴然としてそこに有り続けるならばーーー。セクシュアリティーの比喩は満ち溢れていて(笑)、しかしその淵(問い)は永遠の課題?攪乱・陶酔・革新・変身・統合・進化・融合・そして?
植民地文学について意識的に研究しているわけではないので、といって逃げることもできないが、今女の表象をテーマにしているのだが、女、女、女であり男、男、男である。
ネットで植民地文学を打ち込むと多様な項目が出てきたが、例えば日本の有能な研究者たちがグループで沖縄文学を制度的な視点で研究していたり、沖縄の同人誌を分析したりしている。沖縄の器は研究素材としては、やりがいのある(手ごろな)いいスポットだと言えよう。独特だからね。耕し分析しやすい対象・オブジェクトであり続ける。上手い素材・媒体で、それがまた日本を世界を逆に照らす事にもなりえるという事もまた明らかだろう。一方で日本の研究者たちがどの立ち位置でどう沖縄を見据えているかが分かる、というのも事実だ。
以前、「世界の中の沖縄演劇」という題で研究助成などいただいたことがあったが、沖縄文学が即世界文学になりえるとこのブログで書いたことがある。どの国の文学もどの地域の文学も世界文学でありえる。それは文学はすべて人間が関与し人間を描いているわけで、この地球に住む人間のどの言語で書かれた文学も私たちにとっては無縁ではなくまさに地球市民の文学として共感できるものだという認識を前提にしている。もっとも翻訳によらないと理解できないという壁はありつづけるが、それでもシェイクスピアが何カ国語にも翻訳され理解されるように、沖縄文学もまた世界の言語に翻訳され共有されることは可能である。
今後その潮流が進んでいくのだろうが、その前に植民地文学のジャンルに入る沖縄文学かな、である。日本中央の沖縄への眼差しは植民地への眼差しそのものではなかろうか?そして沖縄から中央への眼差しには同化と異化が常に伴っている。迎合と異化(独自性の追求&自立性かもしれない)の微妙な心理的要因を常にまとっている。中央から辺境への周辺への眼差しの中に侮蔑もまた込められているのだろう。そしてその侮蔑を周縁の人間はしかし察知している。察知しながら関与しあう。それも確かである。是認するシステムが中央にあり、是認されるために、評価されるために卑屈にも気に入られる文体や物語を想像(創造)するという構図も成り立つ。経済やマーケットの流通を優先すると、はしたなくも魂とその産物であることば・物語もまたその商品化の流れにそっていくことになるのもやむえない?のだろうか?
昨今は盛んにコンテンツということばが飛び交っている。売れる文化アイテムの産出である。独自性を打ち出した方が、差別化の方がブランドを創出することになりそれがグローバル経済や文化に参入するには都合がいいという側面もありえる。全く同じりんごには人はあまり振り向かなくなっている。大量消費製品に飽きる性質もある。斬新なもの、新奇なもの、面白いもの、新しい価値などに人はまた惹かれて行く。それは人間の属性として必然なものでもあるのだろう。
沖縄文学の可能性はその辺にあるのではないだろうか?あるいは沖縄演劇、詩劇でもいい。一方でトランスナショナルな現在である。越境する文学・文学の越境は遠の昔に始まっている。
ネットで以下のサイトを見つけた。
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越境の文学/文学の越境
文学が現実の国境を越え始めた。日本文学といいフランス文学といい、「文学」の国籍を問うこと自体の無意味さが、誰の目にも明らかなほど、露呈してきた。
「自国と外国」の文学を、用いられている言語によって区別することが不可能な時代を、私たちは生き始めている。思えば、この越境は、西欧近代が世界各地で異世界を植民地化した時に不可視の形で始まっていた。
世界がさらに流動化し人びとが現実の国境を軽々と乗り越えつつある五世紀後のいま、境界なき、この新たな文学の誕生は必然である。
文学というものが、常に他者からの眼差しと他者への眼差しの交差するところに生まれ、他者からの呼びかけに応え自己を語るものであるとするならば、文学を読む営みはこれらの眼差しの交わるところに身を置き、この微少な声に耳を澄ますことでなくてはならない。
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そしてまさに越境文学作品が何冊が紹介されていた。それは省略するが、興味深い作品が並んでいる。読む余裕はないかと思うが、植民地文学がまた世界文学であり、関係性の文学であることも確かである。多様な世界の現実がある。この小さな沖縄の現実を表象としてえぐり出すだけですでに世界を視座に置いていることになる。世界の帝王・アメリカがこの地で大きな顔として有り続けることからもそれはあからさますぎる。日本という国家の枠組みの中にあってその枠からずれた所にまた位置する沖縄でもある。境界の可能性のようなもの、深い傷を抱くゆえに、トラウマゆえに、疼くものを多く抱えるゆえにこそまたそこから編み出されることばがありえる。中国の色合いもまた含んだこの沖縄植民地の色彩の中に明日の色(ことば)が滲んでいるのかもしれない。
結論として植民地文学には可能性がある。必ずしも否定的なものだけがそこに流れているわけではない。盛冶のようなウチナーイキガがたくさんいたら、沖縄は植民地を返上できるのかもしれないね!ウチナーイキガたちにエールを送りたい!ウチナーイナグたちは祈りからセクシュアリティーからイキガたちを支えすぎるくらい支えているんでしょう?ウチナーイナグたちは祈って踊って島をまるごと身体に取り込んでいるようなイメージがしている。
しかし利用される植民地だけではね、問題なんですよ。さていかに植民地から脱することができるか?課題は大きいですね?!
【さよなら人類館】上演に協力者がほしい!
≪写真は今年一月末、鹿児島で宿泊したホテルのレストランで撮影した窓際の花≫