この元森絵里子さんの論文をネットで読んだ時、衝撃を受けた。さっそく彼女の著書『語られない「子ども」の近代』を取り寄せた。子どもの近代という思いがけないテーマに驚いた。遊里、そして娼妓・芸妓・芸能をこの間対象化してきたはずが、「目からうろこ」だった。
一部引用:
公娼即ち娼妓は、満18歳以上にあらざれば、許可せられぬことになっているが、私娼は日陰の存在12.3歳の者も少なくない。未だ肩上げさへ取れぬ可憐な少女が、浮れ男の犠牲に供せられるといふに至っては悲惨も極まれりと言ふべきである。芸妓・酌婦も府県に於いてそれぞれ最低年齢の規定はあるが、芸妓は未だ振袖姿の半玉時代に、すでに莟の花を散らすのが多く、酌婦も無登録の者があって、此等の中には13,4歳で媚を売るの少なくない。(全国貸座敷連合会『社会の現状と公娼問題の帰結』昭和4年、集成11:256)
元森さんは何度か「良家の子女」や「国際的対面」ということばを使っている。対比して「醜業婦」、娼妓・芸妓・酌婦が存在している。
また人権という擬制という言葉も目に付く。擬制でも守られねばならないとする。
売春する少女の発見ー戦後における教育的論理の浸透とその外部において建前上は自由意志であった戦前の娼妓登録をやんわり出して、その延長線上に「援助交際」、少女、生徒の『自由売春』へのモラルパニックが位置すると本質・構造を開示してみせる。
買う側の男性の性衝動や性的アクトはひたすら肯定されれている変わらなさがある。二重基準はそのままである。
『語られない「子ども」の近代』の副題は「年少者保護制度の歴史社会学」である。第五章『自由意志なき性的身体」はネットで自由に読める。
余談だが、昨今問題になってネットで取り上げられるイスラム教の国々、例えばパキスタンで女子に教育を与えない傾向があったり、少女時代に結婚が強要される風習など、がショッキングなニュースとして迫ってきた。しかし、近代の日本でも同様なことがなされていたことになる。12.3歳から性的存在にさせられたのである。
この著書の問いかけを通して、子供論が登場してきたのも比較的新しいということがわかった。子供はまもられるべき存在であって、そうではない存在のあいまいさを抱えてきた歴史の推移だったことがわかる。いきつくところは人間の属性としてのセクシュアリティ&アイデンティティの問題であり、社会の中の見えない・見える亀裂の線引きなのだろうか?其々の地域、国家、宗教による家族や関係性の差異がありつづける。それが都会だとプールされ拡散され差異が見えなくなる。都市の魔力は属性を隠したり、逆に浮き立たせることもするのだろう。無化されるものとは何か?