
アメリカで上演した「人類館」
平識 晶子
知念正真さんが逝かれた。寡黙な方だった。あの丸い顔と真摯に見つめる表情が目に浮かぶ。知念さんと、沖縄タイムス芸術選賞の選考員として何年か御一緒に選考会に臨んだ。そしてペルー来琉100年記念の特別番組のディレクターをされていた時、少し番組のお手伝いをした事があった。しかし何よりも第22回岸田戯曲賞を受賞した「人類館」そのものが、私にとっては知念さんそのものだ。私の固有の「人類館」との出合いを語ることによって知念さんへの追悼のことばとしたい。
「人類館」との出合いは衝撃だった。「人類館」の脚本を読んで演劇の物理的力にガンと頭を打たれる思いがした。あらためて沖縄の近・現代史の差別と同化を意識させられ、自らのアイデンティの根を見据える契機になった。アメリカ留学中のことである。1982年10月、アメリカで英語に翻訳された「人類館」を修士プロジェクトの一環として演出することになったのだ。英語のThe House of Manに翻訳したのはOgawa Yasuko, Maebashi Noriko and Douglas Lummisの3人である。雑誌AMPOに掲載されていた。それをテキストにして、『新沖縄文学』第33号に掲載された「人類館」の台本と写真を参照した。今から30年前、実験劇場インジ・シアターで上演した写真を見ると、懐かしさと共に、一緒に舞台を創った面々の顔が浮かび上がってくる
最も信頼できた女優のリンダ・スーはどうしているのだろうか。リハの途中に足をけがした男役のザック、台詞が多い調教師の役を演じたビル、3人のチームワークが無ければできなかった舞台だった。手元に残されたキャスティングからリハ、舞台の記録を読むと、あの時の状況が鮮明に浮かんでくる。オーディションと最終選考が終わって、およそ一月半、29回のリハの間、何度かアドバイザーのアンドゥル・椿教授が適切な助言をされたことも記されていて、恩師の温かさを今頃感じる。歌舞伎やお能を大胆に英語で演出し、その身体表現を指導されていた椿教授もすでにこの世にない。教授が示唆してくれた狂言的唱えも所作も一部取り入れたのだった。その抑揚の記録も残されている。
アメリカの演劇学科の修士プロジェクトで演出を選んだ私は実際の舞台上演と共に240ページにわたる論稿を含んだ報告書をまとめなければならなかった。それは『「パラジ-神々と豚々」と「人類館」に表象された沖縄』の題名になった。「パラジ」は翻訳プロジェクトであり、作品分析と共に土俗の日本の象徴として位置づけた。「人類館」に関しては、作者と劇団創造、作品分析、舞台公演のデザイン、美術、音響・照明、リハから批評まで網羅した。プロンプト、図案、プログラム、写真、注釈、参考文献と結構膨大な冊子である。すでに色あせてきた写真やプログラムがある。舞台の録画もやったがその映像もDVDに編集してかろうじて残すことができた。
3人のアメリカ人による沖縄人、沖縄文化の舞台表象である。彼らに沖縄の歴史や文化を知ってもらわなければならなかった。芸能に関しては、幸い一年前の1981年10月、沖縄歌舞団(宮城美能留一行)が、カンザス大学のSwarthout Recital Hallで琉球舞踊と組踊「二童敵討」の公演をした時のヴィデオ映像があったので、その鑑賞会を持った。二つの琉球舞踊が舞台で要求されるが、それが完璧なものである必要はなかった。それ故すでに日本演劇の二つの講座を受講したリンダ・スーは、基本的な動きとリズムをすぐ理解した。「むんじゅる節」と「謝敷節」を使った。
戯曲は不条理演劇の要素をもっているゆえに、細かい歴史認識が問われた。一人で何役も演じなければならない。その点において、彼らは不条理演劇をよく認識していたゆえに、繰り返えされる差別や暴力の構造を、マイノリティ、マジョリティ、エスニシティの観点からすぐその本質をつかんだ。台本を読み、立稽古と続けるうちに作品そのものの暴力性の大きさが迫ってきた。沖縄の近・現代史が「暴力」の循環そのものだということ、そしてその中心に立っていたのは麗しい天皇とそのシステムだということが、鮮やかに描かれていることに、驚いた。そしてその暴力のイメージが、セクシュアリティとコインの表裏だということにも。奴隷制ゆえに南北戦争を戦ってきたアメリカの歴史を知悉している彼らは、日本、アメリカの狭間にあってマイノリティの悲哀をなめてきた沖縄を自らの身体で造形化することには抵抗がなかった。冒頭の調教師の台詞の中には人類館に黒人も陳列されたことが明らかである。イメージが誘導しやすい仕掛けになっている。ということは知念さんの「人類館」は世界のどこで上演されても、その骨格=エキスが伝わる、ということを意味している。
マジョリティとマイノリティ間の差別・収奪・葛藤、エスニシティの権利意識、セクシュアリティ&ジェンダーの問題としての性と文化の在り様が見事に結晶化しているのである。
演出メソッドとしては其々のキャラクターの明確なイメージが要求される。イオネスコの「授業」(不条理演劇の秀作)は参考になった。また常時、現代演劇が上演される実験劇場インジ・シアターでは、サム・シェパードの『埋められた子供』のリハがなされていて、舞台装置の斬新さなど参考になった。またローレンスキャンパスから高速道路を1時間突っ走ったら大都市キャンザス・シティーにたどり着く。そこでは野外劇場やリージョナル劇場での公演が盛んになされていて、例えば当時そこで観劇した「アント二-とクレオパトラ」の舞台公演などは、床の演技のセンシュアルな演出に目を見張り、それを『人類館』に生かしたいと考えた。舞台セットや床の利用において、身近な演劇環境が与えたものは大きかった。
沖縄の歴史の推移を観客に理解してもらうため、パンフレットの中に沖縄の歴史を簡潔に紹介し、スライドを使って戦時中の様子を投影することにした。二枚のすだれを背景に垂らし、黒塗りの台を利用した見世物小屋を造ってその上に大きな日の丸の旗をつるすことにした。そこに5分間20枚のスライドを照射した。白馬に乗った天皇のスライドも入れた。アメリカ人の天皇観は戦時中の全体主義国家日本の最高権力であり、ストレートに彼らは理解した。舞台セットは以下の図案である。写真も一緒に数枚紹介したいと思う。その方が全体のイメージは一目瞭然だろう。
(これは「人類館」の最後の場面である)
演出の難しいところは茨木憲が新沖縄文学39号(1978年)に書いた「人類館、東京公演を観て」の批評で指摘されている箇所だった。沖縄の歴史的背景を知らない観客にとって次々代わる役柄は特に戦時中のカマ、カミー、ウシの場面、そして戦後状況の急変、茨木さんも指摘している教師と生徒の場面等、実際その歴史を生きてきた者と全く知らない観客との差異は出てしまうのは当然だ。その点に関しては緻密な傍証と説明がパンフレットなどでなされる必要がある。
ここまで書くと舞台が深刻に推移したように思えるが、笑いも起こった。バンザイ、バンジャーイの場面、芋を食べる場面、男と女のやり取りの場面など笑いが起こった。しかし演劇を普遍的なものとして観客に訴えるには主題の明瞭さと簡潔さが要求される。その点、また繰り返すが「暴力」「差別」「セクシュアリティ」が核になった。
この間、アメリカの舞台公演について私はすでに『青い海』139号(1985年)の特集『沖縄おんな物語』の中で書いた。「演劇の中の沖縄女性」である。女を中心に論じた。その中で特筆したいと思ったのは大城立裕が「~終幕近くに従軍看護婦、避難民の老婆まではおよそあきらめの早い売春婦の域を出ず、主体的な行動少なく、男の批判者にとどまっている」(沖縄タイムス1978年8月19日)と書いたことに対して、女は幾度となく蹂躙され続けかつ生き延びてきた沖縄の風土そのものではないか、という事だった。
その後上里和美の沖縄市戯曲大賞受賞作品「カフェ・ライカム」を論じるに当たり、「人類館」と「カフェ・ライカム」を比較しながら論じた。「カフェ・ライカムに見る戦争、女、記憶」(『地域研究』第一号、2005年)の中で指摘したのは、循環構造の仕組の意図するところである。つまり、究極的な権力の象徴は天皇だが、具体的に権力を付与されている政治家、日本軍将兵、米軍将兵、調教師、教師など、男に付与される権力を実行する支配層と被支配層は反転し、転化しえる循環構造の中にあるということだった。一方で女たちは、男と違い、支配層に反転しえる契機がない存在として描かれているということである。天皇を頂点とするヒエラルキー的現実では男(主体)に対し、女なる存在は徹頭徹尾、客体であり、支配、被支配の循環構造は閉ざされたままであるということだった。そのコンセプトは女=沖縄の風土と見なした80年代の視点と異なる。清濁、犠牲も加害も併せのむマダー・アースのイメージを「人類館」の女に見たのだが、実はそうではなく、女は客体として疎外され続けている。それが循環構造の秘密で、その構造が脱構築(解体)しないかぎり、他者化され疎外される女たちに真の解放はないと見た。
続く結論は、是非季刊誌『ゑけ」EKEをお読みください。写真は数枚紹介しています。これはこれからまた手直しをしなければならない論稿である。ああやっと他の論文に取りかかれる!きわめて厳しい。今からアメリカ向けの論文エッセイを、まとめなければならない。発表原稿だが、PPTもいっしょに取り組まなければならないのでした。やれやれ!
以下廃刊されたEKEに2013年(第44号)に掲載された全文です。





