
2月3日、「いい正月でーびる」と比嘉バイロンさんからメールで新年の挨拶が届いた。そして去年ミュンヘンで親しくなった北京の大学教員のZさんからもメールでHappy New Yearの心温まる挨拶が届いた。Zさんは故郷の雲南省からのメールだった!お正月には故郷に戻るのですね、それはいずこでも一緒の風景なのだろう。若い彼の優しさが思い出される。中国人研究者の日本人とはまた異なったスタンスの柔らかさを感じさせる方だった。、魯迅の研究を発表されていた。今年の夏、大阪大で開催される国際学会に参加されたらいいなーと念じて、大阪に来られるのかどうかメールにも書いたのだが、どうだろう?来てほしい!また優しげな表情に会えたらいいと思う。
フランセス・マンマナの他界の知らせや、他落ち込む事柄があって何やらやるべき【対象】に向き合えないこころのスポットを見つめている昨今でもある。その中でケルト文化圏の方々の熱狂的な鹿児島大での報告が頭で鮮やかな造形を結んでもいる。バイロンさんの「是非沖縄は旧正月をやるべきですよね、社会の習俗を1972年の復帰以前に戻そう」というエールは、単純に「いいなー」と思った。そうなのよ、すべて日本の中央のシステムに同化させる必要はないのよね、と同感。失われたものを求める旅に似て、お正月も陰暦に戻しましょう!復古調すべていいわけという事でもないと思うが、それは観光ともセットになっていて、全て同じ顔に人は飽きてしまうのよね。風景が同じ顔のアメリカの街のように、実はこの沖縄の風景も似たような顔になってしまっていく。それが白い墓標の街になっていくのはさびしい。新しい恋にも似たトキメキがメールのようにやってくるのはいい!
失われたものを求める旅、恋の旅はいいと思う、何歳になってもトキメイていたい!面白そうな型にはまらない方々は常に魅力的である。死ぬまで永遠の恋を生きたい。それは生きるトキメキのようなものーーー。
さて高良倉吉研究室では、最後の授業で池上永一の[テンペスト」や「トロイメライ」の小説の締めくくりに彼が友利仁と交わした沖縄タイムスのインタビュー記事を元に論が展開した。歴史と小説の関係、その間について論じられる。歴史小説の面白さとその素材の歴史事象との関連は、実証された歴史と認識される歴史との揺れでもあろうが、小説は読まれてナンボで芸術性は求めない、エンターテイメントを求めるとする池永の姿勢は一貫しているようだ。舞台、ドラマ、映像化されていく[テンペスト」がある。モテモテである。大衆受けする物語が日本のエンタメの中心に琉球王朝の物語として展開していく。それも時代のポップカルチャーの流れだろうし、文化資本主義の流れに沿っている。文化コンテンツとして、資本はマイナーな琉球王朝の歴史をまた貪るように食していく。池永さんが直木賞を射程に入れていないという事はないのだろう。新しい作品に常に挑戦すると、彼は宣言している。おそらく仕掛けとしては東京に住み、日本人の都会の空虚さ、渦、空洞を意識化しているからこそ、彼の目に映る琉球の熱さがあり、その熱さをエンタメとして書けたのだと、推測できる。芸術性は意識しないとか無視するの発言は気になるがーー。小説は読まれてこそ、も分かるが時間に耐え得る名作はどうなのだろう?沖縄を素材にする小説が日本文学であり、世界文学にもなりえるだろうが、沖縄の場や空間に拘り書く作家の姿勢とはまた異なるものを感じさせる。つまり芸能人の仲間由紀恵が大衆的人気があるように、「テンペスト」もまたエンタメとしての人気を謳歌するのだろう。歴史や文化が消費される味付けの度合いがまた問われようか?その歴史とフィクションの境界について書いてみたい。
つまり平田オリザもそうだが、日本以外の所へ脱出したがっている作者や戯作者の感性である。また日本人が自らの内実に矛盾と嫌気を感じ始めている兆候なのかもしれない。それだからこその感性もあり、それだからこそ、日本の根っこで押しつぶされまいと米軍基地と対峙する民衆の感性をわたしは大事にしたい。
売られる沖縄の売られない究極的な世界との接点と痛みを見過ごさない視点が問われている。都会の女たちの感性に呼応するものだけではないもの、それは日本や沖縄と世界の関係性の総体を見据えるものでなければならない?!
<写真は図書館の出口でまどろむ猫>
フランセス・マンマナの他界の知らせや、他落ち込む事柄があって何やらやるべき【対象】に向き合えないこころのスポットを見つめている昨今でもある。その中でケルト文化圏の方々の熱狂的な鹿児島大での報告が頭で鮮やかな造形を結んでもいる。バイロンさんの「是非沖縄は旧正月をやるべきですよね、社会の習俗を1972年の復帰以前に戻そう」というエールは、単純に「いいなー」と思った。そうなのよ、すべて日本の中央のシステムに同化させる必要はないのよね、と同感。失われたものを求める旅に似て、お正月も陰暦に戻しましょう!復古調すべていいわけという事でもないと思うが、それは観光ともセットになっていて、全て同じ顔に人は飽きてしまうのよね。風景が同じ顔のアメリカの街のように、実はこの沖縄の風景も似たような顔になってしまっていく。それが白い墓標の街になっていくのはさびしい。新しい恋にも似たトキメキがメールのようにやってくるのはいい!
失われたものを求める旅、恋の旅はいいと思う、何歳になってもトキメイていたい!面白そうな型にはまらない方々は常に魅力的である。死ぬまで永遠の恋を生きたい。それは生きるトキメキのようなものーーー。
さて高良倉吉研究室では、最後の授業で池上永一の[テンペスト」や「トロイメライ」の小説の締めくくりに彼が友利仁と交わした沖縄タイムスのインタビュー記事を元に論が展開した。歴史と小説の関係、その間について論じられる。歴史小説の面白さとその素材の歴史事象との関連は、実証された歴史と認識される歴史との揺れでもあろうが、小説は読まれてナンボで芸術性は求めない、エンターテイメントを求めるとする池永の姿勢は一貫しているようだ。舞台、ドラマ、映像化されていく[テンペスト」がある。モテモテである。大衆受けする物語が日本のエンタメの中心に琉球王朝の物語として展開していく。それも時代のポップカルチャーの流れだろうし、文化資本主義の流れに沿っている。文化コンテンツとして、資本はマイナーな琉球王朝の歴史をまた貪るように食していく。池永さんが直木賞を射程に入れていないという事はないのだろう。新しい作品に常に挑戦すると、彼は宣言している。おそらく仕掛けとしては東京に住み、日本人の都会の空虚さ、渦、空洞を意識化しているからこそ、彼の目に映る琉球の熱さがあり、その熱さをエンタメとして書けたのだと、推測できる。芸術性は意識しないとか無視するの発言は気になるがーー。小説は読まれてこそ、も分かるが時間に耐え得る名作はどうなのだろう?沖縄を素材にする小説が日本文学であり、世界文学にもなりえるだろうが、沖縄の場や空間に拘り書く作家の姿勢とはまた異なるものを感じさせる。つまり芸能人の仲間由紀恵が大衆的人気があるように、「テンペスト」もまたエンタメとしての人気を謳歌するのだろう。歴史や文化が消費される味付けの度合いがまた問われようか?その歴史とフィクションの境界について書いてみたい。
つまり平田オリザもそうだが、日本以外の所へ脱出したがっている作者や戯作者の感性である。また日本人が自らの内実に矛盾と嫌気を感じ始めている兆候なのかもしれない。それだからこその感性もあり、それだからこそ、日本の根っこで押しつぶされまいと米軍基地と対峙する民衆の感性をわたしは大事にしたい。
売られる沖縄の売られない究極的な世界との接点と痛みを見過ごさない視点が問われている。都会の女たちの感性に呼応するものだけではないもの、それは日本や沖縄と世界の関係性の総体を見据えるものでなければならない?!
<写真は図書館の出口でまどろむ猫>