
(潮花だけがいつまでも変わらない)
白沙があふれた浜辺はすでになく、以前の形は消えたままに時を湛えている!
かつてそこで遊んだあの砂はもはやそこにはない。
三月の浜降りにはお重をもって女たちはひたすら海を目指した。
身(魂)を清め命の飛沫を浴び、海の幸をとったのだった。
大きく見えた浜辺が、怖かった海岸の岩山が小さく、か細く見えるとき
あの丘を超えた海沿いには米軍の演習地があったのだった。
無常の時間が流れつき、残された郷愁は、もはや色さめて
ただ波がおしてはかえす夕刻!
この川でかつては泳いだのだった!
《帰り際が寂しいと母が云う。一人で暮らすことの寂しさ、一人の気楽さと一人の寂しさが鶏の「コケコッコー」「おかぁさーん」の鳴き声に木霊する。
もうわたしは廃人だからと言い切る言葉に沁みる人間の宿命、皆年をとって逝かなければならないのだから、人間って悲しい存在ね、などとことばに出すが、一人ではなく二人であることの暖かさとことばの対話は違う。いつまでも仲良し夫婦はいいわね、そんなカップルは身近にいるの?と聞くとKBさん御夫婦は70代になってもとても仲良しよね、とのこと。しかしKBさんは以前とても悲しい体験をされた御夫婦だったということにハットしたのだった。
家の外も内もこの世は家父長制度の枠内にあり、縛る者たちがいる。男たちは縛り守るのねというと、父は優しくよく外て頑張ったわねと母が言った。でもわたしを育ててはくれなかった。母の叡智を引き上げてはくれなかった、というのである。父は外(社会)で懸命に闘い度胸があり、教職にあって活躍していた。社会福祉関係の職も80歳に至るまで全うしていた。その社会的職責を全うできたという点で彼は個として幸せだったのかもしれない。しかしー、満たされないものが残されていたのだ。母もまたー。彼女の寂しさは思うように人生がすべて流れるのではない現実との葛藤の姿でもあろうか?
限られた命との日々の闘いのようにそこにいる。草花が微笑み、小鳥たちも囀るうりずんの季節がやってきたー。母さん、あなたはいつまでも気品のある素敵な女なのね!愚痴も含め、それは思うようにいかない現実への苛立ち、それすらも生きる闘いの痕跡そのものなのよね。
「おかぁさーん」と鶏は確かにそう叫んでいた。》