今日安次嶺利美さんの琉舞道場で、通しリハが行われた。琉球新報と沖縄タイムスの芸能担当記者の方々が来てくださった。特に古堅一樹記者は熱心に最初から最後までリハを見てくださった。終了後のタイムス記者の又吉さんと共同のインタビューでも、面白い話ができたのが良かった。着物姿の吉田さんはきりりとしていて、その役者魂の凄さに最近目を見張るばかりだが、ここに至って芝居役者の演技者としての芯の強さ・深さが明瞭に線のように浮かび上がってくるという不思議に驚いている。
役者の力量はその芸に秘められている。どれだけその役柄と格闘しながら超えているのか?役者の想像力が試されている。「九年母の木の下で」の老婆の役柄を自分のものにし、さらにそれを普遍化し超えるために彼女は石川の市場を歩いた。地元の色合いをことばを体得するためにーー。単に役柄の形を舞台で描くこと、それを超えさせるものが、いい役者の条件なんだろう。どんな役柄でも逃げない、その澄んだように舞台である人物の役を演じる彼女の姿はリアルさを超えてくっきりと心に観衆の感性に迫ってきた。そしてそれは個性でもあった。普通の芝居役者との違いが小さいようで実は大きい。
今改めて沖縄芝居役者吉田妙子の実存に驚いている。
今日の通しリハでこの「花染ぬ手布」作品のもつライブな音楽の響きに声の響きにまた驚いていた。これは見事にコラボレーションになっている。オープンステージで具志幸大さんが歌う古典や民謡、中でも箏を奏でながら歌う仲風など、聞き惚れていた。そのままドラマの物語を忘れてただ聞き惚れていたいような思い、それは時間を気にすることがなければそのまま時がたってほしいような気分になっていた。
きりりとして吉田さんは歌う。玉木さんは初めての役柄が二つほどあり、台詞を完璧にご自分のものにした時、お二人の呼吸はマッチしてくるのだろう。太鼓と拍子木の響きもなかなかにいい。それにしても戯作者は人間の愛を歌ってやまない。素朴な男と遊女(ジュリ)の純愛の世界である。妻になるという事に思いをはせるジュリのせつなさと、思い焦がれた美しい女性を妻にするという男の純愛の織りなす歌唱が響き渡る。愛とは何だろう?痛みを共感しあえる愛の絶唱のような物語の綾に、戯作者の優しさが滲んでいる。
(立方と地揺が舞台で呼応しあう空間はいいね!山川宗春さん、具志幸大さん!)
平敷屋朝敏の「苔の下』の純愛物語は按司をして「よしや」の後を追って死出の旅に出る予見の中に終わらせている。愛はあの世までもーー、二人の愛と魂の合一するという美に包まれている。死が自らの潔癖と誇りと愛への殉死であること、魂を交わし合った二人はもはや袂を分かつことはできない。ゆえに死出の旅じたくをする男の姿がある。
美しすぎるセンシュアルな世界に陶酔したくなるが、近代以降の「吉屋チル―物語」はもっと残酷な終わらせ方をしてチル―のわずかな自負をも奪い取ってしまう。朝敏以上に近代の沖縄の人間は人間の残酷さに目覚めていたという事なのかもしれない。
「嘉間良心中」の娼婦キヨの決意に秘められた孤独とせつない愛の響きは、また遊女(ジュリ)と戦後のコザの街の娼婦の哀歓を結びつける。そこにあるのはセクシュアリティーの本質に目を向けさせる何かである。
さて映像や写真の編集、現代音楽をどうするか、課題は大きい。せっかくだからパンフも作ってみたい。時間が間に合うだろうか?
役者の力量はその芸に秘められている。どれだけその役柄と格闘しながら超えているのか?役者の想像力が試されている。「九年母の木の下で」の老婆の役柄を自分のものにし、さらにそれを普遍化し超えるために彼女は石川の市場を歩いた。地元の色合いをことばを体得するためにーー。単に役柄の形を舞台で描くこと、それを超えさせるものが、いい役者の条件なんだろう。どんな役柄でも逃げない、その澄んだように舞台である人物の役を演じる彼女の姿はリアルさを超えてくっきりと心に観衆の感性に迫ってきた。そしてそれは個性でもあった。普通の芝居役者との違いが小さいようで実は大きい。
今改めて沖縄芝居役者吉田妙子の実存に驚いている。
今日の通しリハでこの「花染ぬ手布」作品のもつライブな音楽の響きに声の響きにまた驚いていた。これは見事にコラボレーションになっている。オープンステージで具志幸大さんが歌う古典や民謡、中でも箏を奏でながら歌う仲風など、聞き惚れていた。そのままドラマの物語を忘れてただ聞き惚れていたいような思い、それは時間を気にすることがなければそのまま時がたってほしいような気分になっていた。
きりりとして吉田さんは歌う。玉木さんは初めての役柄が二つほどあり、台詞を完璧にご自分のものにした時、お二人の呼吸はマッチしてくるのだろう。太鼓と拍子木の響きもなかなかにいい。それにしても戯作者は人間の愛を歌ってやまない。素朴な男と遊女(ジュリ)の純愛の世界である。妻になるという事に思いをはせるジュリのせつなさと、思い焦がれた美しい女性を妻にするという男の純愛の織りなす歌唱が響き渡る。愛とは何だろう?痛みを共感しあえる愛の絶唱のような物語の綾に、戯作者の優しさが滲んでいる。
(立方と地揺が舞台で呼応しあう空間はいいね!山川宗春さん、具志幸大さん!)
平敷屋朝敏の「苔の下』の純愛物語は按司をして「よしや」の後を追って死出の旅に出る予見の中に終わらせている。愛はあの世までもーー、二人の愛と魂の合一するという美に包まれている。死が自らの潔癖と誇りと愛への殉死であること、魂を交わし合った二人はもはや袂を分かつことはできない。ゆえに死出の旅じたくをする男の姿がある。
美しすぎるセンシュアルな世界に陶酔したくなるが、近代以降の「吉屋チル―物語」はもっと残酷な終わらせ方をしてチル―のわずかな自負をも奪い取ってしまう。朝敏以上に近代の沖縄の人間は人間の残酷さに目覚めていたという事なのかもしれない。
「嘉間良心中」の娼婦キヨの決意に秘められた孤独とせつない愛の響きは、また遊女(ジュリ)と戦後のコザの街の娼婦の哀歓を結びつける。そこにあるのはセクシュアリティーの本質に目を向けさせる何かである。
さて映像や写真の編集、現代音楽をどうするか、課題は大きい。せっかくだからパンフも作ってみたい。時間が間に合うだろうか?