たのしい夢日記

京都奈良寺社巡り・思い出・読んだ本…日々のあれこれを写真と共に。

母の5月の手紙+入院記録

2016-04-30 23:41:27 | 母の記憶
明日から5月だ。

一昨日からGW休みに入り、ほっと一息。

特に、職場の繁忙期ラストの4月に足を怪我してしまい疲れることこの上ないひと月だった。
・・・しかし、良かったことも。

・・・骨折ではなかった!

最初に行ったところの先生がどうも、いいかげんな事が多かった。ギプスに治療用の穴をあけるのに反対側開けるとか、膝の怪我の方を忘れてるとか…

しまいには、「ギプス2日にとる予定だったけど、外せる看護師さん休みだからね、GW明けに来て」

この先生ギプス外せないの?自分で?しかも2日って自分で指定しといて?

「じゃ、30日、来れますから」
「30日はまだ早い」

・・・たった2日でしょ???

そうなると5週間、ギプス、しかもGW中も?明けの会議もギプス状態? ・・・う~~んそれは。

しかし、他の病院なら医者の意見は違うかもしれない。

で、近所の別の外科へ。

「立方骨骨折・・・って僕長年やってるけど3例しか会った事、ないですよ。しかも、レントゲンだけじゃすぐわかるような場所じゃないです。見るの難しいから」

で、MRI撮る事に決定、所見は「骨折なし、靭帯損傷なし」

つまりは、ひどい「捻挫」。

ヤブ医者め!!!

骨折なんて経験ないから、だまされた…

ギプス外して見てもらうと、いまだ腫れがあって痛みもあり内出血も相当なので、どっちにせよギプス松葉杖は免れられない状態で、しっかり安静にしていたという事でそれはそれで良かったですよ、と慰め顔の先生。

捻挫でギプス、するんだ…それも知らんかった。

「それにしても4週間以上は、歩けなくなるからしない方がいいです」

思い切って転院したおかげで、3週間でギプスを外せることになった!!

痛みと腫れがいまだに取れないので、外出時は取り外しできるギプスつけるか、思いっきり気を付けて歩くかすればよいとの事。
そこかしこにある点字ブロックなんかが怖いのだ。でっぱりに足がのっかると凄く痛い思いをする。ぐらつくからだろう。

言われたとおり、外した直後はびっくりするほど歩けなかった。力入らず、足が地に着かない(大喜びしてるわけではない)。3週間でこれなら5週間ギプスしてたらもっと大変だったろう。


しかしながら、この足ではムリは出来ないので、昨日は向かいの美容室にカットに行き、今日は近くのコンビニにアイスクリーム買いに行き…のみ。

明るい日差しがかえって恨めしい、ということろだ。
こういう風に時間がある時に、郵便物やなんやかんやの書類を整理するのもよいだろう。


そんなことをやっている時に、母の手紙が入った箱を見つけて開けてみた。久しぶりだ。

私のシドニー在住の頃から、以前住んでいた、大東市の住所あてのもの。今住んでいるマンションあてには来ていない。その頃はもう、かなり具合が悪くなっており、亡くなったのは引っ越しのちょうど1年後だったのだ。



「さて風かほる五月なのに病院のベッドの上なんてがっかりです」

これは、大腸癌を患って手術、その次の年の5月だろうと思う。体調が悪くなって入院したことがあった。
私の「明るい日差しがうらめしい」よりもっともっとシリアスなのだ。

「あの薬師寺のお守りですから、御利益もたくさんあるでしょう」とあるが、確かに、病気なのだからと薬師寺でお守りを頂いて、実家に送った記憶がある。

最後に、送ったアスパラで北海道の味を楽しんで、というような言葉で終わっている。そうそう、アスパラを送ってもらい、あまり見事なのでびっくりしたのだ。





このメモは父が取っておいたものだが、この入院時のもの、6月初めにアスパラの事が書いてあり手紙と一致する。推理小説みたいだけど。

シャワーを浴び髪を洗う、とあるが、母の入院記録にはよく書いてある言葉だ。今の私にはこれを書きたい気持ちは良くわかる。

ギプス外してとうとうお風呂に3週間ぶりに浸かれ、膝や足をカバーで覆うことなく、濡れるのも気にせず洗えるのは爽快そのものだったから。

健康は健康でなくなってみないと価値がわからないというのはここよね、と実感。

ひと月経っても痛む足が治るのはいつかわからないけれど、だましだまし、骨折でなかったのを有難いと思って過ごそう。
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ダイエット(母の入院日記11)

2015-01-06 00:35:55 | 母の記憶
本当に久々に、母の日記をアップする。

2002年の年末から03年の2月までの、ちょうど今頃の季節に、母が札幌の病院に入院していた頃に書いていた日記だ。メモパッドに一日ずつ綴られている。もう書かれてから12年も経ったのだ。

つまりは、母が亡くなってからもう12年経つという事、当たり前なのだが時の流れは速い。

検査の「査」と結果の「結」の字が間違っていることに今初めて気づいた! 「検査」というのは良く書いてあるのだが、めったにその「結果」が書いてある事はない。ここにも書いてないが、この後にもなかったはず。書かずとも頭に残らざるを得ないほど真剣に聞くだろうから当然だろうが。

しかし目に止まったのは体重。48㎏もあったのか?母は私より小さかったし太ってもいなかったが…やはり肝臓が悪くて腹水がたまっていた、と言う事だったから、そのせいか。しかし、体重が書いてあるのはこのページのみ。他の日にも計っていたのだろうか?たまたまこの日だけ書いたのか?


去年の6月から「ゆるい低糖質ダイエット」を試みて毎日体重、体脂肪率、筋肉量、代謝量を記録しているため、これが目についたのだけれど…。




この本は良い。無理せずひと月1㎏ずつ減り、体脂肪率も減った。食べずにダイエットは厳しいだろうが、食べる順番を変える、食べるものを選ぶというだけで結構量は食べるので、おなかも減らず、別に辛くもなんともない。

去年5月頃に「なんだか体が重いなあ」と思って始めたのだが、正直、野菜やたんぱく質を多くとって、ご飯やパンの量を今までの1/3にした、と言う位ならば、食生活を変えてみた、というだけで、目を吊り上げてダイエット!と言うほどのものではない気がする。
実際その方が体に良いだろうし、ちょうどいい位の体重になってからも同じ食生活を続けている。

体が軽くなったのみならず、頭痛もちだった私が、ここ数か月、ずっとイブクイックやロキソニン飲まずに来ているのも変化だし、寝つきが良くなっているのにも驚く。血糖値が急に上がり下がりするとバランスが崩れて頭痛が起こるとか聞いたが、それが無くなったのかも。

そう思う理由が、クリスマスに生徒さんからケーキやシュークリームを頂いて2日くらい続けて食べた後、数か月ぶりに頭痛が来たからだ。

髪や肌の乾燥も減り、びっくり。

母は多少偏食気味の所があったし、生きていた時にこの食事の仕方を知っていたら教えてあげたのになあ、等と考えたりもするのだ。

肝臓には関係なかったかもしれないが、食生活でもう少し何とかなったのでは、と思う事も最近はよくある。
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着物

2014-10-20 23:36:25 | 母の記憶




美智子皇后さまが今日、傘寿を迎えられたという記事が新聞に載っていた。

昭和9年10月のご誕生以来の主な出来事も。

11年前に亡くなった母は、昭和9年11月生まれ。結婚も、天皇皇后陛下と同じ年のはず。

「死んだ子の年を数える」というけれど、子も「死んだ親の年を数える」こともある。私もよく、街中で腰の曲がった年配女性が、それでも元気に天王寺のにぎわいの中買い物をしているのを見ると、母はずいぶん早くに死んだのだな、とよく考えるのだ。

美智子皇后さまはさすがに80歳、髪も真っ白になり、でも上品に着物を着こなされ、天皇陛下と仲良く写真の中並んでおられた。

先月帰省した時に、父が色々なものを整理している、というので、母の残した着物を数枚もらった。一人娘の私が今までもらっていなかったのはつまり、私が着物を着ないから、という単純な理由と、着物用の箪笥を持っていないからである。

しかし一昨年位から、着物を着てみてもいいのな?と思い始め、2,3枚昔母にもらったカジュアルな着物を着てみるようになった。浴衣は楽だけれど着物をきちんと着る、というのは難しい。着付けを習ったこともない。母に教わった半幅帯の結び方で着たことはあったので、それでとりあえず。

最近は着物女子も増え、ややこしい決まり事なしで着物を着る人も増えたので、気軽に着られる着物を扱ったサイトもたくさんある。そういったサイトで基本のセットを手に入れ、帯締めや帯、草履、など少しずつ集めてきた。この年齢ならきちんとした着物を着るべきだろうけれどまあ、いいだろう。

帯の結び方、帯締めの色々な結び方もネットで検索すれば調べられる。着付けをきちんと習ったらちょっと違うだろうがとりあえずなんとかなるものだ。

今回もらった着物の中には、こんなのもってたっけ?と言うのもあり、確かに母が来ていた記憶のあるものも。

今年はこのうちのどれかを着てみよう。

秋の紅葉の時期?お正月がいいだろうか。
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bagの中には…

2013-09-16 23:56:28 | 母の記憶
台風一過の青空が広がった午後。

写真は3年前の10月頃に台風が来た後か、直前の空。お気に入りの一枚。

雨なら買い物も面倒と思ったけれどからりと晴れ上がり、空気も澄んでいる。近くまで買い出しに出かける事にする。今日は休みなので余裕でスーパーに行く時間がある。
仕事の日は帰りにスーパーによるという時間ではないので、何かあるとコンピニを利用するが、最近はちょっとしたおかずや、少し手を加えたらよいレトルトもの、納豆や豆腐、もずく等私がいつも冷蔵庫にキープしているものも売っているのがありがたいが、基本は簡単なものでも「作って食べたい」方なので、夜11時過ぎに帰っても大抵は何かしら作る。

さて、スーパーに出かけるにはリュックがいる。買い出しして両手にスーパーの袋、よりリュックを持って行った方がラク。帰りは闇市に行ってきたような姿になるわけだ。

写真撮影時にもリュックなので(両手が空くように)私には必需品。さっと出かけられるように、中にはいつもタオルハンカチ、ティッシュが入っている。たまにミンティアかフリスクも入れている。そういうバッグがいくつかあるのだ。入れ忘れると嫌なので…。そこである時、気づいた。
母が亡くなってから、いくつか遺品を整理し、使えそうな慶弔用のバッグをもらって帰ってきたときの事。

中にティッシュが入っていた。そういえば、亡くなる直前まで使っていたらしき別のバッグにも、入っていた。 どうやら、私と同じことを考えていたらしい。




右の母の持っているブラウンのバッグも、子供の頃よく見たものではっきりとした記憶があるが、この中にもいつも入れていたのだろうか?一緒によく、ガーゼっぽいハンカチが入っていたような気もする。

私は見た目も性格も父似と思っていたが、案外母のDNAも影響している部分があるのかもしれない。

例えば、出かけて帰ってきたとき。落ち着いて座る前に面倒なことを済ましてしまおうとする。着替える前に何かの下ごしらえだけしてしまったり、掃除機をかけたり、旅行帰りなら洗濯。
母は良く、「座っちゃったらもう立ちたくなくなるからね」と言っていたが、私にもそういう所がある。
同居人は例えば、スーパーの買い物から帰って収納が終わったら、「一休み」の方だ。彼は料理好きで、料理の経過を楽しんでするが、私はどちらかと言えばさっさと作ってしまいたいところがある。
後片付けも、ご飯が終わったら速攻で済ませたい。のんびりしてからだと洗うのが物凄く嫌になるからだ。これは母もそうだった。なんなら食べている途中で空いた皿を片付けて、「うちはレストラン方式だからね」と笑っていた。

結局のところ「せっかち」なんだろうな。
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おせち(母の入院日記10)

2012-12-31 15:48:50 | 母の記憶
今年もおせちが届いた。今日は12月31日。

去年、今年とらでぃっしゅぼーやでおせちを頼んでいるので、年末は料理に必死になる予定なし、近所に美味しい蕎麦屋さんがあるので、そこで年越し蕎麦にするつもり、気楽な年越しである。お雑煮用の手毬麩や、明日夜に食べるつもりのてっちり用フグを買ってきて終わり。

おせち料理は「めでたい」「保存がきく」がキーワードでそれほど「美味しい」ものではないだろう。また我が家の様に2人しかいなければちまちまとたくさんのものを作ることもできない。したがって一昨年までは、食べたいもののみを作ったり買ったりして、ちょっとお正月らしく整える、と言う事をしていた。
同居人の会社から、3重のおせちをプレゼントされたこともあったけれど、まあまあ…位のもの。しかも2人には量が多すぎた。

らでぃっしゅなら材料も吟味してあるだろうと、試しに、と去年小振りのを注文してみたら結構美味しかったので今年も。中身は去年と同じようなものだ。



これはちょうど10年前のお正月、母の入院記録。ひさびさの登場だ。

年末から札幌の厚生病院に母は入院しており、毎日のように書いていたメモ帳の記録。この前日は元日で、父、同居人、私の3人は、長沼に住む母方の叔母の家に行き、料亭に勤めるいとこが店から持ってきてくれたおせちを食べさせてもらったのだ。
何が入っていたかまでははっきり覚えていないが、さすがに美味しいお料理が入っていたという記憶がある。

日記にも「私も食べてみたい」と書いてあるから、母はこの時期はまだ食欲もあったようだ。病院の朝ご飯もお雑煮で美味しかった、と言っていたし。

もう一人、お料理を作ってくれた、とあるのは父方の叔母だ。その頃は私の実家近くに住んでいたので、うま煮など余分に作ってくれた。
頂いてお世話になってばかりのお正月だった。

あれから10年、その間に、母を始めとして、家に招いてくれた母方の叔母とその連れ合いの叔父も亡くなってしまった。
お正月におせち、というとこの時の、いとこの手の入ったおせちもよく思い出される。

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『お・お・さかレトロ』 坂道、猫たち、通天閣と新世界。

2012-04-11 01:30:09 | 母の記憶
大阪に住んで17年になるが、意外に大阪を見ていない。
どちらかといえば古都、京都・奈良のほうに興味があり、そちらを回る方が多かったという事なのだが。
特にミナミの方にはあまり足を向けていない。職場に近いのに天王寺界隈等はほとんど知らないのだ。



それならば、とカメラを携えてある午後、そのあたりを巡ってみる事にした。

また、この近くには、10年以上前に行くべきだったお寺があるのだ。

一心寺という。ここは浄土宗のお寺だが、宗派を問わず、お骨をあずかり、その集まったお骨を10年分ためて、骨仏(阿弥陀如来像)を作り、安置しているお寺なのだ。 
10年前に亡くなった母がまだ元気な時、一心寺で骨仏にしてもらおうかな、と言っていたのだ。 

「あんた大阪なんだから、パンフレットか何かもらって」と言われてはいたのだが、「骨仏もどうかなあ…」と思い実現はしていなかった。

母の考えとしては、一人っ子の私は北海道には住まないようだし、お墓が北海道にあると面倒かも、という事だったかもしれない。

実際には三笠の菩提寺に納骨堂が出来たので、永代供養して頂けることになったのだが。また喉仏の骨は、本山東本願寺にあるので時折お参りに行っている。

けれど、頼まれていたのに一心寺に行っていない、という事はいつもどこかで引っかかっていた部分があったのだ。

実際行ってみるとなかなか、現代的なお寺。最近はよくお寺でコンサートなどがあるが、ここにはコンサートホールが向かいにちゃんとあるのだ。一心寺シアターという。
骨仏がどんな風なのか、と思っていたが、意外にも境内で誰でも拝めるようになっている。
なんとなく、お寺の奥の方に安置されているようなイメージだったのだが、それは「一心」の心に反するのか。
見た感じ、ごく普通の阿弥陀様に見える。コンクリートでできた、風をイメージしていたのだが、そういう感じでもないのだ。

蝋燭とお線香を供えて、もし母がここで骨仏になっていたらこんなふうにお参りをしたのかな、などと考える。10年ずつ集めるはずだから、すぐに骨仏になるわけでもないのだが。

一心寺から四天王寺へ。四天王寺から坂道めぐりへ。

このあたりは上町台地、大昔からここだけは大阪辺りで「陸地」だったところ、坂道が多いのはそのためだろう。夕陽丘、などというゆかしい名前の付く地域もこのあたりだ。
車の多い谷町筋から一歩入ると、人気のない坂道があるのだ。静かなのに驚かされる。坂道を降りて次の松屋町筋へ出るとまた結構な交通量なのに。 
車を通れなくしているところもあるからだろう。下から見るとヘビのようなので「口縄坂」と言う名のついている坂道もそう。
落ち着いた雰囲気のある一角だ。




ここから少し歩けば賑やかな新世界、二度づけ禁止の串カツの店が並び、放射線状の道々の真中に通天閣がそびえる、というベタに「大阪」な場所。なんだか不思議な午後だった。



 
     

デジブック 『お・お・さかレトロ』
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入院記録9

2012-02-05 17:57:48 | 母の記憶
ひさびさに風邪をひいてしまった。

前回は2年前、やはり2月だったが、休めない日だったので頑張って仕事に行ったが割にすぐよくなった。その前にインフルエンザで3日休んだのは5年前になる。このブログのバックナンバー確かめてみたら、2007年3月の事だった。このブログ初めてすぐだ。
それ以降5年、具合が悪くなって仕事を休んだことはないから、丈夫な方と言っていいだろう。

寒い時期はやはり、具合の悪くなる人が多いようだ。同僚も数人、ここのところ風邪気味の人がいる。私と同じように、しばらく咳も出ずに喉だけが痛く、鼻水でしめる、という感じなので、誰かのが蔓延してしまったのだろう。幸いインフルエンザではないので、休んだ人も1人だけ、そうひどい事にはならず良かった。休んだ子はハワイ出身の先生なので、この厳しい寒さには弱いのだろう。

寒い時にはお手製お手軽チャイもどきを作って飲む。
鍋にごく普通の紅茶を濃いめに煮だし、そこへミルクを入れてさらに煮て、ショウガや、カレーに使うガラムマサラを入れ、砂糖。普段紅茶やコーヒーに砂糖は入れないけれど、チャイには入れた方がよい。これはとても体が温まる。

この冬、故郷の北海道では大雪。テレビを見ない私はしばらく気づかず、ネット中「岩見沢大雪」というタイトルをニュース欄に見つけてびっくりした次第だった。岩見沢は中途半端な田舎で、特にこれと言った特徴もないからニュースになるなどまず、ないのだ。
しかも1日で2メートル近く降った、というのだから驚き。慌てて父に電話したら、「もう、こんな雪は初めてだよ」とあきれ返っているだけで、結構のんびりしていたので安心はしたが…幸い家の近所には大手のスーパーが、歩いて行けるところにあるので、けもの道のように細くなった道を歩いて買いだめしてきたそうだ。「お客さん5人くらいしかいなかったよ」とのこと。

1階の窓から向こうに見えるはずの家も雪が積もって見えず、そうなると雪かきした雪を上に上げられない位の高さになっているということ、となりの方が除雪の機械持っているのでうちの分もしてくれたそうで有難い。

私が小1かそれくらいの頃、道が無くなる位の雪が降ったことがあった。
夜になって雪がやんだので、近所の人たちが総出で雪かきを始め、私もじゃまになりつつスコップ持って外に行った。雪が青く見えてきれいだ、と思ったのをよく覚えている。子供はのんきなものだから、車道もふさがれて一面雪原みたいになっているのを「面白い」と思って見ていたのだ。
雪が降っているときは静かだから、その静けさと雪かきのザクザク言う音、一面青い雪、とても印象に残っていてよく思い出す光景だ。

5年ほど前に同居人と一緒に帰省した時、私が熱を出したので、飲み物を買いに同居人が夜、スーパーまで出かけたことがあるが、その時あまりに静かで、別世界だと思った、と言っていたことも思い出す。私の実家の近くでは夜になるとあまり車も走っていない。
自分のきゅっきゅっという靴の音しか聞こえず、しゃわしゃわと音が聞こえたと思ったら後ろから静かに車が来て、びっくりした、とのこと。
雪が音を吸い込んでしまうから、夜の雪道は静かなものだ。




これはもっと前、ちょうど9年前の事、母が札幌の厚生病院に入院時の事だが、私と(電話で)話して、同居人が雪かきを手伝い、叔母が正月用の料理を父の分も持ってきてくれた、と言う事が書いてある。正月休みだったので同居人と一緒に帰省したのだ。
その時もかなり雪の多い年だったので、雪に馴染みのない同居人は雪が積もっているのが見られて喜んでいた。
父がガレージの雪下ろしをするというのに喜んで手伝いについていって、はしごを登って行ったのを見て、「雪のないところで生まれ育った人はのんきだなあ」と思ったものだ。
母が「慣れない人には危ないからそんなことさせない方がよかったのに」と電話で文句を言っていた。確かに慣れない人は雪道を歩くのも危なっかしいものだ。

母にすれば、雪かきをしない初めての冬だったはずだ。実家は玄関から門までの間が結構あるし、そこから先も、大きい道路に出るまでの道があり、車を出そうと思ったらかなりの範囲になるので、冬の雪かきは大変な作業だったのだが。


その時よりも、小1の時よりも多かったという今冬の大雪。
Youtubeにアップされた画像があったので見てみたが確かに凄い。
風邪で休んだハワイ出身の先生が見たら大興奮するかもしれない。少し前に大阪で雪がぱらついたとき、「私まだ、雪が降ってるの見たことないのよ!」と大騒ぎしていたのだ。

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入院記録8

2011-12-20 02:10:17 | 母の記憶


平成14年末、ちょうど9年前。

母の入院記録もしばらくアップしていなかったが、これは年末から2月にかけて書かれたものなので、この時期になるとやはり、読み返すことが多い。

以前に、この記録にはよく食べ物の話が書いてある、と記したことがあるが、お風呂、シャワーのことも良く書かれている。入院患者にはお風呂は相当な重労働だからだろう。この時期の母はずいぶん体調がよくなっていた頃なので、よくシャワーを使っていたようだ。髪を洗ってすっきり、というのも気持ちがよくわかる。
昔、小さい子供の頃は毎日髪を洗うという習慣がなかったのだが、今考えてみるとよく気持ち悪くなかったな、と思うものだ。風邪で入浴できないだけで相当気分に影響するものだけれど、入院していたら尚更だったろう。家のお風呂にゆっくり入りたい、とも思っただろう。

この前年位に、実家では風呂をリフォームし、きれいなユニットバスにしたのだが、その時に、まだ幾分元気だった母が、わざわざ湯加減見なくても良い自動のお風呂を喜んで、「『お風呂が沸きました』って喋るんだよ、お湯が一杯になったら」と面白がって電話で話していたものだ。

しかしその後、「ま、何年入れるかわからないけどね…」とつぶやいていたのを今でもよく覚えている。実際のところ1年位しか入れなかったはず、それををどこかで悟っていたのか。
単に年だから、と言うほどの年でもなかったから(享年68歳だった)。

叔母が苺を買って持ってきてくれたようだが、美味しく食べられたのかどうか、そこは珍しく書いていない。






父方の叔母、いとこたちが見舞いに来てくれたことを書いている。(本を買って)とある。母は読書好きでよく本を読んでいて、私も少なからず影響力を受けた。

特に受けた、と思えるのが「ご飯食べながら読む」という習慣。行儀の悪い話だが、麺類など、汁が飛ぶのを防ぐため、何か丼の下に台を(他の本とか)置いて高くして(つまり口と丼の距離を短くしたのだ)食べたりしていたので、以前は私も真似していて叔母に笑われたことがあった。
今でも、食べている時何か読んでいないと落ち着かない。テレビは見ないし…。学校のデスクでランチ、の時も、テキストを読んでみたり、なにか文字が欲しくなる。
同居人もそうだ。夜遅く帰って一人で食べるときなど、必ず新聞や本を読みながら食べる。

病院でこのとき、いとこに買ってきてもらって読んでいたのはなんだったのか、ここには書かれていないのが残念だ。もしわかれば私もそれを読んでみたいものだが…。



上は母が本を読むときにいつも使っていた老眼鏡である。母が亡くなった後、父が「持って行きなさい」とくれたものだ。「結構したんだよ、これ」と言っていたが、数万したものらしい。ケースとともに懐かしい品だが、私にはまだ度数が強すぎる。

下のが私の「リーディンググラス」だ。最近は「老眼鏡」ではなくシニアグラスとか、リーディンググラスと書いてあったりするが、結局老眼鏡だ!
私は近眼で老眼なので、調節が難しい。
遠近両用でもこの視力ならあまりうまいこといきませんよ、と眼鏡屋さん。なので普通の眼鏡は近眼用を持っている。

近眼用の眼鏡をかけたりコンタクト入れていると近くの字が読めない。逆に入れてないと遠くが見えない。
ある生徒さんから、「先生、コンタクト入れて老眼鏡かけたら?」と言われ、「おお、それ新しいね!」と試してみることにした。つまり普段は基本遠くが見える状態にして、なにか読むときだけ老眼鏡をかけるわけだ。(近くが見えない状態で遠くを見るときだけ眼鏡をかけても同じだろうけれど…)

さて、このリーディンググラスは、1800円也。言ってみれば虫眼鏡なんだろうから、そんなに高くはないはず…母の老眼鏡はなんでそんなに高かったのだろう。余程いいフレームやレンズを使ったものだろうか。
私ももう少し年がいったら、この高級老眼鏡を試してみよう。



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お袋の味

2011-09-13 01:04:30 | 母の記憶
土曜日の夜には同居人と、よく近所の蕎麦屋や焼き鳥屋で晩御飯を食べることがある。

先週の土曜日は「わたみんち」で。ここの「蕎麦茶」がお酒の全く飲めない私にはちょうどいい。

旬の秋刀魚の炭焼き、焼き鳥など。そして居酒屋メニューは濃い、くどいものが結構多いから、大抵私は茄子の浅漬けを頼む。

そこで思い出した。私が茄子の浅漬け好きなのは、昔母が作っていたからだ。
母はキャベツや胡瓜、茄子の浅漬けを作って、袋に入れて店で売っていたのだ。むろん家でも食べた。居酒屋で出てくる長茄子のスライスしたものではなく、かなり小振りの茄子で、食べるときは半分に切った形で食べていた。

そこで思ったのが、いわゆる「お袋の味」だ。

作家の渡辺淳一が、母の作る美味しいイクラは、母が亡くなってしまってからはもう、味わえなくなってしまった、と言う事をエッセイに書いていたのだが、そういうのが「お袋の味」であろう。その人しか出せない味だ。
しかしながら、私が茄子の浅漬けが好き、と言うのはそれとはちょっと違うだろう。昔母が作ったものはもう味わえない、というような感じ方ではないからだ。

そういったものは…つまり、母でしか出せないような味のもので、今は食べれられないようなものは…あまりないようである。


「渡辺淳一の『母のイクラ』みたいな、お袋の味ってある?」と同居人に聞いてみる。

「自転車で魚を売りに来るおじさんがいたんだけど、その人が来るのが楽しみだった。父親が道楽で囲炉裏を作ったから、そこで鮎を焼いて食べた」

焼いて食べた魚はお袋の味とはいえないだろう。「懐かしい故郷の味覚」というものだろう。

「もつ煮を食べたな」

うんうん、それならお袋の味っぽい。

「俺が作ったんだ」

「じゃあ『俺の味』じゃあないの?」

「まあ、そうだなあ」

「あとは?」

「ゆで卵ダイエットと鶏肉ダイエットで、一緒にゆで卵とか鶏のムネ肉食べた」

…それは「お袋の味」から相当ずれているような…

「だからやっぱり、お袋の味ってないなあ」

ウチの母も、同居人の母親も、どちらも家が店や会社で、忙しい日々を送ってきた人たち、あまりじっくり料理に向き合う時間はなかったせいだろう。


さて、今日は中秋の名月。
中秋の名月はいつも満月なのかと思ったらそれは関係ないそう。今年はたまたま満月に当たったと言う事らしい。お月さまは真ん丸である。





白玉粉を買ってきて、お月見団子を作ってみた。ススキも飾る。
本当なら三方に山形に載せるものだろうけれど、そんなに作ったら食べきれない。というかあれは飾りだけなのか?

ウサギ型のものの周りを団子で囲い、なんだか寂しいのでベランダからゴーヤの花と若い葉をつんで飾ってみる。ウサギの目は紫蘇の葉だ。なかなかかわいらしく出来た。

団子を丸めながら思ったのは、「これを最後にしたのは母といっしょだったな」と言う事。別に月見に関係なくよく作っていたおやつだった。

まだ実家にいた時の事だから、学生時代かもっと前の子供の頃かもしれない。
一人暮らしの時に団子作って食べたりしないし、オーストラリアでやってたらびっくりだ。
大阪に来てからも作ったことはない。

子供の頃は白玉団子を丸めるのが楽しかったものだ。丸めて、親指でくぼみをつけて、できたものから鍋に放り込む。
「耳たぶくらいだよ」と母が教えてくれたその感触はよく覚えているものだ。
そうそう、こんな感じ。


今日は月見団子だから、真ん丸に仕上げる。
なんでまたくぼみをつけたんだろ?と今更ながらに思うが、おそらく、餡子でなく砂糖蜜で食べていたので、絡みやすくしたものなのだろう。さて、これは祖母がそうやっていたのだろうか?
母と二人でしていた時はなんの不思議もなかったのだけれど。

帰ってきた同居人も月見団子を見て喜び、テーブルに飾って、紫蘇の目のウサギを食べてみる、という。甘いものはあまり、それも和風のは食べない人なのだが珍しかったからだろう。

餡子は嫌うので、砂糖蜜を作って、「これならあんまり甘くないから」と勧める。

「昔はこうして母親と白玉団子を作って、餡子じゃなくて砂糖蜜で食べたんだよ」

「『お袋の味』か!?」

それもちょっと違うような…そうなのかな…


母はあの世で今日白玉団子を作って食べただろうか?くぼみのある団子を。
明るい月空を見ながら考える。雲はずいぶんあるけれど、雲のある方が月夜は良いものだ。

つい最近、知っている人がまた、そちらに行ってしまったけれど…月見団子でもてなしてあげてほしいな、などと思う。まだそちらの生活には慣れていらっしゃらないだろうから。





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そっち?(北海道帰省小話)

2011-08-12 14:55:28 | 母の記憶


5年ぶりの帰省。

父がお世話になっているおうちへ、京都の和菓子を手土産に行ってくる。
母校の近くである。



お世話になっているTさん宅、帰宅されたばかりのTさんと奥様が出てこられる。
「いつもお世話になって…」と言う話から、奥様がこんなことを言われる。

「前に来られた時変なこと言ってごめんなさいね~」

前、というのは5年前、同じくお盆休みにこのおうちを私が訪ねた時のことだ。
「ドアが開いてくみこさんが見えた時お母さんにかぶって見えてねえ…」

そうそう、「亡くなったおかあさんにそっくり、声なんか、こうして横を向いていたらおかあさんがそこにいるみたいだよ…」と言われたのだ。

私は父親似で、母には全然似ていないのだが…子供のころの写真を見てみてもさっぱり似ていない。それでも40過ぎてから、母に似ているといわれることもあるようになったので、別に気にもとめていなかったのだ。



「私ねえ…霊感あるもんだから…お母さんが一緒に、くみこさんに乗っかって来たんだわ、ってわかってねえ…それで動揺しちゃって、ヘンな事いっちゃってねえ…」

えっ、そっち方面の話

「かぶって見えて…」というのは、似ていてかぶる、というのでなくほんとに私に母がかぶさって見えたのか

私は霊感も何もないものだから、母がかぶさっていようがおぶさっていようが全然気が付かないんだけど…

当時は父が病院でこけて、足を怪我して入院していたので、亡くなった母が特別お世話になっているTさんに挨拶したいと思っても不思議ではないかも。

「今日はね、くみこさんだわ。まったくの」

今回はかぶさってなかったようだ。

以前に父が送ってくれたビデオに、「北見菊祭り」にこちらのお二人と行ったときにTさんが撮ってくれたものがあった。店でDVDに落としてもらい、時々観ているのだが…母が元気で外に出られた最後の様子なのだ。
奥様の話ではそれは11月頃のこと、母はその後、すぐ調子が悪くなり入院、翌3月には亡くなってしまったので。

「今だから言うけど、お母さんもう時間がないと思うから、一緒にどこか行けるのはこれで最後になるから、連れてって、ってお父さん(Tさん)に頼んでねえ…寒かったからどうかな、って言ってたんだけど、毛布積んで行ってね」

録画の様子では母は元気そうで、菊を愛でたり、たまたま表れたキタキツネに喜んでいる様子が映っている。楽しい思い出を作ってくださり、その上記録にも残してくださったご夫婦にはいくら感謝してもし足りない。

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祥月命日

2011-03-28 23:41:48 | 母の記憶
今日は亡くなった母の祥月命日。母の喉仏の骨がおさめられている京都の東本願寺へ。

母が亡くなってこれで8年になるが、祥月命日に来ることが出来たのは初めて。3月の英会話学校は書き入れ時、3月末の日曜は必ず日曜出勤、普段休みの月曜も出勤、で、祥月命日付近でさえ京都まで足を延ばすのは不可能なことが多い。しかし今年の3月は21日、春分の日が月曜日になったため、少ない公休日の都合がついたのだ。

久しぶりに暖かい日で、お天気も良い。駅中のモールは暑いくらいだ。

東本願寺に着いてみると、親鸞聖人750回大遠忌法要という事でいろいろな準備があるらしく大きな銅鑼や舞台がしつらえられており、階段はスロープがつけられて上がりやすくなっている。
いつもなら御影堂に入ると、広々とした畳敷きで座ってゆっくりお参りができるのだが、入ってみてびっくり、畳の上には敷物がしきつめられ、その上に数えきれないくらいのパイプいすがびっしりと並べられ、係の人らしきユニフォームの人々が大勢、掃除をしている。
背中には「750th」なんてロゴがついているのだ。

震災で亡くなった方たちの法要が行われると書いてあり、なるほどと思う。まだ誰も座っていはいないが、パイプいすの合間を抜けて前へ出ていき、お参りをしている人もいるので、私もついて行ってお参りを。

いつもの通り、母に、一人暮らしの父を見ていてもらうようお願いし、先日は被災地に向かった同居人の無事もお願いしたので、彼を守ってくれた、そのお礼も言っておく。







帰り道で新しく出来たヨドバシカメラの前に立て看板を見つける。こんなところまで親鸞聖人が。今年は大掛かりにいろいろと行事があるようだ。

残念ながらあまり落ち着きのない状態でのお参りだったが、久しぶりに明るい空、暖かい空気を感じ、東北でも少しは寒さが緩んだろうか、と思いをはせたことだった。

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東本願寺へ(入院記録7)

2010-08-11 19:06:57 | 母の記憶
やっと夏休みに入った。

祥月命日には行けなかったので、お盆こそはと思い東本願寺へ母のお墓(ではないが)参りに。
京都の夏は蒸し暑いので、お盆に行くときはいつも気合を入れていく。
今年は整骨院で治療をしてもらってから(それが気合?)出かける。

京都東本願寺まではあっという間である。
door to doorで(本願寺にドアというのも変だが)ちょうど1時間。大阪駅から京都駅までは電車で30分かからないくらいなのだ。

いつもは超近代的な京都駅を北に出て、外を歩いていくのだが、「そういえばどこまでモグラ状態でいけるのか?」と思い地下鉄駅から歩いてみる。意外に遠くまで地下道が続いているのだ。
向こうからやってくる人が汗まみれなのを見てぎょっとする

外はそんなに暑いのか???
しかしよく見ると、女の子がバッグを拭いている。
雨が降ってきたらしい。さっき京都についた時は晴れていたのだから、ゲリラ豪雨に見舞われたようだ。

地下道から出てみると、豪雨が去って小降りになったところ。私は両用の日傘を持っているので問題ない。しかももう東本願寺の前である。
お堀に水鳥がとまり、鯉が騒いでいるが、あんなに大きな鯉はこんな華奢な鳥にはムリ、食べられないだろうと思う。



夏に東本願寺に来ると、広々とした畳敷きの御影堂や本堂に涼風がわたり気持ちがよいものだが、豪雨の後では風もなく、蒸し暑い。
親鸞聖人の下、半地下のどこかにいるであろう母にご挨拶のあとは早々に冷房のあるホールに移動、涼んだ後は廊下に出て座り込む。他にも雨宿りがてら座っている人が結構いる。
お寺の板張りの廊下に座ってぼんやり雨を眺めるのも良いものだ。




さて、今日は買い物をする予定もあったので、四条河原町まで出かけ、お気に入りの雑貨店でしばらく過ごし、阪急の上でランチをする。
外に出てみるとすごい空。



浴衣を着た人がたくさんいるな、と思っていたのだが、鴨川を渡ってみると、床がずらりと並んだあたりに「京の七夕」と書いた幕が。お盆あたりになにかやっているらしい。
今日これからは大雨になりそうだけど…浴衣が台無しにならなければよいが。
私は退散することにする。




家に帰って翌日、久しぶりに母の日記を見る。



このメモは、おそらく母が最後に書いた文字なのである。

母が亡くなったのは3月。私が1月に行ったときには、右手で字が書けないと言って年賀状を代筆させられたのだが、その前後に書いたもののようだ。
左手でこれだけ書けた、と父に自慢していた、という話をのちに聞いた。

脈絡のないメモだが、テレビで見た人の名前や物の名前をランダムに書き出しているようだ。
「夏川りみ」「松井ゴジラ」はその頃よくテレビで見かけただろうし、「さっぽろ雪まつり」も2月だから不思議ではない。
「あらし」はアイドルのほうか?本物の嵐か?なぜ「おっとせい」が?「オーロラのさむらい」?
母がいたらぜひ選択の基準を聞いてみたいものだ。

このメモを見てから、その頃は知りもしなかった夏川りみさんをテレビや新聞で見るたびどこかしら親しみを感じる。私は歌は知らないのだけれど、母は歌が好きだったから、この人の歌を聴いて、いいと思ったのかもな、などと考えるのである。
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嵯峨野・嵐山あるき・初めてと10年ぶりの。

2010-05-05 15:21:24 | 母の記憶
5月4日。同居人はGWというのに仕事が入り、さて、どうしようか、家にこもっていてはまた、洗濯と掃除で一日過ごしてしまいそう。こんなにお天気が良いのにもったいない話である

京都散策にでも?GWともなれば混雑は避けられないだろうが、賑やかなのもまたいいかもしれない。思い立ったらすぐに、と準備をし、15年前に買ってそのまま使っている「歩く地図」を携えて出かけた。

JRで京都へ、山陰本線に乗り換えて嵯峨嵐山へ。




この駅は、10年ほど前に一度来たことがある。
母と、伯母、いとこたちと京都観光した時のことだ。この駅からトロッコ列車に乗って亀岡まで行き、保津峡下りの船で嵐山まで下りてきたのだ。
その頃と変わっているのかいないのか…はっきりとは覚えていない。記憶にあるのは駅の建物位である。

トロッコ列車の駅には沢山人が群れているが、今日は乗るつもりはない。このまま歩いて大覚寺まで行くのだ。

なるべく人通りのない道を選んで歩く。嵐山に近ければ近いほど人混みが予想されるから、地図を見ながら細い通りを。
しかしところどころに大覚寺を指す板の標識があるところを見ると、このあたりを歩く人もいるのか。前後を見渡しても旅行者らしき人は誰も歩いていないけれど。
大して「京都らしい」味のある通りではないが、たまに「林か?」と思ったらちゃんと表札があって、普通の家だったりして面白い。




大覚寺を選んだのは、今まで行ったことがなかったから、それと傍の大沢の池を見てみたかったからである。9月には竜頭鶏首の船を浮かべて「観月の夕べ」が行われる場所、また「名こそ流れてなほ聞こえけり」の歌で有名な「名古曽の滝」跡がある。

実際の大沢の池はあっさりとした池で、平安時代から生きていそうな大鯉が泳いでいるが、どちらかと言えば、なだらかな山が遠くに見え、近くには高い建物は何もなく、畑ばかり、歴史よりものどかな景色を楽しめる場所だ。ピクニックでもしたいところである。

木々で囲まれた池をぐるりと回るとマイナスイオンたっぷり頂いた気がする。
王朝の人々も「いや~京の町中とは違って気分いいですなぁ」などと語り合いながら歩いたのだろうか。




大覚寺は廊下がぐるぐる回っていて大きなお寺である。「嵯峨御所」と言われただけのことはある立派なお寺であるが、さて、すごく印象に残るかと言うと…やはり大沢の池あっての、という感じ?大きなお寺というのはどこもそうなる気がする。

さて、その後の事ははっきり決めていなかったので、ここで一休みして考えることに。
GWとも思えぬ、夏まがいの暑さで疲れたこともあり、近くに「甘春堂」という和菓子の店、ここは以前、ネットでよくお菓子を注文していたところだが、カフェも併設しているので寄っていくことにする。
カフェに入ってびっくり、半分を仕切って「和菓子体験」をしているのだ。
普通の客は私だけ、半分はガラ空き。

男性のパティシエ?が20人ばかりの女性子供を相手に練ったり飾ったり、「次はきんとんですよ、中のつぶあんが見えないくらいくっつけてくださいね…」などと説明、賑やかである。
なかなか楽しそうで私もやってみたかった。

運ばれてきたぜんざい、さすがに和菓子屋のものだけあって、きちんと甘さを抑えて煮た大粒の小豆、抹茶アイス、ゼリー白玉、どれも美味しい。
それほど期待もせずにふらっと入ったため儲けた気になる。
これで「都路里」などで散々待って期待外れだったりしたら大損と思うことだろう。




ここのところ、体力の低下が気になっていた。疲れが取れないし、ちょっと寝不足したらもう、夕方には頭がふらふらだったり、眠くて考えがまとまらなかったり

トシだから仕方ないとは言え、仕事をしている身である。
やはり対策を考えねば、と思う。
何と言っても一番悪いのは運動不足、なのである。
もともと体動かすのは嫌い。
特に最近、疲れやすくなってからは守りに入ってしまい、「疲れるからやめとこう」側に頭が行ってしまっている。

大沢の池を巡りながら、その守りの姿勢がますます体力不足を招いているのでは?と考えた。前日まで行っていた温泉で、マッサージをお願いした鍼灸師さんに散々説教されたせいもある。
「肩も首もがちがちですよ。これほっておくと大変ですよ。マッサージじゃ治らなくなりますよ」とお風呂後などに運動をするように言われたのだ。

よし!
今日は歩くぞ!

はじめはバスに乗ってJRの駅まで戻ろうか、などと考えていたのだが、そのまま歩いて嵐山方面まで行くことにする。
畑ばかりの中、家の横に棚が置かれ、「京野菜100円」などと書いてある。この暑さで水菜もしおれてしまっているが。




やがて竹林、このあたりから人がどっと増える。今までの静けさは何?
線路を越えて野々宮神社へ。

地図で場所を確認している私に、単車に乗った男の子が「野々宮神社どのへんですか」と聞いてくる。
この人は、さっきどういうわけか自転車に乗った外人の女の子二人に「Nonomiya Temple?」と場所を聞いていた人だ。templeじゃなくshrineだけどなあ、と思いながら聞いていたが、わざわざ外人に尋ねることもなかろう、変わった人、と思っていたのだが。

私の持っている地図を見て、「それじゃあわかりませんよ」と言うが、何をもってしてそういうのか???私はこれでちゃんと歩きまわっているのである。かわいい絵が描いてあるからか?
生意気なやつだ

「線路の近くの筈ですよ」(以前来たことがあるので覚えていた)
「あ、線路はすぐそこにありました」
「じゃ越えてすぐです」

時間差を置いて私も神社へ行ってみたが、着く前にすぐにその男の子が戻ってくるのが見えた。
何しに行ったのだ?全くヘンな奴である。

野々宮神社は人が多すぎ。

源氏物語の雰囲気などくそくらえの人だかりである。

源氏に出てくるように、秋の虫の音が聞こえる夜半に来てみたい。
有名な黒木の鳥居にもありがたみが感じられないではないか。

おみくじは「中吉」旅は「すぐ行け!」とのこと、思い立って京都に来たのは正解だったようだ。






ここからはまた、竹林の坂道を上がって亀山公園まで歩ける。
ここは母たちと記念写真を撮った場所だ。あの時も紅葉の季節だったので人は多かった。
あの日は嵐山で船を下りて、賑やかな通りを抜けてここまで歩いて来たのだったか、それとも天龍寺から出てきたのだったか…。今日の私は逆方向に進む。





亀山公園はそれこそ10年以上前に、同居人と歩いたことがある。今回はその時行かなかった展望台まで頑張って歩いて上がることにする。
この辺は人も少なく快適なウオーキングだ。
着いてびっくり、それ程歩いていないのに意外に高い所にあるのだ。完璧「山の上」という感じ。





竹林辺りはゆっくりと上がってきたため、高低差をあまり感じなかったが結構上がってきたらしい。
向かい側の山の新緑が見事である。はるか下には桂川が涼しげ。
今度はその川まで下りていく。

「野生の猿に注意。目を合わさないように」
という看板があちこちにあるが、突然出てこられたらどうしても目が合ってしまうのじゃないだろうか?一人で歩いてい私は結構びくびくする。

猿に出会うこともなく無事桂川べりへ。

もう夕方だがボート乗りを楽しんでいる人たちがいる。
私も同居人と夜、鵜飼を見て、おでんを船の上で食べて楽しんだことがある。




のどかな風景で、このあたりを流れていってしまった人がいたことなど、信じられないようである。
ずっと以前、一緒に働いていたアメリカ人の先生が、保津川で(桂川の上流)川遊びをしていて、流されて亡くなってしまったのだ。見つかったのはこのあたりの筈だ。
日本に来てまだひと月。前に留学生として来たことがあり、日本語がうまい人だった。
大阪の高槻に住んでいてそこの川で泳ぐのが楽しみだった、というので、「川で遊ぶのは危ないよ」「細い川だから大丈夫なんだよ」そんな会話をしてほんの2週間位で起きた事故だった。

嵐山に来るたびに、母やそのアメリカ人の先生…亡くなってしまった人の事を考えるのも不思議なことだ。こんなにきれいで、楽しく賑やかな場所なのに。

近年まれに見るほど沢山歩いた一日、京福電鉄の駅のホームで足湯でもしよう
知り合いがここに足湯があると教えてくれたのを覚えていてぜひ試してみたかったのだ。
150円払うとチケットとタオルをくれる。
あとは電車のチケットを買ってホームへ。足湯は嵐山温泉の湯、せまいのでぎゅうぎゅう詰めに人が入っている。お湯は熱いが、熱い位でないと足湯は効果がない。10分ほどですっかり足が軽くなった。



帰りは大阪まで京阪で。せっかくのんびりしているのだから夕食も、と思い、祇園にある漬物屋「西利」の上のレストランで「漬物寿司点心」を頂く。
漬物寿司6カン、大根の煮物、鮭の大根巻などがお上品に並んでいる。それに京都らしく白味噌の味噌汁。漬物寿司の中には、私の大好きな菜の花の漬物もある!美味。
漬物の載った寿司なのでいくらでも入りそうである。




味噌汁はさすがに甘いが、中に浮いていた生麩を口に入れてびっくり、真中に模様が入っていると思ったらそれはたっぷりの和辛子だったのだ。鼻が…これは不意打ちすぎでは???

京都はそう甘くない。




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家計簿

2010-03-28 23:06:16 | 母の記憶
家計簿の2冊目がそろそろいっぱいになってきた。

家計簿といっても、私の場合はただのノートに線を引いて使う。基本は「袋分け」方式、週毎に予算を分けて銀行の紙袋の裏に明細を書くのだ。この方式は私に向いていたらしくちゃんと続いている。ノートはその月の収入、出費の予定、結果をまとめるのもの。
始めたのは今住んでいるマンションを購入することになったのがきっかけだが、あまり細かく細目を分けずにしているのでうんざりせずに続くのだろう。

今日1冊目2冊目とぱらぱらとめくっていて、8年の間に字体も変わるな、とか、この頃は携帯代それほどかかっていなかったんだ、とか、一体このサイトで何を買ったんだろう?ああ、この頃はヤケ買いしてたんだな、などとなかなか面白かった。
そういえばこの頃は肋間神経痛で痛みが毎日ひどくて、仕事に行ってるのがやっと、という時期だったんだ、というのもあったけれど、それでも家計簿はつけている。

しかし、一か所だけ全く計画も収支も書かれていないページがある。
2003年の3月から4月、というページ(給料日が起点なのでふた月にまたがる)。
母が亡くなった前後の事だ。
この頃は北海道と大阪を行ったり来たりで、家計の事など考える余裕もなかった。抜けているのは本当にこの月だけである。

肋間神経痛もそうだが、色々なことがしんどくてどうしようもないと思った時も何度かあったのだが、それでもつけられている家計簿を見ていると、私なりになんとか崩れずに頑張って生活してきたんだ、という様子が見えてくる気がする。
ただ数字と出費したものの項目が書かれているだけなのだが。

今日は3月28日。
もうすぐ母の祥月命日が終わる。
昨日買って母の写真の前に飾った花はまだ、しばらく保ちそうだ。



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入院記録6

2010-03-22 19:55:15 | 母の記憶


母の日記には、食べ物の話がよく出てくる。病人には、ごはんが食べられたか食べられなかったか、美味しかったか、ということが健康な人間以上に大切な事だからだろう。

札幌の病院に入院していたこの頃は、かなり体調もよい時もあったので、あれこれ食べることができたようだ。

この日記には父とざるそばを食べたとある。父の好物で、父の昼ご飯はいつもざるそばだったので、父が買ってきたのだろうか。
そのあと、「八ちゃんソーメ」を売店で買って食べたとあるが、これはなんだかわからない。それからお菓子を買って食べたというのだから、お菓子ではないのだろう。「ソーメ」と読めるが違うのかもしれない。

この日は、年末から帰省していた同居人と私が、大阪への帰り道千歳に行く前に寄った日だ。病院の塀の上に、誰かが作った小さな雪だるまが5つばかり並んでいたのをなぜかよく覚えている。



何か食べた、という話のほかに、日記とは別の箇所に、料理のレシピが書いてあることもある。

日記を読んでいてはじめは気づなかったのだが、裏を見てこのレシピを見つけた時は、日記の内容を読むより胸が痛んだ。

「百合根のポタージ」(ポタージュだろう)
テレビで見たのか、雑誌か新聞ででも見つけたのか。
自分で食べてみたいと思ったのか、父が百合根好きだったはずだから、それでちょっと変わったメニューで拵えて食べさせようと思ったのか。

いずれにせよ、自分が退院して、元気になって家に帰ったら作ろう、と考えてメモを取ったに違いない。そんな日が来ることはなかったのだが。

母に代って、このレシピで「百合根のポタージュ」を作ろうと思ったのだが、大阪ではあまり百合根を売っていない。「らでぃしゅぼーや」で来ることもない。
いつ作れるだろうか?
私自身はあまり百合根は好きではないのだが、ポタージュにすれば確かに美味しいかもしれない。
そう思いながらもう7年が経ってしまった。
来週の日曜が母の祥月命日だ。
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