(2)といっても(3)は書かないかもしれないが
先日亡くなった渡辺淳一さんの本を読もう、とお気に入りの「化粧」を本棚から取り出してみた。
・・・読みづらい・・・
進む老眼、進む本の老化…無理もない、私は老眼始まってかれこれ10年にもなる。
本は20代後半に札幌に住んでいた時買ったものか、あるいは大阪に来てすぐ位に買ったものだ。前者なら四半世紀前、後者でも20年近く前の事になる。
本の後ろを見てみると、どうも古書店で買ったらしきシールがついている。どこかは、全く記憶にない。古書としてはきれいな状態のを買ったようだが、今となってはすっかりヤケが出、茶色っぽくなった紙に薄くなった文字が見にくい。しかも字が小さいのだ!
今の本は紙が酸化しないように加工したりしているのだろうか?
ただでも最近目が疲れて頭痛が出たりするのに、この読みにくいのを無理して読むのも大変、とアマゾンで新しく購入することにした。
比べて一目瞭然!紙がきれいなのは当たり前だが、やはり最近の本は(新聞もだけれど)字が大きくなっている。
しかし、前回この「化粧」を読んだときには気づかなかったのだから、老眼も相当進んだのだろう。同居人に、写真のように並べて見せても、字の大きさが違う事に気付かないのだ。「字の大きさ、全然違うでしょ」と言われて「あ、ほんとだ」と言う。同居人は老眼来ていないのだ。
読み進めてみると、ここ3年はこの本を読んでいないことが判明した。
この小説には京都の色々な場所が出てくるのだが、今回読んで初めて「ああ、このシーンはここだったんだ!」と気づいた場所があり、それはここ3年のうちに私が訪れた場所だったからだ。
お墓詣りが真如堂、というのは、何度も読んでいるはずだけれど、意識には登ってこなかった。行ったことがなかったからだ。
ヒロインの一人が訪れるのは秋の、彼岸花の頃だけれど、私が行ったのは去年、木槿の咲く9月初めで、少し早い、とはいっても3週間ばかりの違いだが、小説が書かれた頃と比べると地球温暖化が進んでいるのがわかる!
小説の中ではすっかり秋らしい様子なのだが、私が行ったときは真夏の暑さで、その暑さの中歩いて写真とったり、それ程メジャーでない真如堂までふうふう言いながら登っていく(高台にあるので)物好きは私くらいだったようなので。このブログにも書いているが、私一人しか参拝客がおらず、お寺の人がずいぶん長い事説明してくれたのだ。
静かなたたずまいについては小説の通りだけれど。
もう一人のヒロインが人気の少ない蓮華寺を選んで、静かな、池のある庭を見下ろして、紅葉を楽しみながら恋人と語り合う、というシーン。
ここも、「あ、蓮華寺だったんだ」と初めて気づいた。ここには私は2012年の10月に行っている。無論、紅葉にはほど遠い時期だ。
ただ、こぢんまりした庭なのに、お堂や木々、池の配置が絶妙、よいお寺で、静かに座って落ち着いて景色を眺められたのが印象的で、小説でも同じような雰囲気で書かれている。
と言う事は前回「化粧」を読んだのは、私が「メジャーどころでない京都撮影」を始めた、2012年より前だったということだ。3年前位だったとしたら、そこまで老眼は進んでいなかったはず、古い本でも問題なく読めたのだろう。
今回読んでみて、東山あたりの石塀小路や高台寺への道、白川沿いのお茶屋、たつみ橋とお稲荷さん、嵐山の鵜飼舟、都おどり、描写される場所が紙面から浮き上がってくる感じがした。どれも行ったことがあり、経験済みだから。
京阪電車の線路を越え…などとあるとあれ?と思ったりはするが(今は地下を走っているので)京都の雰囲気というものはあまり、変わっていないのだろう。今から30年以上前に書かれたものだけれど。
千年の歴史の前には30年など。
先日亡くなった渡辺淳一さんの本を読もう、とお気に入りの「化粧」を本棚から取り出してみた。
・・・読みづらい・・・
進む老眼、進む本の老化…無理もない、私は老眼始まってかれこれ10年にもなる。
本は20代後半に札幌に住んでいた時買ったものか、あるいは大阪に来てすぐ位に買ったものだ。前者なら四半世紀前、後者でも20年近く前の事になる。
本の後ろを見てみると、どうも古書店で買ったらしきシールがついている。どこかは、全く記憶にない。古書としてはきれいな状態のを買ったようだが、今となってはすっかりヤケが出、茶色っぽくなった紙に薄くなった文字が見にくい。しかも字が小さいのだ!
今の本は紙が酸化しないように加工したりしているのだろうか?
ただでも最近目が疲れて頭痛が出たりするのに、この読みにくいのを無理して読むのも大変、とアマゾンで新しく購入することにした。
比べて一目瞭然!紙がきれいなのは当たり前だが、やはり最近の本は(新聞もだけれど)字が大きくなっている。
しかし、前回この「化粧」を読んだときには気づかなかったのだから、老眼も相当進んだのだろう。同居人に、写真のように並べて見せても、字の大きさが違う事に気付かないのだ。「字の大きさ、全然違うでしょ」と言われて「あ、ほんとだ」と言う。同居人は老眼来ていないのだ。
読み進めてみると、ここ3年はこの本を読んでいないことが判明した。
この小説には京都の色々な場所が出てくるのだが、今回読んで初めて「ああ、このシーンはここだったんだ!」と気づいた場所があり、それはここ3年のうちに私が訪れた場所だったからだ。
お墓詣りが真如堂、というのは、何度も読んでいるはずだけれど、意識には登ってこなかった。行ったことがなかったからだ。
ヒロインの一人が訪れるのは秋の、彼岸花の頃だけれど、私が行ったのは去年、木槿の咲く9月初めで、少し早い、とはいっても3週間ばかりの違いだが、小説が書かれた頃と比べると地球温暖化が進んでいるのがわかる!
小説の中ではすっかり秋らしい様子なのだが、私が行ったときは真夏の暑さで、その暑さの中歩いて写真とったり、それ程メジャーでない真如堂までふうふう言いながら登っていく(高台にあるので)物好きは私くらいだったようなので。このブログにも書いているが、私一人しか参拝客がおらず、お寺の人がずいぶん長い事説明してくれたのだ。
静かなたたずまいについては小説の通りだけれど。
もう一人のヒロインが人気の少ない蓮華寺を選んで、静かな、池のある庭を見下ろして、紅葉を楽しみながら恋人と語り合う、というシーン。
ここも、「あ、蓮華寺だったんだ」と初めて気づいた。ここには私は2012年の10月に行っている。無論、紅葉にはほど遠い時期だ。
ただ、こぢんまりした庭なのに、お堂や木々、池の配置が絶妙、よいお寺で、静かに座って落ち着いて景色を眺められたのが印象的で、小説でも同じような雰囲気で書かれている。
と言う事は前回「化粧」を読んだのは、私が「メジャーどころでない京都撮影」を始めた、2012年より前だったということだ。3年前位だったとしたら、そこまで老眼は進んでいなかったはず、古い本でも問題なく読めたのだろう。
今回読んでみて、東山あたりの石塀小路や高台寺への道、白川沿いのお茶屋、たつみ橋とお稲荷さん、嵐山の鵜飼舟、都おどり、描写される場所が紙面から浮き上がってくる感じがした。どれも行ったことがあり、経験済みだから。
京阪電車の線路を越え…などとあるとあれ?と思ったりはするが(今は地下を走っているので)京都の雰囲気というものはあまり、変わっていないのだろう。今から30年以上前に書かれたものだけれど。
千年の歴史の前には30年など。