たのしい夢日記

京都奈良寺社巡り・思い出・読んだ本…日々のあれこれを写真と共に。

とても疲れる夢。

2011-03-30 01:15:40 | 夢と現実
時々、この日記がもともとはノートに書いていた「夢日記」から始めたことを忘れてしまう。もう4年も経ったのだからそんなものだろうが。

今朝はとても焦る夢を見た。起きてからぐったりと疲れていた。


昨日は京都へ、母の祥月命日のお参りに行ったが、(これはミクシィのほうに書いてしまったが)財布に300円しかなく、改札で精算できずに、出られず焦った、という事があったためだろう。



友人Aと話をしている。「嵐」のコンサートのチケットをくれるというのだ。

…生徒さんで好きな人多いし、私は嵐のメンバー、誰が誰だかよくわかってないので、コンサートに行って学んでみようか、と思い、もらう事にする。もう一人嵐好きの友人Bがいるので、その人にも声をかけるとのこと。いっしょならいいな、と安心する。

さて、チケットをもらって友人Bとお茶をする。しかし、「今回のコンサートは納得がいかないので行かない」と言う。私一人で行くのか?
しかたないな、と思いつつ、「ちょっとお手洗いに行ってくるね」と私は席を外すが、戻ってきたら友人Bの姿はなく、置いて行ったわたしのバッグもないではないか!
どうも盗まれてしまったようだ。

ひどい、見ていてくれればいいのに… 

しかしバッグがなければお金もない。私は今からどうすれば?

しかし携帯は持っているので、同居人の携帯にかける。この手の夢はよく見るが、大抵そういう時はボタンがおせなかったり、押し間違ったり、番号がどうしても思い出せなかったりするものだ。今回もそう。何度もかけるがうまくいかない。ピンチ!家に帰れない!

しかしついに連絡が取れる。どういうわけか、「災害連絡用の番号にかけるからな」と同居人が言う。
でも、いまつながってるのでは???

とりあえず同居人とコンタクトが取れて安心したあたりで目が覚めたようだ。

焦るのは昨日だけで十分だったのだけど…
なんだかふらふらしながら起き上ったが、夢だったというのがこんなにうれしいなんて!とほっとする限りの焦り具合だった。

夢は頭の中の情報を整理するものだったり、準備のためのものだったりするそうだが、やはり「ぼけっとしてるんじゃない!」という母の戒めだったのだろうか。

情報整理というのはよくわかる。

土曜日にカウンセリングをした生徒さんは嵐のコンサートによく行く。
オーストラリアにいたとき、カフェで足元に置いたバッグを盗まれたことがある。
災害連絡はこの間同居人が茨城に行ったときに「携帯がつながらなくなったらこれだな」と思っていた。
お金がなくて、というのは昨日起こったばかりのこと。

それにしてもいつも不思議なのが、夢で進行している時間、物凄く長いこともあるのに、実際眠っている時間はそれよりはるかに短かったりすることだ。
この、今朝の夢も、友人Bとお茶をしてから少なくとも5時間以上はかかったストーリーだった(時計を見てさらに焦った場面もあり)のに、実際は同居人が出勤していってからの事だから、2時間しか寝ていないのだ。よくこんな短い時間に収まったものだ。
夢の中は早送りしているのか?


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祥月命日

2011-03-28 23:41:48 | 母の記憶
今日は亡くなった母の祥月命日。母の喉仏の骨がおさめられている京都の東本願寺へ。

母が亡くなってこれで8年になるが、祥月命日に来ることが出来たのは初めて。3月の英会話学校は書き入れ時、3月末の日曜は必ず日曜出勤、普段休みの月曜も出勤、で、祥月命日付近でさえ京都まで足を延ばすのは不可能なことが多い。しかし今年の3月は21日、春分の日が月曜日になったため、少ない公休日の都合がついたのだ。

久しぶりに暖かい日で、お天気も良い。駅中のモールは暑いくらいだ。

東本願寺に着いてみると、親鸞聖人750回大遠忌法要という事でいろいろな準備があるらしく大きな銅鑼や舞台がしつらえられており、階段はスロープがつけられて上がりやすくなっている。
いつもなら御影堂に入ると、広々とした畳敷きで座ってゆっくりお参りができるのだが、入ってみてびっくり、畳の上には敷物がしきつめられ、その上に数えきれないくらいのパイプいすがびっしりと並べられ、係の人らしきユニフォームの人々が大勢、掃除をしている。
背中には「750th」なんてロゴがついているのだ。

震災で亡くなった方たちの法要が行われると書いてあり、なるほどと思う。まだ誰も座っていはいないが、パイプいすの合間を抜けて前へ出ていき、お参りをしている人もいるので、私もついて行ってお参りを。

いつもの通り、母に、一人暮らしの父を見ていてもらうようお願いし、先日は被災地に向かった同居人の無事もお願いしたので、彼を守ってくれた、そのお礼も言っておく。







帰り道で新しく出来たヨドバシカメラの前に立て看板を見つける。こんなところまで親鸞聖人が。今年は大掛かりにいろいろと行事があるようだ。

残念ながらあまり落ち着きのない状態でのお参りだったが、久しぶりに明るい空、暖かい空気を感じ、東北でも少しは寒さが緩んだろうか、と思いをはせたことだった。

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同居人茨城から帰る

2011-03-16 01:22:04 | 現実
故郷の茨城へ、震災後の後片付けの手伝いに行っていた同居人が今日無事帰ってきた。

大地震があった翌日、土曜日の朝に車で出発。毛布や水、ガスコンロや食料を積んで運転していったのだ。
同居人の家族は無事で、家が壊れているという事もなかったが、水も電気も通らず不自由、家や会社の中も滅茶苦茶な状態だという事だった。

途中東京から茨城方面は物凄い渋滞、全く動かず、相当な時間がかかったそうだ。
千葉、茨城に入るともうコンビニでは何も売っておらず、持たせたカロリーメイトがなんとか役立ったようだ。コンビニでも、もう一日入荷がないと言っていたそう。水戸あたりから道路が陥没しているところがあり、電気は消えて真っ暗、信号も消えていたけれど、国道は車がたくさん通っていたのであまり問題はなかったようだが、信号が動いていないなんて考えたら恐ろしい事だ。千葉で車が渋滞中に大きな余震があって、運転していても相当揺れた、と直後に電話で言っていたし。しかも橋のそばだったので恐ろしかったそうだ。


宮城や福島のニュースに比べて茨城はどうなっているかあまり情報が流れず、私も「茨城沖で余震」などというテロップが流れると恐ろしくて、心配でしかたなかった。
家に亀裂が入っている、と言うことだったので、大きな余震で倒れたりしないだろうか、とか、わりに海に近いところなので、津波の影響がないだろうか、とか、離れていると本当に不安がつのるものだ。
それにちょっと北の福島では原発の事故。
同居人はあまり「焦る」という事のない人なので、悲壮感などまったくない、のんびりした電話やメールをよこしたりしていたが。

帰りはまた危ない道路を運転、その上片づけで疲れた体で何百キロも大阪まで運転というのも私には心配の種。またここのところ同居人は忙しく、土曜日曜も半日は仕事に行き、毎日3時間位しか寝ていなかった所へ、のことだったので、ちゃんと安全運転してこれるか、それも不安だった。
さすがに同居人も疲れがたまったので、夜早めに茨城を出、東京で一泊して休んでから大阪まで運転、という事にしたという電話があり、昨夜は一応胸をなでおろした次第だった。

「とにかく東京のホテルでシャワーを浴びられたのがよかった、疲れがずいぶんとれた」との事、極小バスでも、お湯を張って、お風呂に久しぶりに入ったら本当にすっきりしたそうだ。茨城では、飲み水は割にちゃんと手に入るのだが、トイレやお風呂、洗いもの用の水が困るとの事。
阪神大震災経験者も同じことを言っていた。昔のようなトイレであれば、かえって困ることもなかったかもしれないと考えると、不思議な気がしてくる。
同居人の両親にも早くお風呂に入れるようになってほしいものだ。まだ若い同居人でもこんな風に思うのだから。
日曜から電気が通り、炊飯器レンジなどが使えるようになってすこし楽になったということ、早く水道が使えるようになってほしい。


私はなんの不便もない大阪にいて贅沢なことだけれど、それでも落ち着かない心配な数日を過ごした。
人に言えば「大げさな」と言われてしまいそうな心配だけれど、それでも根拠のない心配でもない。自然災害など、どうなるか本当に予測もつかないものだし。
今日夕方、無事帰ってきたとのメールを(私は仕事だったので)見たときはいっぺんに気が緩んだ。

しかし驚いたことに夜遅くに今度は静岡で地震。
「俺が一休みしたあたりだ」と同居人。その時地震が起こっていたら、東名高速が通行止めになって帰れなくなっていただろう。

本当に、何事もない、というのは貴重なことなのだ。

「うちの布団だ…」と言って寝てしまった同居人を見ていると実際つくづく、そう思った。
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『初春の薬師寺』

2011-03-07 18:20:25 | 現実
私には珍しく、日曜日に早起きをして出かけた。

三寒四温というが、ここ数日は「三寒」のほう。真冬に戻ったように寒い。2月末は暖かくて、もう寒くはならないかも?などと期待を持ったりしていたのだが、まあ、通常そういうことはない。3月はあやふやな季節だ。

薬師寺東塔がこれから10年の解体修理に入る、という事は聞いていた。
しかも、それに先立って1300年の歴史で始まって以来、塔の内部を公開するという。世界遺産の五重塔の中などめったに見られるものでもなし、それに、解体修理に入ってしまえば、遠くから東塔西塔を望む、という素晴らしい眺めもしばらくはなくなってしまう。

同居人が車を出し、近くで朝マックしてから出発。
まだ7時台のマクドナルド店内も寒い。

薬師寺までは高速に乗ってせいぜい30分、というところ、とても近いのだ。
これまでに修学旅行も含めて3回めか?前回は10年前、その頃は近くの唐招提寺が解体修理中だった。同時に薬師寺には、平山郁夫画伯の壁画を見に来たのだ。



開門直後、早朝の薬師寺は人気も少なく、同居人と「寒いけど空気がすがすがしいね」と話しながら歩く。
東塔の内部は意外に狭く、どれだけ屋根が幅を利かせているかわかる、というくらいの容積だった。こちらにも金堂の天井にあるような花の絵がわずかに色を残している。
1300年前からこの塔はあるのだ。





唐招提寺は歩いてせいぜい5,6分の距離、のんびり行ってみることにする。
ずっと以前、まだ私が大阪に来て間もないころ、2人で冬に唐招提寺に来たことがあった。その時は参拝客も少なく、静かなちょっと荒れた感じの庭を歩き、雄大な柱の金堂、いかにも奈良のお寺らしいおおらかさを感じたものだ。

解体修理後もほとんど雰囲気は変わっていない。

しばらく散策し、車を置いた薬師寺に戻る。

近くの川べりを歩いて、遠くから塔の写真を撮る。古びた家の納屋に藁が積んであり、猫が日向ぼっこをしている。このあたりは塔以外高い建物がないので(建てられないのだろうけれど)背景になにもないのがすごい、と同居人が言う。



『初春の薬師寺』
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読書について①

2011-03-04 02:01:33 | 読んだ本について
読書が好きである。

というよりは、本が傍にないと、落ち着かないところがある。例えば買い物にでも出かけて電車に乗って、本がバッグに入っていないと気付くとあせってしまうのだ。
頭の中で、どこの本屋さんに寄れるかな?などと考えてしまう。
普段の通勤用のバッグになら、かならず入っているので、お出かけのとき違うバッグを持つと、本を入れるのを忘れてしまうことがあるのだ。

その本だが。

梅田の紀伊国屋などに行ってみると、いまどき流行り、の本の傾向がわかる。会社の会議でも、「推薦図書」風の勧め方をされることがある。
数年前なら「そうじ力」ちょっと前なら「速読法」。また、私たちの立場柄、「コーチング」系のもの、仕事の時間の使い方、なども良く勧められる。英語の勉強法はもちろんのことだが。

しかしながら、私はこの手の自己啓発本風のものは苦手。

「こうすると良いですよ」と言われると右の耳から左の耳に、という感じで「ふんふん確かに」と思いながら読みはするのだがさっぱり心に残らない。

私には、本は楽しみながら読むもので、勉強のために読むものではないのだ。
しかしながら、楽しみのために読んでいたほうが、かえって心に残るレッスンがあったりするものじゃないだろうか。少なくとも私はそうだ。

例えば、「そうじ力」で、いかに周りをきれいにすると気分も良く、仕事の効率もあがる、という事を説明されても、心に残ってはいないのだけれど・・・大昔に読んだ「赤毛のアン」で、「家の中の事をすべて済ませて、せいせいした気持ちで外出し浜辺に出た」というくだりは今でも覚えていて、「そうそう、何事も、すっきりさせるものはさせてから出かけると後が嫌じゃないんだよね」と思い返したりするのである。

つまり、子供に紙芝居で物事を教えるようなものか??つまり私は幼稚なのか??考えてみると


で、今回の本。
ダン・ブラウンの「Lost Symbol」。やっとこさ年末にペーパーバックを見つけて買ったのだ。以前に見たときはA4位ありそうなデカイ本で、これじゃ持ち歩けない、とあきらめたもの。
ペーパーバッグでも相当の厚みがあってバッグが膨れるけれど。
ペーパーバックってホント紙質悪いし持ちづらいし・・・


私は英会話講師である。したがって英語の本を読むべきなのだが、正直ネイティブじゃないので、楽しみは半減する。幾分「お勉強感」が出てしまう。

なので、こういうミステリー系(なのかな?)が飽きないのでよい。この人の「天使と悪魔」も読んだが面白かった。(映画は???だったが)
しかし、「ダ・ビンチ・コード」と言い、調べ物に時間かかるだろうな~などと思わせるものばかり書く人である。本を読んでいると描写されている場所に行きたくなるものだが、今回は全然ワシントンDCに行ってみたいという気にならないのはなぜ?

「ダ・ビンチ・コード」では無論ルーブルに行ってみたい気になったし、「天使と悪魔」ではローマで教会めぐりをしてみたいと思ったものだが。

正直この二つに比べると出来がイマイチ、ということか。
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