クリスマスはキリスト教。葬式は仏教。和風の結婚式といえば神主がいる神道(藤原紀香がそうでしたね)。日本の生活には様々な宗教が取り入れられている。しかし、かといって宗教にべったりくっついているわけでもない。私も全ての宗教に失礼を承知で言うが、キリスト教みたいに日曜に教会に行くなら家族と遊んでいたいし、仏教みたいに偉そうな坊主がなんのやくに立つの?と思うこともしばしばだし、イスラム教みたいに一日5回も礼をするのはめんどくさい。それなら無信論者が一番効率的じゃないか、と思っている。そして、各宗教のおいしいところだけ(先述したクリスマスなどのイベント)楽しめればそれが一番うまい宗教の使い方じゃないか、と思っていた。だからこそ、私は戦後の日本人が無宗教・無信論者が多いことを「いいことだ」と思っていたし、日本人が一番宗教をうまく扱っている国だと思っていた。しかし、それは違った。歴史を勉強していくだけでなく、教育の勉強をしていくうちに、なぜ「宗教」が存在するのかよくわかったのである。
イスラエルではキリスト教とイスラム教の激しい対立で普通の生活もおぼつかないし、またイラクでは同じイスラム教同士であるスンニ派とシーア派が対立して内紛が起きている状況がある。このように歴史を見ていくと、紛争や戦争は宗教戦争になると本当に対立が根深く続いてしまうのである。その点、神道・仏教やそれを融合してしまう八百万の神など、日本と言う国はそこそこいろいろな宗教とバランスよく付き合ってきた。奈良時代に道鏡問題や、織田信長の仏教弾圧、豊臣秀吉や徳川家康のキリスト教禁止、戦前日本の廃仏毀釈などあったが、時の為政者に左右されてきた宗教ではあったが、それでもそこそこのバランス感覚を得て日本の宗教は存在してきたのであった。
そして、戦後日本。国民が自由に考えることができるようになり、個人の自由が広がった。もちろんそれは宗教などの信仰においても自由になった。
そして、日本は戦後復興を支えるために高度経済成長を通じて懸命に働き、そのために宗教などのことを考える暇もなかったと言える。
日本人は創造性のない民族であるとも言われる。工業製品でもオリジナリティー溢れるものを生み出すのは不得意であるが、元となるものをさらに進化させ素晴らしいものにする能力には目を見張るものがあると言われる(これはあくまで通説であり、それが日本人の全てではもちろんない)。つまり、日本人は何かに夢中になるとものすごい能力を発揮できるが、自ら考えて動くのは得意ではないと言える(日本人の余暇の使い方をみても欧米人使い方が下手なのは明らかである)。
しかし、高度経済成長が終わり、学校でも会社でもゆとりがうまれてくると、日本人にとってある意味「不得意」な時代が出現した。「個性の時代」である。江戸時代や戦前の日本のように政治的に抑圧されることもなく、そして戦後日本のように経済に窮して懸命に働くこともない、「ゆとり」が私達に生まれたのである。このゆとりは「オリジナリティー溢れるものを生み出すのは不得意」な日本人を困惑させた。それゆえ、学校では校内暴力、いじめ、授業離脱、不登校などの問題が現出した。これは目的の見えないまま「勉強する意味」を見失い、だらだらと過ごした結果、自分の存在意義を主張するための手段なのだろうと思う。こういった時諸外国ではどうなのかと考えてみた。ヨーロッパではキリスト教、中東ではイスラム教という人にとっての大きな支えが存在し、人々の生活の中に溶け込んでいる。だからこそ、大きく困惑をすることもなく大過なく生活できるのかなとも思った。もちろんその背景にはキリスト教もイスラム教も仏教も、宗教自体が個人を尊重するものであるからこそであり、これが一部のサイコ集団のようであれば大問題が起こっているであろう。反対に言えば、キリスト教もイスラム教も仏教も世間に認められるような存在で、個人を認めるような存在だったからこそ、千年以上も続いて残っている宗教なのであろうと思う。
では日本ではどうか。残念ながら自分を見失った結果、一部のサイコ教団に傾倒してしまう例が多く見られる。そして、多くの信者や多くの資金を集めると様々な問題を引き起こすときがあるのである。地下鉄サリン事件しかり、グルが死体放置していた団体しかり、足の裏を診断して資金を集めていた団体しかりである。このような周りがみておかしいと思う集団になぜ加担してしまうのか。しかも、一流大学卒のような優秀な人たちが。その答えは、人の心の弱さにある。人は元来弱い生き物である。そして集団を作らねば生活できない。ヨーロッパや中東ならその心の弱さを補ってくれるものがキリスト教であり、イスラム教である。しかし、無信論者の多い日本人では個人が困ったとき支えるべきものが何もない場合がある。本来は家族や友人が支えてくればいいのだが、それらの人物が支えてくれなければ…。自分の存在を主張するために社会不適応な行動を取るだろう。犯罪行為やひきこもり。そして、それでも満たされないものは、「勧誘」されて甘いことばから新興宗教にのめり込んでしまうのである。無論、すべての新興宗教を否定するつもりはない。しかし、心の弱い、そして支えの少ない日本人にとっては、新興宗教にとってはまたとない勢力拡大の場なのである。
日本の国の行く先に待つものはなんであろうか。そして、この「ゆとり」は続くのであろうか。それとも…
参考文献
・水谷修氏の著作3つほど。
・浦沢直樹『20世紀少年』(小学館のマンガ)
イスラエルではキリスト教とイスラム教の激しい対立で普通の生活もおぼつかないし、またイラクでは同じイスラム教同士であるスンニ派とシーア派が対立して内紛が起きている状況がある。このように歴史を見ていくと、紛争や戦争は宗教戦争になると本当に対立が根深く続いてしまうのである。その点、神道・仏教やそれを融合してしまう八百万の神など、日本と言う国はそこそこいろいろな宗教とバランスよく付き合ってきた。奈良時代に道鏡問題や、織田信長の仏教弾圧、豊臣秀吉や徳川家康のキリスト教禁止、戦前日本の廃仏毀釈などあったが、時の為政者に左右されてきた宗教ではあったが、それでもそこそこのバランス感覚を得て日本の宗教は存在してきたのであった。
そして、戦後日本。国民が自由に考えることができるようになり、個人の自由が広がった。もちろんそれは宗教などの信仰においても自由になった。
そして、日本は戦後復興を支えるために高度経済成長を通じて懸命に働き、そのために宗教などのことを考える暇もなかったと言える。
日本人は創造性のない民族であるとも言われる。工業製品でもオリジナリティー溢れるものを生み出すのは不得意であるが、元となるものをさらに進化させ素晴らしいものにする能力には目を見張るものがあると言われる(これはあくまで通説であり、それが日本人の全てではもちろんない)。つまり、日本人は何かに夢中になるとものすごい能力を発揮できるが、自ら考えて動くのは得意ではないと言える(日本人の余暇の使い方をみても欧米人使い方が下手なのは明らかである)。
しかし、高度経済成長が終わり、学校でも会社でもゆとりがうまれてくると、日本人にとってある意味「不得意」な時代が出現した。「個性の時代」である。江戸時代や戦前の日本のように政治的に抑圧されることもなく、そして戦後日本のように経済に窮して懸命に働くこともない、「ゆとり」が私達に生まれたのである。このゆとりは「オリジナリティー溢れるものを生み出すのは不得意」な日本人を困惑させた。それゆえ、学校では校内暴力、いじめ、授業離脱、不登校などの問題が現出した。これは目的の見えないまま「勉強する意味」を見失い、だらだらと過ごした結果、自分の存在意義を主張するための手段なのだろうと思う。こういった時諸外国ではどうなのかと考えてみた。ヨーロッパではキリスト教、中東ではイスラム教という人にとっての大きな支えが存在し、人々の生活の中に溶け込んでいる。だからこそ、大きく困惑をすることもなく大過なく生活できるのかなとも思った。もちろんその背景にはキリスト教もイスラム教も仏教も、宗教自体が個人を尊重するものであるからこそであり、これが一部のサイコ集団のようであれば大問題が起こっているであろう。反対に言えば、キリスト教もイスラム教も仏教も世間に認められるような存在で、個人を認めるような存在だったからこそ、千年以上も続いて残っている宗教なのであろうと思う。
では日本ではどうか。残念ながら自分を見失った結果、一部のサイコ教団に傾倒してしまう例が多く見られる。そして、多くの信者や多くの資金を集めると様々な問題を引き起こすときがあるのである。地下鉄サリン事件しかり、グルが死体放置していた団体しかり、足の裏を診断して資金を集めていた団体しかりである。このような周りがみておかしいと思う集団になぜ加担してしまうのか。しかも、一流大学卒のような優秀な人たちが。その答えは、人の心の弱さにある。人は元来弱い生き物である。そして集団を作らねば生活できない。ヨーロッパや中東ならその心の弱さを補ってくれるものがキリスト教であり、イスラム教である。しかし、無信論者の多い日本人では個人が困ったとき支えるべきものが何もない場合がある。本来は家族や友人が支えてくればいいのだが、それらの人物が支えてくれなければ…。自分の存在を主張するために社会不適応な行動を取るだろう。犯罪行為やひきこもり。そして、それでも満たされないものは、「勧誘」されて甘いことばから新興宗教にのめり込んでしまうのである。無論、すべての新興宗教を否定するつもりはない。しかし、心の弱い、そして支えの少ない日本人にとっては、新興宗教にとってはまたとない勢力拡大の場なのである。
日本の国の行く先に待つものはなんであろうか。そして、この「ゆとり」は続くのであろうか。それとも…
参考文献
・水谷修氏の著作3つほど。
・浦沢直樹『20世紀少年』(小学館のマンガ)