一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。
土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。写真の左下にあるガラス板は、館内の花壇や池庭を間近で見るための設備である。
別稿で諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。
この池庭を再現したのが、博物館のこちらの写真である。こう見ると間近に屋敷があり、そこから眺める景色であったことがよくわかる。
池庭の上には水路がつながっていた。池庭には常に水が張ってあったのだろう。その導線も含めてかなり考えられた館である。
次に館の中庭にある上記写真の草陰。これは庭園跡にある花壇跡。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。
この花壇を再現したのが、博物館のこちらの写真である。写真は会所の縁側から撮ったものである。会所の来客が必ず見る眺め。朝倉氏が豊かな生活をしていたことだけでなく、客人をもてなす心もあった。そして、客人に文化水準の差を見せつけることにもなったと想定できる。
館跡には2008(平成20)年にはなかった義景公墓所があった。この礼拝堂は2012(平成24)年に作られたそうだ。博物館の新設もそうだが、地道な発掘調査が研究推進を産み、ここまで中世遺跡を地元で盛り上げる結果となったことが本当に頭が下がる思いだ。
敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏の七尾城の居館にもこのようなものがあったのだろう…と想像するだけでも楽しい。
戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、平面展示だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡博物館に模型と一部復元がある。
そういえば、この義景館は2007(平成19)年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。この模型をみると、建物の密集度はかなりあるが、勝沼氏館のように「ハレ」(もてなしの空間)と「ケ」(生活の空間)の空間に分かれていることがわかる。
義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。