畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

ドラクエ11考察2「バンデルフォン王国について」

2017-08-28 04:44:00 | ゲーム
 ドラクエ11の舞台設定が面白かったので、わかったことをまとめてみようと思います。ネタバレを含んでいますので、ストーリーを十分まだ楽しんでいない方は、見ないことをお勧めします。今回は花と芸術の王国『バンデルフォン王国』についてです。


--以下ネタバレ注意--

≪バンデルフォン王国の現状≫

 五大国のうち、ユグノア王国とバンデルフォン王国はすでにゲーム開始時に滅亡している。ただ、16年前に滅亡したとされる「ユグノア王国」は城や城下町や城下外の町の建物までまだしっかりと一部残されているのに対して、数十年前(注1)に滅亡したとされる「バンデルフォン王国」の城跡は地上部分はほとんど石の残骸しか残っておらず、唯一城の地下部分だったと思われる2ヶ所(まほうの扉で施錠された宝物庫と不思議な力で施錠されたネルセンの試練部分)のみが残るのみである。

↑地下部分の階段


↑地下の宝物庫(ここだけ少し城らしい音楽に変わるところがもの悲しさを語る演出である。)


≪バンデルフォン王国の始まり≫

「バンデルフォン王国」の創設は、勇者ローシュ、賢者セニか、戦士ネルセン、魔法使いウラノスが魔王との戦いに終止符をうったところから始まる。
 戦士ネルセンは、「邪神との戦いの後、荒廃した世界を立て直すためにバンデルフォン王国という国を建てた。伝承によると彼はその王国に邪神との戦いで使った強力な武器を隠した」(神の民の里の住人の証言)という。


≪バンデルフォン王国の崩壊≫

 滅亡当時の「バンデルフォン王国」の様子を、現在ネルセンの宿屋の書棚に置かれている『はるか遠き故郷 バンデルフォン』という本から抜粋して見てみよう。
 「黄金の獅子と呼ばれていた若き名君アーサーが治めていた。アーサー王は、民の生活が守られるよう優秀な兵士を育て、強力な騎士団を有するなど、民のことを第一に考え、慕われる王であった。しかし、その栄華は長くは続かなかった。突然魔物たちが現れ王国を襲ったのだ。アーサー王は、騎士団を率い立ち向かったが、攻防むなしく王国は滅び去った。魔物たちはバンデルフォンの軍事力をおそれ襲ったと言われるが、真実はわからない。はかなく散った王国の跡地からは、今でもアーサー王の無念の声が聞こえてくるようだ。あの悲劇は決して忘れてはならない。」

 戦士ネルセンが創立し、騎士団があったバンデルフォン王国。魔物にあっという間に滅亡させられたのはちょっと?マークだったが、その理由を元ユグノア国王のロウが理由を明かしてくれた。「はるか昔…… 栄華を誇った とある王国は魔物が化けた奸臣によって 滅ぼされたという。」(ユグノア城でのロウの証言より)はっきりとロウはバンデルフォン王国と言ってはいないが、ロトゼタシアで栄華を誇った=五大国と考えると、条件に当てはまるのはバンデルフォン王国以外ない(※2)。ということは、ウルノーガがバンデルフォン王国の中枢に入り込んだことで、内側から崩壊させられたと言える。


 騎士団の有名な騎士として、デルカダールにいる老人が「アスタロト」という大将軍について証言している。その老人によると「……あのアスタロトという魔物じゃが、ワシが調べたところによると、もとはバンデルフォン王国の大将軍だったそうじゃ。しかしあるとき、卑劣な罠にはめられて全力を出すことすらかなわぬまま、部下とともに命を落としたのだという。その無念さがヤツを魔物に変えたのじゃろう。」(クエスト「戦場をさまよいし無双」の老人の証言より)。怨念になった理由は、正規に戦って負けたのではなく、前述のように王国の中枢に入り込んだウルノーガが内側から手引きしたため、攻防戦は圧倒的不利となった故であろう。
 主人公の仲間の一人である現・デルカダール王国の将軍である「グレイグ」はバンデルフォン王国出身。国の滅亡で途方に暮れていたところ、現デルカダール王に雇われたという。


 王国を魔物が襲った理由を、前掲書では強大な軍事力のため指摘しているが、ユグノアも魔物の一斉攻撃で一日で攻め落とされるくらい故、真実は違うと思われる。その理由は前述の神の民の里の住人が証言している。
 「今思えば、魔物がその王国を襲ったのはその武具を破壊するためだったのかもな……。」と述べているとおり、魔物たちがネルセンの試練などの施設破壊を企んでいたものと思われる。


 そこで、現在のバンデルフォン王国の跡をもう一度見ると、16年前に滅亡したユグノア城跡や城下町がかなり詳細に残っているにもかかわらず、30年ほど前に滅亡したバンデルフォン王国の跡がほとんど残っていないが比較できる。

 魔物のユグノア城襲撃の目的は勇者の暗殺であるが、バンデルフォン王国襲撃は伝説の武器防具の破壊だったので徹底的に破壊され、跡もほとんど残っていないのではなかろうか。さらに推察すると、ウルノーガは王国の中枢に入り込み本来は伝説の武器防具を内密に破壊しようと内偵していたのだが、それらしい箇所に武器防具がないばかりか、怪しい入れない場所もあり、徹底的な殲滅で宝物庫の場所を不明にすることに方針転換したのではなかろうか。


≪バンデルフォン地方の経済≫

 現在のバンデルフォン地方で現役の公共施設は2軒しかない。一軒の宿屋(バンデルフォン王国創始者の名前をとってネルセンの宿屋という)がある。


 もう一軒船着き場と管理施設のようなものがある。

その施設の中にいる人の証言によると「今でこそこの港もひなびた様子だが、当時はデルカダールのような大国とのかけ橋として栄えていたそうだぜ。」と述べていた。若い男性の証言だが伝聞形式の証言なので、この人はその活気があった頃の様子を知らないと見える。30年前とはいえ、施設があとかたもないのはどうしてだろう?と思う。

バンデルフォン地方は気候が温帯のようで、周辺は豊かな緑に恵まれている。

その豊かな気候を生かして、周辺は麦の生産を行っている。そのあまりの絶景を表して、小さなメダル愛好家でバンデルフォン出身のヌルスケは墓標にこう記している。「小さなメダルを求め世界を愛した私が心の底から愛した宝は2つだけ。金色にかがやく小さなメダルと、それによく似た紺色の小麦畑……我が故郷、バンデルフォンの風景なり。」ヌルスケが「伝説の秘宝」と話した景色にバンデルフォンの絶景があげられるほどの風景なのである。
 ちなみにこの小麦は、すでに無政府状態となったバンデルフォン地方でも管理され続けていることから、王国崩壊後も少数の人々は豊かな自然を背景に地元にとどまったと思われる。そしてメダル女学園に輸出なども行われていることから、私的な貿易も民間商人を通して行われていると考えられる。この地方には風車が多数見られるが、地元で加工している徴証と言えよう。


(注釈)
※1数十年というと言葉から、少なくても10年以内のできごとではない。そして100年に近い出来事でもない。実際にはグレイグとホメロスは30年デルカダール城に住んでいるというので、バンデルフォン王国の滅亡は少なくとも30年以上40年以内(グレイグが国がなくなった時にデルカダールに拾われたと述べているので)という時間軸だと思われる。
※2ロウが「はるか昔…… 栄華を誇った とある王国」という言葉を「バンデルフォン王国」になぞらえたが、はるか昔…という時間軸が気になる。もしかすると、プチャラオ村の遺跡に存在していた「古代プワチャット王国」のことを指すのかもしれない。


≪追記≫
新たな事実がわかれば、この記事に追加訂正していきます。
ちなみに画像は直接TVを撮った画面なので、粗いです。すみません。



ドラクエ11考察1「五大国について」

2017-08-27 13:41:00 | ゲーム
ドラクエ11の世界である「ロトゼタシア」には三大王国が現存し、過去には五大王国だったと言われます。(ネタバレも含みますので、ストーリーを十分に楽しんでいない方は見ない方がよろしいかもしれません。)


--以下ネタバレ注意--


≪ドラクエ11舞台のロトゼタシアの国家について≫


<現存>
1.騎士の国『サマディー王国』
2.不動の強国『デルカダール王国』
3.美しき雪の都『クレイラモン王国』
<滅亡>
4.歴史深き『ユグノア王国』
5.花と芸術の王国『バンデルフォン王国』


≪四大国会議と各々の国事情≫

 五大国は定期的に「五大国会議」と呼ばれる協議会を開催して、諸問題に向き合い、世界の国々を導いてきた。しかし、数十年前にバンデルフォン王国が魔物に襲われ滅亡して「四大国会議」となってしまった。ドラクエ11の舞台の16年前に、ちょうど「四大国会議」が開かれていた。


 上記写真は、16年前のユグノア城で行われた「四大国会議」の様子である。上から時計回りにユグノア・アーウィン王(当時)。

 次にサマディー王。

 次にユグノア・ロウ前国王(当時)。

 次にデルカダール王。

 最後にクレイモラン王(当時)


 議題は「勇者の誕生について」で、議題や開催場所(ユグノア城)を考えると、「四大国会議」の開催権や議長などはユグノア王国に存在すると思われる。その証拠にユグノアのみ前国王も会議に列席している。ユグノア王・アーウィンは、この会議で勇者の誕生は魔王の復活と表裏一体であることで危機感を共有しようとしていたと思われる。
 会議ではデルカダール王とクレイラモン王がアーウィンの本気度を試す仕掛けをしていた。そこから考えると、四大国の位置関係はユグノアが議長で、デルカダールが軍事力もあって発言権2位。魔法などの力や博識など知恵をもってクレイラモンが3位。サマディーはデルカダールやクレイラモンの発言内容を事前に知らされていなかったようで、どちらかというと蚊帳の外に置かれているような気がするので4位であろう。おおよそこの「四大国会議」では国力によって発言権があるようだ。
 バンデルフォン王国があった「五大国会議」だった時には、その軍事力からおそらくデルカダール王国と同列くらいの発言権だったろうと推察される。


 会議の結果は勇者の成長を見守ることで一致し、デルカダール王は勇者が16歳になったときにデルカダールで修行させることを約束した。
  しかし、それを魔物たちに利用され、ユグノア城はモンスターの一斉攻撃にあい一夜にして滅亡。国王アーウィン(ウルノーガに魂を乗っ取られたデルカダール国王が殺した)と后のエレノアは死亡し、デルカダール国王と一緒にユグノアに来国していたマルティナ王女が勇者を救出して逃がしたとされる。


≪三大国になって以降≫

 結局、四大国が三大国になってしまったが、「三大国会議」は16年間開催されなかった。その理由はデルカダール国王がウルノーガに乗っ取られたためであるが、なぜウルノーガは16年もの間、デルカダール国王に乗り移っていたのか疑問である。(実際、この16年間の国王は表情は険しくなり、后の命日に花さえ供えないほどの生活ぶりだったというが、城の誰もがその異変を気づかないというのは、それなりの普通の生活を送っていたと思われる)

 このブログでは、ドラクエ11の世界観についてゲームの内容を中心に若干の考察を試みようと思います。次回はバンデルフォン王国について考察します。ちなみに画像は直接TVを撮った画面なので、粗いです。すみません。


井伊谷城訪城記

2017-08-21 16:20:00 | 歴史

 今回は、2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台でもある浜松市引佐町にある「井伊谷城」(いいのやじょう)とその周辺を11年ぶりに訪問しましたので、その様子を紹介します。


 大河ドラマの舞台になると、近くの公民館が大河ドラマを紹介する施設になります。2017年は浜松市引佐町にある「みをつくし文化センター(細江協働センター)」が「おんな城主直虎 大河ドラマ館」になっていました。


 2016年の大河ドラマは「真田幸村」でした。昨年もその大河ドラマ館に行きましたが、大河ドラマ館というのは展示内容はそれほど変わらないものだと実感しました。写真は井伊家の初代が捨てられていた井戸で大河ドラマでよくみかけるシーンなのですが、このようなドラマの一場面になっている所だけ写真が可能なのも、昨年と同様。あとはストーリーの紹介。キャストの衣装やスタジオセットの作り方などが展示されています。どちらかというと、歴史的内容に迫るものはありません。



 ちょっと嬉しかったのは、エントランスが井伊氏館の入口のようなセットになっていることでしょうか。

 大河ドラマ館周辺はやけに整備されているのですが、「気賀の関所」が大河ドラマ館に隣接しており、元々歴史的観光地として整備されていました。


 せっかく来ても大河ドラマ館だけではもったいないので、史実に触れましょう。まずは井伊家の菩提寺の龍潭寺に行きます。その前に、寺から歩いて5分程の所にある井伊家初代が捨てられ拾われた井戸に行きます。大河ドラマ館で表現されていた井戸です。

「伝・井伊共保出生の井戸」ですが、大河ドラマと全然違います。それはそうで、江戸時代に井伊家は幕府に認められ、彦根藩主になります。その彦根藩がこの井戸をいつも整備をしていたようなので、このような江戸時代的な井戸になっているようです。


 至るところに井伊直虎の宣伝看板がありますが、大河ドラマも2017年11月までだし、大河ドラマ館も2018年1月まで。その後はどうなるでしょうか…。



 こちらは、ドラマで直虎役の柴咲コウさんが何度も出たり入ったりした龍潭寺の山門(入口)です。

 龍潭寺は733(天平5)年に始まると伝えられる古くからあるお寺です。立地的に井伊谷城の南にあり、大河ドラマでも度々登場するように、実際は砦のような役割を持っていたようです。建物は大きいです。江戸時代に建立されたもののようで、室町の面影はありません。

 龍潭寺の庭ですが、なんとなく浜名湖に似ている気がします。実際お寺でもそう呼ばれてるようですが、元々は違うようです。



 龍潭寺にある井伊氏歴代の墓です。初代共保から直虎の22代の父・直盛、23代の直親、そして女城主と言われる直虎の墓もあります。24代直政の墓もありました。
 またこの隣に井伊の与力となっていた菅沼・鈴木・近藤の墓もあります。井伊家の家老だった小野家もあますが、史実の資料としては小野家は井伊に反逆したとあり、小野政次の弟の小野玄蕃の墓はあっても政次の墓はありません。徳川に処刑された地の近くに地域住民が立てた供養塔があるようです。
 大河ドラマでは小野政次は良いイメージで描かれています。史実に資料では反逆者として散々な記述が書かれています。どちらが正しいかというのは実際のところわかりません。書かれていることが嘘か真実かわからないからです。確かなことは、「歴史上、井伊家にとって小野家は反逆者」という位置づけであるということだけです。



 きっと大河ドラマを見ている人は、次に井伊谷城に行くことでしょう。井伊谷城に行く前に、ぜひ史実の井伊氏を知ってほしい。ということで紹介するのは「浜松市地域遺産センター」2017年1月17日にオープンしたもので建物も新しいです。夏休みとは言え平日に行ったので、ほとんど人がいませんでしたが、ここはお勧めです。


 2018年1月14日まで企画展「戦国の井伊谷」というものをやっています。私的にはここがメガヒットでした。2006年に井伊谷城を訪れた時には資料館もないので、全体像がつかめませんでしたが、この企画展で史実に井伊氏とその生活空間がよくわかりました。

 写真は戦国の井伊谷模型です。大河ドラマでは井伊谷城の撮影に「高根城」(詳しくは義綱他国訪城館記「高根城」参照)が使われていますが、高根城はとても小さな城。井伊谷城ってそんなだったの?と思っていたのですが、どうやら本当にそうだったようです。
 模型を見ると写真左にあるのが山城の「井伊谷城」ですが、ほぼキレイな方形の質素な館程度のもので、麓にまあまあな規模の居館があります。これはまさに典型的な室町時代の国人の城と居館です。これを称してこの企画展では「井伊谷城は古い時代の方形居館的な特徴を残したまま、廃城となったとみられます。」とあり、納得。
 このような事実を元に井伊谷城に登ると、いっそう楽しめること請け合い。きっと企画展終了後も、この施設に井伊谷城の模型は残ると思うので、ぜひ井伊谷城登城の前に寄ることをお勧めします。


 では、ここに車を置いて(地図にあるように駐車OKです)、引佐図書館を横目に、井伊谷城を目指します。道筋は上記地図の通りです。駐車場から入口まで徒歩10分程です。



 11年前にはなかった大きな案内看板。そして綺麗な舗装された道。大河ドラマの舞台になるとこんなに整備されるのですね。

 綺麗に舗装されたとは言え、前と同じ道なのでかなりの急角度です。手すりがついたことがプラスですが、本丸まで徒歩15分。ちょっとキツいです。

 本丸到着です。本丸からは引佐の町が一望できます。井伊氏もここから領国を見渡したことでしょう。本丸の看板によると、本丸には土塁がわずかに残っていますが、そんなに広くはありません。ここを平時に居館として利用したとは考えにくく、やはり緊急時の避難用の城で、平時には麓の居館にいたのであろうと思います。となると、ここには倉庫などの単純な設備施設と、塀や物見櫓などの防御施設くらいしかなかったのだろうと思います。まさに高根城と同じです。う~むNHKの考証恐るべし。
 
 山頂には看板と直虎の顔はめパネルがあります(2017年8月現在)。11年前の2006年の8月の写真が下の様子です。

 看板も字だけのもの。顔はめパネルもないし、案内板も丁寧なものはありませんでした。大河ドラマも力を感じます。



 井伊谷城を降りて5分ほど歩いたところにある「井殿の塚」。24代直政の祖父・直満が家老の小野政直の讒言により今川家に対する謀反の疑いで駿府で打たれました。井伊氏歴代の墓に与するわけにも行かないので、供養塔として少し離れたところに立てられた塚です。


 井伊谷城から南東に推定される井伊氏館。第4区公民館の前に館の看板が立っていました。ここから井伊谷城を眺めるとこんな距離感です。

 はっきり山が見えますね。この居館と城の間に「井殿の塚」があります。

 公民館には「井伊家屋敷想像図」がありました。こういうのを見逃すと後で残念な気持ちになります。ちょっと足を伸ばして来てよかった。ちなみにこのあたりは宅地化されており、公民館や井殿の塚を見て回るには、地域遺産センターに駐車したまま歩いてくるのが良いかと思います。


 地域住民の町おこしのために作られた「井伊直虎像」結構な力作です。公民館に張り紙で宣伝してありましたが、詳細な位置が書かれていないので、見逃しがちです。さて大河ドラマが終わるとこの熱も冷めてしまわないか心配です。