一乗谷の町の外にある「西山光照寺」を訪れます。
この寺院の台座が石垣でしっかりと作られている。おそらく発掘調査を基に石垣を復元したのだろう。道路の横にある白いアスファルトは中世当時の通路が発見された場所のようだ。
西山光照寺はこの時代隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院だった。この寺院は朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興されたと伝えられる。境内だった場所に至るところには大きな石組みの水路もあり、写真の場所はかなり大規模な山門があったと思われ、寺がかなりの規模であったことが物語られる。そしてこの写真の背後には、40体の大きな石仏が向かい合っている。
石仏の前は大きな池であったようだ。一乗谷史跡には石仏が多く存在する。故人の供養のために造られたと考えられ、戒名や生没年月日が記されたものも多くあると言う。一乗谷は町の外まで施設があり、かなり平和的に発展していたと考えられる。
次に、一乗谷の町の北出入口である下城戸。
下記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門である。
中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。その門の外に博物館の遺構展示室にあった石敷遺構があり、おそらく川湊として使われたものだとしている。外部から入ってくる人を直接一乗谷の町に入れない工夫なのだろう。
下城戸から少し南に入ったところ。現在の道路の下に往事の通路の遺構が見て取れる。ここにも側溝が見え、下城戸からすぐ近くの町の外れではあるが、しっかりと町が整備されていたことがうかがわれる。
町割りもしっかりとされているようで、一乗谷の発展振りがここでもうかがわれる。
この建物からは甕の跡が大量に発掘されている。これは町家群のような紺屋なのか、それとも食料倉庫だったのだろうか。
すこしずつ南に向かいます。
石組みの壁に側溝をまたぐ石段。これは誰かの屋敷なのだろうか。
かなり大きい石が使われているし、規模が大きい。ここはなにがあったのだろうか…と思うとちゃんと説明する看板があった。
この地区からは、複数の墓地跡や五輪塔があったことから寺院であったと推測された。しかも字(あざ)という住所が「雲正寺(うんしょうじ)」という名前であったことから、墓地跡から広がる雲正寺という寺院があったと想定されたと言う。何も文書がなくてもここまでわかるのだから、発掘調査に加えて、地元の伝承だとか地名って大事なんだと改めて認識した。
では次に復元街並みの北側出入口に向かいましょう。
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