畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

堀越御所訪館記

2016-12-04 16:44:00 | 歴史

 2016年11月に静岡県伊豆の国市にある「堀越御所」を訪問。ここには将軍足利義政の弟である政知が在所したしたところ。

 15世紀後半、鎌倉公方が幕府に対して独立的な動きをするため、公方である足利成氏を征伐するために室町幕府は今川軍を鎌倉に攻撃させ、結果成氏は茨城県の古河市に逃れ、以降、古河公方と称するようになる。そこで幕府の将軍足利義政は弟の足利政知を新たな鎌倉公方とするために関東に派遣するも、予想以上に関東の勢力は古河公方足利成氏になびいており、政知は伊豆まで下向するも、それ以上東進することができず、結局そこに留まることになり、以降は堀越公方と称されるようになったのが、堀越御所の始まりである。



 現在の堀越御所は伊豆の国市四日市町御所ノ内932という住所らしいのだが、カーナビには出てこず、探し当てるのになかなか苦労。ただgoogleマップに「堀越御所」と入れると正確な上記の場所を示すので、そちらを見ながらカーナビの設定をすることをお勧めします。こちら駐車場がない。私は平日休みに行ったので上記写真の公園入口に車を止めてしまったが、なかなか車の停め場所に悩むところ。



 で、こちらの堀越御所は上記写真のようにただの広い公園になっており。整備もほとんどされいない。

 公園内にはテニスコートもあり、この公園が市民の憩いの場として使われていることはわかるが、史跡としての価値を考えると、1984(昭和59)年に国指定史跡になっていますが、名称も「伝堀越御所」となっており、堀越御所と伝わるだけで、本当にここに堀越御所があったのかどうかと疑問ももってしまう。



 しかし、公園の前にある看板によると、国指定史跡に指定された理由は、「20回にも及ぶ発掘調査で園池(庭園内の池)や中国から輸入された高級の焼き物などから、鎌倉時代の北条氏の屋敷跡に、室町時代の堀越御所がつくられたことがわかりました。」とあり、ここに堀越御所があったことは確定のよう。
 ただ、資料館があるわけではないので「堀越御所」について詳しいことがわからない。なので、堀越御所からほど近い韮山駅近くにある「伊豆の国市韮山図書館」に行き、堀越御所のことを調べようと思った。



 すると図書館には「堀越御所発掘調査報告書」もあり、しっかりと堀越御所の資料館の役割を果たしている。私が中でも注目したのが、郷土史コーナーにあった『中世の伊豆国』(小和田哲男、2002年、清文堂出版)。この本では、わかりずらい発掘調査の内容を、簡単に紹介してくれているので、その一部をここで紹介。



 「堀越御所」とは上記の通り、本来鎌倉公方になるべき立場にあった足利政知が伊豆に足止めされて日常生活を送る拠点となった屋敷のことである。ただ鎌倉時代にはそこに北条時政が居た居館があり、場所も後世の堀越御所と重なっている。北条の時代に築かれた堀からとって「堀越」の地名が生まれたということである。

 堀越御所の規模はその周辺の地形や発掘調査から、東西218m、南北218~327mの規模と推定されており、甲斐武田氏の躑躅崎館が東西190m、南北280mであることを考えると、堀越御所は相当な規模の館だったと考えられる。ただ発掘調査も部分的なものが多く、館内の建造物の全体像はわかっていない。現在では瓦はなく檜皮葺の小規模な建物が何棟も建っていたようである。



 御所の中では庭園遺構が発掘されており、池の淵にそって縁石列があったり、大きな石の抜き取られた跡(館放棄後に抜き取られたか?)があったりと、かなりの数の立石が発見されており、相当な規模な庭園だったと思われる。

 また、この堀越御所内から発掘された陶磁器片は主に12世紀と15世紀の時代に見られるが、12世紀は北条館遺構からと考えられ、15世紀遺構が堀越公方関係のものと考えられている。さらに15世紀の出土品の中で、天目茶碗や平碗、茶釜、茶臼も多く、茶の湯がさかんだったと考えられ、やはり将軍の弟というからにはかなりの文化水準であったことが想像できる。


 さらに食生活を知ることができる遺構も出土しており、梅干しにしたと考えられる梅。果物として食べられたモモ、クルミ。サザエなどの貝殻、魚の骨、獣の骨などがみつかっており、政知は豊かな食生活を京都より離れた伊豆の地で楽しんでいた様子がうかがわれる。


 「伝堀越御所跡」にただ行っても、大きな広場を見てあまり雄大な歴史を感じることはできない。同公園前に平成8年3月韮山町・韮山町教育委員会が建てた看板の最後の言葉にはこうある。
 「町では、このような重要な史跡を皆さんに開放して、郷土の歴史を再発見し、歴史の町・韮山町に誇りをもっていただけるよう、史跡公園とする構想をたてています。現在、土地の買い上げを進めていますが、終了しだい発掘調査を実施し、その結果をもとに復元・整備をして史跡公園としていく予定です。」
 このような文面が書かれて早20年。韮山町はすでに伊豆の国市となり、看板が立てられてからまったくその姿が変わることがない。果たして「堀越御所」が往年の姿を体感できる場所になるのか。首を長くして待っていたいと思う。