畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

オグシオ

2008-08-31 08:53:23 | 日記

 スポーツで活躍している人は本当にスゴイと思う。さらに、カワイイなら言うことなし。ビーチバレーの浅尾美和もカワイイけど、オリンピックに出場できるくらいならね。石川遼もカッコイイけど、プロに入ってまだ優勝してないよね。ちょっと調子がでると騒がれる野球選手もいるけど、それほど注目されていないスポーツだと、スポーツ自体の人気を高めるには人気選手にあやかるしかないわけですね。
 で、バドミントンのオグシオ。すげーカワイイ。特に義綱はシオ(潮田玲子)派です。オリンピックでもうちょっと勝ち進んでほしかったけど、オリンピックに出場するだけでも大変なことだと思う。それだけ実力もあるんですね。
 で、オグシオの写真集も出ているみたいで、「買いたい~」と言ったら、我が妻に「ど~せ、すぐ飽きるんだからやめとけば?相武紗希、新垣結衣なんかはもういいの?」とあきれられている…。やっぱり、自分の心は「瀬能あづさ」かぁ。

 家の近くにあるジャスコにあるこの立て看板。見るたびにいつも立ち止まってしまう(笑)

七尾城の保存・整備は生きているうちに…

2008-08-28 20:21:00 | 歴史

 私の家から車で20分程の書店は蔵書が20万冊と言われる程多い。ほとんど図書館並みである。今回は雑誌『戦国史研究』55号を買ってきた。実際に手に取れるのはやはりいいなぁ。もう一つ購入したのが『日本の遺跡19 根城跡』(同成社)という本だった。昨年に武藤様と一緒に一乗谷朝倉史跡に行って以来、考古学に目が向くようになった。それ以降、草土千軒などの発掘調査や、大内館、大友館などの発掘調査を追っている。いつかその知識が本格的な七尾城の発掘調査が始まった時に役立つと思ってのことである。
 しかし、私が『日本の遺跡19 根城跡』を読みすすめていくうちに、「生きているうちに七尾城の発掘調査と整備は終わるのか?」と、疑問に思った。

青森県八戸市・根城の調査・整備まで
・史跡の公有化開始(1972年~)
・史跡の発掘調査(1974年~1989年)
・「史跡根城跡環境整備基本設計書」が策定される(1983年)
・遺構整備方法の検討開始(1987年)
・整備区域の測量~主殿の復原(1985年~1994年)
・「史跡根城の広場」一般公開開始(1994年~)

 史跡地域の公有化から、史跡公園のオープンまで22年の年月…。

一方の七尾城跡は…
・七尾城保存整備計画策定の動きが始まる(1998年)
・七尾城保存管理計画の概要が発表される(2002年)
・七尾城本丸跡地中をレーダー調査(2005年)

 えっ…これだけ…。1992年くらいに七尾城下町の発掘調査報告がなされたが、これは老人ホーム建設に伴う緊急発掘調査である。2005年にも七尾城下町が発掘されたが、これは能越自動車道建設予定地の範囲での発掘調査である。七尾市教育委員会もぽつぽつと発掘調査をやってはいるらしいが、財政状況から範囲は小さいらしい。しかしやっているのなら定期的に報告をしてもらいたいものである。「広報ななお」なんかに発掘調査の報告がでているのかな?
 発掘調査に関して言えば、七尾城跡より、宝達志水町の御舘館跡の方がよっぽど進んでいる。御舘館跡の発掘調査は、旧押水町教育委員会が行っている。2000年の押水町の人口は約8500人。この時期の七尾市(旧七尾市)の人口は5万人ほど。人口規模が違えば財政状況も違ってくるなかで、自前で発掘調査をするとはさすが…。静岡県旧水窪町は2000年当時で人口3200人程度。その人口・財政規模で、水窪町は町おこしのため、中世山城史跡・高根城を復原したのである。一体あれだけの規模の城を復原するために費用はどのくらいかかったのであろうか。
 現状の七尾城跡は史跡の公有化も終わっておらず、根城の整備スケジュールに当てはめると、1972年以前の段階である。仮に公有化が5年後の2013年に始まったとして、根城の整備スケジュールに照らし合わせると、史跡七尾城公園のオープンまで、2035年までかかることになる。七尾城は史跡の範囲も広いことから、整備により一層時間がかかることになるかもしれない。私が生きているうちに、七尾城の史跡公園整備は終了するのだろうか。命あるうちに七尾城の復原景色をみたいものである。

余談・変革の頃合い

2008-08-27 15:04:59 | 政治・経済
「変革」と言って最近思い出すのはアメリカ民主党大統領候補のオバマ氏。アメリカ国民に閉塞感漂うとき政権は交代する。アメリカは「変革の頃合い」であると言える。ただ問題がある。アメリカ民主党は注目されたがゆえに、オバマ氏とヒラリー氏で熱烈な争いをし過ぎてしまった。だから民主党内がオバマ派とヒラリー派に割れてしまったのだ。変革の希望が強まる中、チャンスを生かせず、権力強化に失敗した民主党。これは没落していく守護大名にも似ている。ただ、違うのは守護大名は下剋上されてしまえば命がうばわれてしまうが、政治家の場合は命が失われることはあまりない。もし、健康状態を損ねたら、途中で投げ出しちゃえばいいのだ。そう某国の総理大臣のように…。やはり現代というのはつくづくいい時代である。

「変革」が起きる頃合は?

2008-08-26 22:09:41 | 歴史
 1987(昭和63)年に国鉄(日本国有鉄道)は巨額な赤字を抱えたために、民営化され、JRになった。他にも民営化されたものに日本電信電話→NTT、日本専売公社→JT、道路公団→NEXCO、郵政公社→JPなど民営化されたものは多々ある。国の仕事から民営化される時にはほぼすべてのケースで反対者が多数いたが、世論に押し切られ民営化を達成した。
 今から1993年にはリクルート問題に端を発して政治改革がさけばれ非自民連立内閣が発足し、55年体制が崩壊した。2001年に森内閣で支持率が急激に低下し、選挙に勝てないと踏んだ自民党の議員たちは、それまで異端児扱いしていた小泉を総裁に選んだ。2007年には年金問題が紛糾し、社会保険庁が年金機構に変わることになった。社会の変化は日常なかなか見られないが、後で大きな変化だったと思うことはままにある。これらの社会の大きな変革に共通していることは?
 さて、時代は遡って室町・戦国時代。応仁の乱以降、室町幕府を支える守護大名はどんどん没落していく。代わって戦国時代で地方を支配したのは各地域の戦国大名だった。戦国大名の出自は大きく3パターンに分けられるという。
(1)守護大名が戦国大名に変化したパターン
 ※甲斐武田家、駿河今川家、薩摩島津家、能登畠山家など
(2)守護大名の守護代が主家を乗っ取ったパターン
 ※越前朝倉氏、越後長尾氏、出雲尼子氏、近畿の三好氏など
(3)国人領主が戦国大名にのし上がったパターン
 ※安芸毛利氏、土佐長宗我部氏など
 戦国大名になったパターンでは(1)の守護大名から戦国大名になったケースが多いのではなかろうか、いや、言い方を帰れば「守護大名のまま戦国期まで残った大名」と言えるのかもしれない。ただ、(2)や(3)の方が戦国末期まで存続したケースが多いと思う。これはなぜだろうか。なぜ守護大名は戦国大名に転化することが難しかったのだろうか。
 それは冒頭に書いた「社会の大きな変革」に共通して言えることにつながると思う。(2)や(3)のケースでは守護大名という目標を倒すために領主の下で団結する必要がある。つまり「権力を強化する理由が存在する」のである。しかしどうだろう。守護大名の場合は、応仁の乱以降すでに自らが国にトップになっているわけで、順調に国の経営が行われれば「変革」は必要ない。言い換えれば「権力を強化する理由がない」とも言える。
 1515年~1545年は能登畠山家の全盛期を築いた畠山義総の時代である。領国が安定し、能登の国も栄えた。しかしどうだろう。守護代制は続いている。確かに遊佐嫡家を退けて遊佐庶家に守護代を任じるなどの対応はみられるが、それ以上の国内的な権力強化は行わなかった。いや、行う必要がなかったのかもしれない。むしろ義総の興味は幕府や朝廷など国外での権力強化にあったように思える。1552年~1566年という戦国後期に能登の守護となったのは畠山義綱である。前当主・畠山義続の時、内乱が頻発しており、大名権力がないがしろにされていた時期でもあった。大名権力を回復するために1555年、家中で専横を誇る温井総貞を義綱は殺害し、義綱専制期と呼ばれる時代が始まる(1555年~1566年)。この時期に守護代の職は見えない。義綱が自分の政策を実行するために近臣層である奉行人を重用したためだ。義綱の興味は国内権力を強化することにあった。だからこそ、1408年~1577年の170年の能登畠山家の治世で一番大名権力が強い時代になった。それは、家中が混乱し「自身がなんとかしなければ滅亡する危険性があった」からこそなし得た「権力強化」であった。滅亡の危機にあるからこそ、家臣層も義綱の専制を受け入れたとも言える。
 社会が変革を迎えるには、大きな世論が必要である。そのためには、対象となる人たちが大きな危機感(あるいは目標)を抱えていなければなし得ない。戦国時代では、守護大名より圧倒的に守護代や国人層の方が世論を得やすく、権力強化が達成しやすかったのかもしれない。
 話を現代に戻そう。今の日本は「改革」という言葉が当たり前のように使われる。新聞を見て初めて知ったが、「政治改革」という言葉が使われたのは、1993年が初めてだそうだ。「改革」という言葉が多く使われる現代日本は、多くの人たちが「危機感を抱いている」証拠である。景気が悪い悪いと言われ続けてもう15年以上が経つ。そろそろ「改革」が実を結んで「安定」に入らないものかな…と日ごろ思っている私。きっと自分は「変化」に弱いのだろう。私が戦国時代の大名ならば、とっくに下剋上されていることだろう。生まれた時代に感謝したい。

「八王子市城郭めぐり~其の2~」

2008-08-23 21:08:12 | 歴史
 日帰り八王子市城郭巡りの第2回目です。八王子城訪問です。八王子城はでるって噂です。えっ!?何がって?霊ですよ~。霊園が近くにたんまりありますからね。でも私霊感ないんで関係ありません。純粋に歴史スポットとして楽しみます。

 八王子城には都道61号線の「八王子城跡入口」の交差点を、高尾街道方面(城山大橋方面)からくると左折して、あとはひたすらまっすぐ進みます。すると駐車場が見えてきます。もちろん無料です。数年前に来たときには駐車場がありませんでした。最近できたものみたいですね。これは八王子城が日本の名城100選に選ばれたためでしょう。訪れる人も多いのに路駐ではねぇ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nihonjokaku/100meijo.html
↑日本100名城の公式サイト


 駐車場で車を降りるとすぐに八王子城の管理棟に着きます。写真右奥の建物です。おトイレ休憩と、パンフレットゲット、日本名城100のスタンプゲットもここです。復元史跡のある御主殿跡に行くにはこの管理棟を左手に歩いて10分程度。八王子城の本丸跡に行くにはこの管理棟を右手に進み歩いて40分ほどです。


 管理棟から城山川(この部分は水無川になっていますが)を渡って古道へ出る。古道=昔の道ということは管理棟から古道に至る今私が通っている道は昔にはなかった道ということになります。どこまでが復元で、どこからが公園としての整備なのかわかりずらい。


 城山川の対岸にわたってもしばらく低地が続きます。この広い通路も公園としての整備のようです。写真奥に見える橋のところが古道になります。


 ここが大手門跡です。1988(昭和63)年の発掘調査で石の道と門跡があったと思われる礎石が見つかっています。下の発掘された大手門跡の写真をみると、やはりこの城山川を渡る道ではなくて、大手門から奥に進む道(上の写真では柵でいけない奥の方向)が古道の続きだったんですね。



 八王子城はこんな感じになっています。


 大手門跡があるくらいだから、当然昔は道があったわけですが、明確な遺構がでてきているわけではないらしいです。



 この曳き橋があった場所は実際に引き橋があったであろう橋桁の石垣遺構が発掘された場所である。そこに木造の橋が作られた。橋自体は現代工法で作られているので復元曳き橋とは言えないないですね。まあ雰囲気はでているのでいいですが、実際にこんな大きくて頑丈な橋は戦乱の多い中世では作りませんよね。


 この写真で画面真ん中の柵の上くらいにみえる影になっている石垣。

 現状ではこんな感じになっていますが、

 発掘調査時はこんな感じで検出されました。だから現状の石垣でも半分以上は検出されたままの状態と言えます。これは貴重です。石垣は大きな石の間を埋める様に小さな石を詰める方法で、室町時代晩年や安土桃山時代にみられる積み方です。
 ここでひとつ疑問が、曳き橋の真ん中から石垣をとっている写真をもう一度見てください。石垣が途中で途切れていて木柵があります。これは一体なんのため?本来はここに木橋をかけていた?説明板にどのように復元したか書いていたので詳細は知ることができないのが残念です。


 曳き橋を渡って虎口(城郭における出入り口。「小口」とも。狭い道・狭い口という意味)があり御主殿跡に登る階段がある。この虎口の階段も発掘調査がされている。

 この写真をみると、階段もほとんど検出されたのを生かしながら復元しているのがよくわかる。これも貴重だ。


 この復元階段の踊り場には櫓跡の大きな礎石がある。説明板にあった礎石が下の写真。わかりますか?階段の四隅にあるということは結構大きな櫓門があったのかな、と思います。



 さていよいよ階段を上がって御主殿跡です。階段上には冠木門と木壁があります。八王子城跡の写真で一番使われる絵面です。階段の踊り場にあんな大きな櫓門があるのに、ここにこんな冠木があったんでしょうかね…?



 八王子城の古図でもこの郭が「北条陸奥守殿御主殿」と記されているし、この郭で行われた1992年、1993年の発掘調査でも大きな建物跡や天目茶碗や香炉などの高度な文化の証しや生活の跡が多数発掘され、間違いなく城主・北条氏照の居館跡であろうと言われている。

 周りは土塁で囲まれるなど、強護な造りになっている。
 御主殿跡の北側は崖になっているが、そこで興味深いものを見つけました。まずはコレ。

 これだけ大きな石となると発掘調査後にわざわざ持ってきたとは考えられません。ということは発掘調査の時もあった大石ということになります。そして地表にでるくらいのこんな大きな石。形状からいっても建物などの礎石とは到底考えられません。となると、私の最近大好きな武家庭園?

 御主殿跡の北側の崖にあった石組み。石垣にしては低いし、側溝にしてはつくりが雑。もしや…発掘調査の時にでた石の残骸を捨てたあと?
 こういうちょっとした発見をみると楽しいですね


 ここは今回私が初めて訪れる場所です。八王子市郷土資料館です。入館料無料。こういった無料の郷土資料館というと、豊富にある江戸時代の民俗系の農具や、第二次世界大戦の戦争民俗資料系のものが中心で特に中世史的には見るべきもののないところが多い。しかし、ここに行く気になったのは、私がよく訪れるブログで資料の紹介があったからである。
http://www.free-style.biz/book/
↑「知識の泉」
 このサイトは、すごく豊富に、しかもマイナー資料まで紹介する私が密かに大注目しているブログサイトです。(結構頻繁な更新が続いていたのに、8月に一度も更新がないのが心配。)このブログの2008年7月27日の項で八王子市郷土資料館刊行の「八王子城跡御主殿」という本を探しに来たのだ。


 資料館では八王子城の模型がありました。中でも注目したいのはこの模型の「御主殿跡」部分。

 これをみると、御主殿跡の西・北・北東の部分が発掘調査されているのがわかる。整然とならなんだ礎石から大きな建物が2つ。小さな建物が3つあるのがわかる。そして中央より北西側の崖の部分。なにやら石がツブツブとある。もしや…と思ったらやはりビンゴでした。あの御主殿跡で発見した大きな石のあった辺り。「庭園状遺構」と言われているそうだ(発掘調査報告書より)。庭園と確定されていないのは、池跡が確認されていないことである。枯山水庭園かもしれないが、まだ未発掘の部分から池跡が発掘される可能性も残っている。永禄年間に入城した北条氏邦が改修した鉢形城には池跡があったが(本ブログ2008年8月2日の項参照)、天正年間に北条氏照が作った八王子城が枯山水庭園なのはどうしてだろうか…。まあ、完全なる御主殿跡の発掘調査を待つしかない。御主殿跡の説明板には、「今後も継続的に調査を実施し、その成果をもとに史跡整備を進める計画です。」と言っているくらいですから、一応期待をしておきましょう。

 八王子市郷土資料館では、八王子城の御主殿跡で出土した遺品を展示している。式三献など儀式に使われる「かわらわけ」を始め、天目茶碗や花入れ、茶壷や香炉などの文化的道具のほか、陶磁器などの様々な皿の他、鍋・釜・包丁・銭など生活用品。さらには、刀や鉄砲の弾丸など武器関連の出土もある。遺品の出土状況からほぼ間違いなく御主殿跡が八王子城の権力者の中心地(居館)だったことがわかる。また、戦国期には珍しいベネチア製レースガラス器なども出土している。どうやって、ここまで来たのだろう。考えると楽しい。

 これで2回に渡った日帰り八王子市城郭めぐりも終わりです。滝山城は遺構も良く残っているし、国指定史跡なのにほとんど発掘調査がさらていないのがもったいない。八王子城跡は滝山城跡に比べれば発掘調査及び復元が進んでいる方ではあるが、まだ八王子城の全貌を明らかにするには発掘調査の範囲が足りない。また、八王子城の復元のあり方に少々疑問を覚える。中世城郭を知るうえでは復元されたほうが立体的・視覚的に捉えられ雰囲気を知ることができるが、いかんせんなぜこのように復元したのかという説明がない。また、日本の名城100選に選ばれるまで城跡の駐車場がなかったというのもお粗末な話だ。さらなる史跡研究・整備を期待したいものである。