畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

パソコンの故障・修理

2010-07-29 09:11:00 | 日記
 パソコンがまたもや故障。一年前にもノートのディスプレイを開閉するためのヒンジ部分が損傷。そのためディスプレイの交換まで行うはめに。
 前機種のソニーVAIOは7年間一度も故障なし。だから私2004年までウィンドズ98を使っていた。
 今回のは5年で故障。さらに修理した部分が1年で再び故障。しかも修理の保証期間は半年だから有償修理。なんだか「これでもうけてんじゃないの?」って気分。だからケータイでしかネット見れません。あ~パソコンがない日々は退屈。こんな時に限って仕事が暇という悪循環!洒落になんないね(笑)

勝沼氏館跡探訪~其の2

2010-07-26 19:08:00 | 歴史
 それでは、勝沼氏館其の2です。其の1で勝沼氏館の主郭を見てきたので、今度はそれ以外の外郭を見ていきましょう。
 駐車場に車を止めて見えてきた空地を覚えていますか?下の写真です。

 正面に見える建物は「山梨県ワインセンター」です。本来はこの勝沼氏館跡にワインセンターができる予定だったそうです。建設のための事前発掘調査で中世の館跡が検出され、全面的な調査となったようです。1973(昭和48)年に発掘調査が開始され、1981(昭和56)年には国指定史跡に認定されました。比較的早くから整備が行われたという事がわかります。ほとんどの中世史跡は平成に入ってからの整備ですが、昭和時代にも発掘調査→保存整備が行われたということはとても素晴らしいことだと思います。ただ、日本がオイルショックの頃で景気が悪かったせいか、復元整備にまで及ばなかったのが残念です(まあ宅地開発されるより数倍マシですが)。
 閑話休題。空地から右側に行くと主郭、左側に行くと家臣の屋敷です。


 さて、空地を突き抜けてワインセンター側の道路へ。空地方面に向き直ってみると、左側(空地)に対して、右側が盛土がされている。ん?何かありそうな気配ですね。


 さて、ここも発掘調査がされて、建物が発見された場所だったんですね。ひょっとすると、空地に対して盛土がしてあるというのは、遺構面を保護するために盛土されたものかもしれませんね。おや、主郭の建物と平面展示の方法が違いますね。主郭の建物跡では「主屋」など礎石が配置されていました。しかし、今回礎石がありません。その代り、木の柱のようなもので建物のあった個所が囲まれています。これは、礎石建物に対して、掘立柱建物を表しています。礎石を置かないで建てた建物。それは建物の耐久性も弱くなるし、大きな建物は建てられません。つまり、それなりの階級が住んでいた(または仕事場)ということが言えます。では、この建物は?これは説明版によると「木製品仕上げ工房」だそうです。

 右側の建物の近くには、このように「素掘り井戸」があります。つまり、この辺は、主郭近くの工場という感じでしょうか?戦争などに使う品物などを作ったのでしょう。


 これは、「木製品荒加工工房」だそうです。

建物が重なっているということは、違う時代に作られた建物ということ。壊して立て替えたのか。または、戦争などで破壊されて立て直されたのか、説明版がないのでわかりません。


 「職人居住棟」だそうです。工場で働く人たちが暮らしていたのですね。職住接近です。また周辺には、「金属加工工房」もあり、武器の製造や、館で使うような生活用品を仕立てていたんでしょうか。


 「東郭跡」広いですね~。

 遠くに山が見えるいい景色です。盆地ではあってもこれだけの平地があるからこそ、館を構えて周辺を支配するだけの価値がこの地域にはあるんですね。



 さて、やってまいりました。勝沼氏館の素晴らしい「水路システム」について。ただ残念なことがあります。あまり写真での説明に適していない点です。写真の説明しずらいのが、残念です。



 館の第2期A(16世紀前半)に作られた「水路システム」は大きいため池を沈殿槽代わりにして、浄水する仕組み。つまり、泥は沈殿して、きれいな水のみが水路を流れるというもの。これって現代の上水道も全く同じ仕組みなんですからびっくり。そんな浄水施設が16世紀に作られていたとは。

 館の第2期B(16世紀中期)に作られた「水路システム」がコレ。沈殿槽自体の大きさは狭くなってますが、底の部分を弾状にしたことで、水の流れが遅くなり沈殿作用を促進するように仕組んであるそうです。復元ではこの第2期Bの時代のものです。ただ、草が生い茂っており、水路が明快に見えないのが残念。

これが第2期Bの「排泥処理溝」です。沈殿した泥を浚渫(しゅんせつ)して、この溝に捨てたんですね。う~んすごくシステマチックだ。このような規模の浄水施設ならば、それを管理する水道局みたいな家臣がいたのではないか?って思いながら、さらに館跡を回る。



「郭外家臣屋敷跡」です。広いですね。この写真の反対側の一角に家臣屋敷が復元された地域がありました。


 「南側家臣屋敷井戸跡」です。

 自分の家に井戸がある家臣でも、掘立柱建物か…。しかも狭い。ん?どうしてこの家臣は、なぜ水路システムで水を飲まないのだろうか?その答えが次の建物にあった。


 復元された「北側家臣屋敷主屋」です。北側というのは、2軒の中では南側、北側というだけで名前ではありません。家臣の屋敷なんてこんなもの?って思いましたが、掘立柱建物ではこんなもんかもしれませんね。復元イメージ図がありました。

う~ん、イメージ図とずいぶん違いませんか?イメージ図の方が壁がしっかりあるし、高さもありますね。説明文をちょっと引用します。
「勝沼氏館跡に東郭東門外側にあるこの一帯から南北2つの屋敷跡が発見されました。屋敷の広さが約100坪で中級クラスの家臣屋敷と考えられます。南屋敷は井戸から水を得るのに対し、北屋敷は内郭に水を供給する水路から取水しており、水質を管理する重要な役割を担っていた人物の屋敷と考えられます。16世紀代の屋敷内の建物は下のように4回の建て替えが確認されました。内郭部の建物が全て礎石の上に柱を建てるのに対し、家臣屋敷は穴を掘り柱を建てる構造で、焼けた土壁の痕跡も発見されました。建物数は北屋敷が常に2棟であるのに対し、南屋敷は1棟で北屋敷の方が格式が高いことがわかります。建物の柱数も新しくなるにつれ増え、近世の甲府盆地東部の切り妻民家への発展を伺うことができます。」

 なるほど、これほど進んだ「水路システム」を管理する立場の屋敷がここだったってわけです。いわば水道局。それは格式が高いはずです。しかし、中級クラスで掘立柱建物とは。


 いかがでしたか?勝沼氏館跡の訪問記。ここの特徴は復元整備がされているわけではないですが、主郭の周りの町部分(家臣屋敷)まで発掘調査されている点で、とても貴重ではないか、と思います。しかも、復元された館の構造が16世紀前半ということで、織豊期以前の館や町の形を知ることができる貴重な存在です。しかし、そんな館跡にも、1時間半もいたのに私たち家族以外には訪れた人がいませんでした。その理由の一端に、「手入れが行き届いていない」という理由があると思います。しかし、手入れが行き届いている足助城(愛知県豊田市)でもあまりお客は来ていませんでした。ということは広報不足が一番の理由かもしれません。
 私は、この館を訪れて非常に興味を持ちました。館の構造や町の形について考古学的に知るためには、こういった実物を見ることが一番の勉強になるからです。願わくば、この勝沼氏館をさらに知るための資料がほしかったです。どこか地元の書店で「史跡・勝沼氏館」という本でも発売してくれればいいのに…っと思います。中世マニアには、必見の「勝沼氏館跡」!みなさんも、ぜひ訪れてみては?

 あっ!ついでにもう一つ。旅の醍醐味といえばおいしいもの!勝沼氏館の近くでおいしいお店を紹介。山梨県といえば「ほうとう」でしょう!えっわかんない?うどんのひらべったいものを味噌煮込みにしたものです。きしめんみたいな。

「皆吉」(みなき)さんの「きのこほうとう」です。とってもおいしい。お値段もこのボリュームで1470円とお値打ち価格。周辺には、ワイン販売店や桃狩り、ぶどう狩り、信玄餅の販売店とお土産もの屋がいっぱい!

勝沼氏館跡探訪~其の1

2010-07-25 16:45:00 | 歴史


 今回は、山梨県甲州市にある勝沼氏館跡の訪問記です。中世の復元ではないので、すっかり見落としていましたが、館全体が発掘調査されている貴重な中世史跡です。
 勝沼氏は武田信虎の弟・信友によって興された武田氏の庶流の一族です。武田晴信(信玄)の時代も親族衆として重要な地位にいたが、1560(永禄3)年逆心の企てが露見し、処断されたといいます。つまり、この勝山氏館は織豊期ではなく、戦国時代前期の武士の館を丸々発掘調査した史跡という点で、一乗谷朝倉史跡と並ぶほどの重要な史跡と言えないでしょうか。この勝沼氏館跡は、16世紀初頭の屋敷の様子を復元しているそうです。


 勝沼氏館跡の駐車場です。結構立派で5台くらい余裕で停めれます。しかも無料。しかし、ここから勝沼氏館への入り口の整備・管理が滞っています。


 ん?どっから入るの?というほど小さな入り口をとおって草茫々の空地へ。駐車場が立派だけに余計この管理されてなさが気になる。駐車場から空地へ入ると、左側が家臣の屋敷跡、右側が主郭になります。


 まず右側から主郭から行きましょう。こんな立派な看板がありますが、草茫々です(泣)もっと草刈りしようよ甲州市。


 看板を進むといきなり崖。っていうか、堀ですね。結構深い。足場が悪いのでご注意を。あと、草が茫々で足が痛くなるので、ジーパンなど長ズボンをおすすめします。さて、空堀を渡るための木橋が復元されています。結構ミシミシ言うんだけど大丈夫??注目は木橋の下が石組されている点です。16世紀初頭とはいえ、部分的に石を組んでいるんですね。


 草や木が茫々していなければ見栄えもいいのですが、東門の柵や門が復元されています。こちらは裏手門です。


 東門のすぐ近くに、蔵跡や半地下蔵跡があります。この写真のように、勝山氏館は、基本的に平面展示です。建物の跡を赤いブロックで、柱跡や礎石などがわかるように展示してあります。平面展示が一番、整備費用が安く済み、維持費用も安く済む展示方法です。


 きれいな石列ですね。側溝の跡なら、2列の石組みですから、違いますね。どうやら、砂利の通路を作った時のわきにおいた石列のようです。それ砂利が通路の外に出ないような役目をしたんですね。結構、建築水準の高い館ですね。



 さて、いよいよ勝沼氏館の中心部です。写真では、手前と奥の2つの建物が平面展示されているのがわかりますか?手前の建物跡が「常の御座所」で説明版には「主人の日常生活の建物」とあります。奥の建物跡が「主屋」で「館の中心建物、主殿にあたる。」とあります。そして写真では見えないので、位置をずらして撮った写真

手前が「くつろぎ所」で「茶室、泉殿にあたる」と説明があります。奥が主屋、写真の右にちょっと見えているのが「常の御座所」です。
 つまり、館の中心地に「常の御座所」「主屋」「くつろぎ所」の3つの建物が隣接しているのです。「常の御座所」が主人のプライベートルーム、「主屋」が主人のオフィスルーム、「くつろぎ所」が主人のリラックスルーム(休憩所)だったのでしょう。
 この平面展示で工夫している点は、部屋内は赤いブロックで展示し、廊下にあたる部分は黄色いブロックで展示でしてある点です。この3つの建物は密集しているし、本当は一つの建物だったのか?いやしかし、独立した廊下があるということは、それぞれ独立した建物か?と、想像力をかきたてられます。


 
 「常の御座所」の東側の後ろ(裏門である東門に近い方)には厩があります。主人の馬屋ですが、結構広いですね。


 「常の御座所」の北側には水路があります。よくみると、水溜の池も。これは庭園か?とも思いましたが、北側に庭園?しかもプライベートルーム近くに?と思っていましたら、説明版をみて納得。台所のための水溜池でした。この勝沼氏館には驚くべき水路システムがあるので、それは後半(其の2)でお伝えします。

 これが台所です。足助城の「厨」(くりや)と同じ規模位。ということはカマド小屋もあったのかもしれませんね。

 台所の東には、史跡公園の休憩所として建てられた「水屋」があります。これは「水の保管などに使われた納屋」とあります。「雪隠」(トイレ)も近くにあります。この館の規模にしては小さいものでした。



 さて、「主屋」の南西にあるのがこの建物跡。なんだと思いますか?ヒントは前の本文中にもありますよ。

答えは「会所」です。「接客用の建物、広縁を持つ」とあります。いわゆる客間で、この客間は相手をもてなすことはもちろんのこと、訪れた人に自分の権力を見せつける意味もあったわけですから、当然敷地内でも太陽がよくあたり庭園を含む見栄えの良いところにあるのが常識です。この館跡も会所跡も庭園を含むとありましたが、草が茫々でよくわかりません。

 会所をさらに西に進むと、通路を挟んで「番所」が2つ。番所とは「警備のための詰所」です。会所は番所から近いところにあるんですね。他人をもてなすためには、なるべく門から近いところ且つ、警備の目の届くところ、という配置です。番所の外には「工房跡」があり、鍛冶場があったようです。



 さらに北西に進むと、勝沼氏館の看板が!ここで、勝沼氏の歴史や発掘調査の様子などを知ることができます。勝沼氏館がある甲州市には歴史博物館がなく、発掘の状況をうかがい知るにはこの説明文を読むのが一番です。結構詳しく館の変遷なども書かれています。しかし、看板が古くなっており、写真が見えずらい。


 こちらが北門。番所がある方です。柵や門が復元されていますが、正門だけにこんな粗末な門ではなかったと思います。門の奥には生垣で虎口が再現されています。これも本来は柵とかがあったのかな?この訪問記の一番最初に掲載された勝沼氏館の全体図の写真は、この北門付近にあります。門には櫓台があったようです。あれっ?そういえば、東門(裏門)の防備が手薄?と思ったら、全体図の看板に、東門の近くに小さな櫓台がありました。ここから状況を把握していたのですね。こんなに小さいなら、逆井城の櫓台よりは高さも小さいのか?と考えます。
 いろんな史跡を訪問すると、他の史跡と比較ができて面白いです。早く七尾城の発掘調査をやってもらいたいものです!では、勝沼氏館跡の訪問記は其の2に続きます。本廓以外にも見るべき史跡があったので、その様子をアップします。

広告戦略

2010-07-22 06:47:00 | 政治・経済
 7月1日から放送された郵便局のゆうパックのCMをみたことありますか?
 「ゆうパック維新」というわけのわからないCMで、メッセージ性がまるでない。しかもゆうパックの遅配問題で即放送中止…。情けないね。
 一方、元国営企業でCM上手なのがJRグループ。
 JR東海の「そうだ京都へ行こう」は京都へ顧客を誘う商業的メッセージだけでなく、古都京都を体現するメッセージ性もある。
 JR東日本の「Suica」も明確な広告。ペンギンキャラクターを使うことで親しみやすさ、チャージや電子マネーの利便性をうたうメッセージ性。同じ元国営企業でもこうもちがうか。
 批判的ばかりしても、このブログにメッセージ性がないので、では「ゆうパックCM」をあるべき姿にするにはを考える。
 ポイントは7月1日からゆうパックがペリカン便と統合したことだ。7月1日までは「ゆうパックとペリカン便が合体してますます便利に!」というCMを。ゆうパックのロゴとペリカン便のキャラクターを合体させてもいい。ペリカン便ユーザーを取り込むメッセージを。さらにペリカン便を取り込むことで、ゆうパックも便利になったという安心感を与える。
 参考のCMは国鉄がJRになったときのCM。あれでJRを認識した人も多いだろう。郵便局はCM戦略の再考をすべきだ。