畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

過去の歴史の旅~其の10

2011-08-31 04:44:00 | 旅行・観光
 浜松市天竜区(旧天竜市)にある二俣城に2000(平成12)年12月29日訪れました(訪れた当時は天竜市)。

 二俣城は遠江支配をめぐって斯波氏と今川氏が争った時に斯波氏が文亀年間(1501~1503)に築城したと言われています(『北遠の城』(編集:浜松市生活文化部生涯学習課.2009年)。その後、二俣城は今川領となり、その被官が支配します。瀬名氏→朝比奈氏→二俣氏と短期間に支配者が変わり、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が破れると、二俣の領主であった松井宗信が、徳川氏や武田氏の侵攻を防ぐ軍事拠点としての強化を図るため、要塞化を図ったと言います。二俣川はその三方を天竜川と二俣川で挟まれる天然の要塞、且つ交通の要所で、戦国時代には重要拠点だったと考えられます。その証拠に、二俣城の近くに、鳥羽城・笹岡城(天竜区役所近く)が築かれています。



 標高90mの高台にある二俣城は、現在は城山公園となっていて気軽に散策できます。管理が行き届いているので、夏でも冬でも探索するには向いています。無料の駐車場もあります。



 二俣城の遺構で一番注目されるのは、やはり天守台の石垣です。約5mも高さがあるので、一瞬「江戸時代の城なの?」って思いました。1590(天正18)年に徳川家康が豊臣秀吉の命によって関東に移封されると、浜松の領主となった堀尾吉晴でした。その堀尾氏が1600年に出雲に移封されると廃城になったと言われるので、江戸時代の遺構としては全くないのです。ということはこの天守台も1600年以前に築かれたものだと思われます。
 よくよく写真を見てみると、天守台の石垣は5mの高さはあると言っても、使われている石はゴツゴツしています。江戸時代の遺構ならばもっと強度を高めるためにしっかりと石垣に合わせて石を切ると思うので、この二俣城の石垣は中世から近世に移り変わる途中で形成されたものだと考えられます。といっても、戦国時代は石垣技術が未熟だったので、5mもの石垣を組むことは難しいので、堀尾氏時代の遺構だと考えられます。

 本丸天守台に通じる石段は2009(平成21)年の発掘調査で、さらに一段階段が地中に埋もれていることがわかりました。さらに、本丸と二の丸をつなぐ位置に門跡の礎石が発掘されるなど、徐々に二俣城の全容がわかりつつあります。


 二俣城には天守閣はありませんと書きましたが、実は一時期復活したことがありました。2009年に浜松市で「国民文化祭」が行われ、そのイベントの一環として浜松市が「二俣城」を一夜城として期間限定復活させました。2009年10月31日~11月8日までの限定で作られた一夜城は意外と本格的なものだったらしく、2008(平成20)年に作られた本当の意味でのハリボテ城とは違いなかなか好評だったらしいです。好評だった2009年の二俣一夜城でしたが、残念ながら2010(平成22)年・2011(平成23)年と復活することはなかったようで、できれば恒久的な復元もしてもらいたいな~なんて思ったりもします。

過去の歴史の旅~其の9

2011-08-30 04:44:00 | 旅行・観光
 私が犬山城を訪れたのは、2000年8月21日のことでした。ついでに名鉄に乗って日本モンキーパークも見てこようと訪れました。



 犬山城は写真のように山城です。写真ではわからないですが、山の右側は大きな川である木曽川になっています。このような立地条件からも犬山城が戦国時代の山城だということがわかります。犬山城は1527(天文6)年織田信長の叔父である織田信康によって築城されたと言います。もちろん、築城時はこのような天守閣が建っているはずはありません。



 現在の天守ができたのは、江戸時代に入ってから。1617(元和3)年成瀬正成が今る輸したと言われます。その往年当時の天守閣が現存するので、国宝に指定されています。
 松本城や姫路城とは違って小さい天守閣しか持たない犬山城が脚光を浴びるのは、やはりこの天守閣が現存しているという点でしょう。しかし、残念ながら明治期には天守閣以外の建物は破却されてしまったと言われます。
 明治に入って、旧藩主である成瀬氏に犬山城は譲渡され、以後何十年にもわたって国宝であるけれども個人所有の城という珍しい状況が続きました。ただ、補修費などが大変だったと見え、2004(平成16)年には「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となりました。

過去の歴史の旅~其の8

2011-08-29 04:44:00 | 旅行・観光
 日本の首都は東京。東京都言えば観光名所は「東京タワー」「浅草寺」。そしてこれからはスカイツリーが名所になるんでしょうか。それでも、やっぱり逃したくないのは、東京の基礎を作った徳川家康の居城だった江戸城。
 現在は、天皇がお住まいになっていて皇居になっており、ほとんどが一般人には入れないスペースになっています。



 そんななか、江戸城の雰囲気を一番感じさせてくれるスポットはこちら。伏見櫓です。皇居正門のすぐわきにあり、正門の石橋越しにみるとこれまた雰囲気がとてもいいです。
 江戸城の天守閣は2代将軍・徳川秀忠の代にはもうできていましたが、さらに回収を加えられ、3代将軍・徳川家光の時代である1638(寛永15)年に高さ58mの大天守閣が完成しました。しかし、1657(明暦3)年の大火事であるいわゆる「明暦の大火」で焼失以来再建されることはありませんでした。幕府の財政事情が再建をゆるさなかったのでしょうか。そのため、江戸城を象徴する建物は正門の横にある伏見櫓になっているんです。



 江戸城で現存する櫓は3つしかなく、前述した「伏見櫓」と「富士見櫓」と、上記写真の「桜田二重櫓」です。江戸城に残る唯一の隅櫓でなかなかの大きさを誇ります。



 上記写真は坂下門。これは宮内庁関係者の通用門らしく厳重な警備がされています。坂下門と言えば、老中の安藤が襲われた場所「坂下門外の変」。桜田門は大老の井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」があります。江戸城も立派な建物ですが、江戸時代以降常に政治の中心だっただけに色々な歴史があります。


 写真を撮るのを忘れてしまいましたが、江戸城には天守閣のあった天守台があります。そちらは公園になっていて一般人でも無料で入れます。ぜひ櫓だけではなく、そちらの方も行くといいと思います。江戸城の天守閣の大きさが、天守台の大きさからも伝わってきます。江戸城の天守閣の復元の声もちらほら出ています。もちろん、復元費用が膨大にかかり、日本の財政状況でそれが難しいこともわかりますが、できれば復元された江戸城の天守閣を見てみたい…と思ってしまう自分もいます(笑)

過去の歴史の旅~其の7

2011-08-28 04:44:00 | 旅行・観光
 2005年6月19日。突然車を運転して遠出したくなった私。遠出するなら快適な高速道路。東名は混んでいるから、やっぱり中央道で山梨方面へ。ならば中央本線が通っている松本方面へ行くか。それならやっぱり国宝・松本城へGO!…という意味不明な自己納得で急に当日朝に松本行きを決定。



 松本城の天守閣は、文禄(1593~1594)年間に建てられたものです。姫路城と同じように、創建時そのままの姿を残す貴重な城で、国宝に指定されています。

 天守閣に入るのに大人600円。天守閣からの眺めはかなりよかった。安土桃山城郭だからと言って当時はあまり写真を撮らなかったのが悔やまれる…。城内には歴史展示があったが、なぜか火縄銃の展示が多かった。なんで?企画展でもやっていた?

 天守閣は、創建当時のままなので、閲覧に適したつくりにはなっていない。その分階段などもとても狭いが、それこそが本物を味わえるものと思って嬉しかったのを覚えています。

過去の歴史の旅~其の6~

2011-08-27 04:44:00 | 旅行・観光
2003(平成15)年1月、JR東日本は政府株の売却で完全民営化を達成し、記念として「JR東日本パス」を発売しました。これは、2011(平成23)年の東日本大震災で東北応援のために発売した「JR東日本パス」と同様のもので、在来線・新幹線の自由席乗り放題、指定席も新幹線を含め事前に申請すれば2回まで取れて1日1万円というものでした。

 これを利用して、米沢→仙台→盛岡と日帰りで旅行しました。その盛岡編を報告します。同じ日に回ったのに、米沢は大雪。仙台は快晴。盛岡は雪、と激しく天気が変わりました。たくさんの距離を移動したんだなって実感しました。



 岩手と言ったらやっぱり斯波氏ですよね…って誰もそんなこと思わないかもしれませんが、奥羽は室町幕府も斯波氏や畠山氏を投入するなど重点経営を目指していた場所です。しかし、その努力もむなしく両者とも戦国時代には力を失っていきます。
 斯波氏を滅ぼした南部信直(初代盛岡藩主)によって、盛岡城が作られたのは1588(天正16)年。盛岡駅から近くにあり徒歩でもいけます。盛岡市役所のすぐ近くです。すなわち盛岡城は盛岡市の中心部にあるわけです。
 写真を見てもわかる通り、盛岡城は石垣がとてもきれいです。盛岡市の公式サイト(http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/bunka/sitei/kuni-sitei/kuni-moriokajo04.html)によると、本丸東側の石垣は野面石(自然石)を用いていますがそれは、建造が比較的初期だった事が影響しており、後世(あとから工事した箇所)にしたがって直線的な石垣構成が見て取れます。



 さて、残念ながら盛岡城にも天守閣はありませんし、復元されたようなものもありません。明治期に盛岡城は陸軍省の所管となりほとんどの建物は破却されたと言います。以降公園化され「岩手公園」として親しまれてきましたが、2006(平成18)年に開園100周年を記念して愛称として「盛岡城跡公園」となりました。こちらの名前の方が史跡としてPRできるという点もあり、愛称というより正式名称のような感じになっているのでしょう。

 「3DCGでよみがえる日本の名城」というサイトに、盛岡城が載っていました(http://www.3kids-cg.com/morioka.html)。これで往年の盛岡城を見るとやはり天守閣のようなものはみあたりません。