畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

武田氏館・其の2~城下編~

2019-10-24 04:44:00 | 歴史
武田氏館・其の1~館編~では、2019年に開館した信玄ミュージアムと武田氏館についてみていきました。今回は、館の外、城下について見ていきましょう。


武田氏館を訪れるにあたって、私は「武田神社第2駐車場」に車を駐めました。しかし、結果的に一番条件の悪い駐車場でした。その理由は、3つあります。1つ目は、駐められる台数は多いものの、武田神社から1番遠い場所にあること。2つ目は、武田神社の受付で駐車券を提示しないと出庫できないこと(無料にはなるのですが)。3つ目は、3時間以上駐車できないこと(すぎると出庫不可能とのことですが・・・どうするんでしょうか?)それならば、武田神社の東側の駐車場の方が無料で近い場所にあります。また、信玄ミュージアムの駐車場なら、資料館だけでなく、神社にも近いし無料です。駐車場にはみなさん気をつけましょう。私は3時間の駐車時間ぎりぎりになってしまいました。その訳を次の段落でお話しします。



 上記写真は、武田信廉の屋敷跡にある看板です。武田氏館の周辺には、家臣が集住する城下町がありました。武田氏は家臣による集住で拠点を守ったまさに戦国大名の典型です。
 そこで、家臣の屋敷跡に、このような看板が立っています。しかもGoogleMapに「武田信廉屋敷跡」などの目印があり、それを参考に辿ることができます。また、信玄ミュージアムで城下町探訪の散策ガイドももらえます。

なので、歴史ファンからすれば駐車時間は3時間では足りない事が想定されます。


では、私が探した屋敷跡看板などの写真を紹介します。


味噌曲輪西側出口から
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徒歩2分
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武田信廉屋敷跡
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徒歩1分
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虎落小路看板

武田信廉屋敷跡の近くにあった「虎落(もがり)小路」の看板です。虎落とは「竹を筋違いに組み合わせて縄で結び固めた垣根のこと」で、武田氏館への侵入を防ぐための柵が道筋に設けられたと推定されているそうです。


虎落小路看板
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徒歩30秒
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小山田信茂屋敷跡です。
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徒歩3分
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土屋昌続屋敷跡
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徒歩5分
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古府中町2号公園内にある・・・

山本(堪助)晴幸屋敷跡
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徒歩9分
※私はここで武田神社第2駐車場の3時間制限をオーバーしそうだったので、信玄ミュージアム駐車場に移りました。最初からここに駐車していれば、すべて近くで用事がすんだのに・・・。
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武田氏館 梅翁曲輪跡(西曲輪南馬出跡)

 梅翁曲輪は武田氏滅亡後に作られた曲輪なので、城下編での紹介をしています。この馬出では、当時埋葬されたであろう馬の骨が完全な形でみつかっています。その馬の高さは1m20cm程度で、やはりサラブレッドと比べると日本の馬は相当低いことがわかります。信玄ミュージアムでも、いわゆる武田氏の騎馬隊という全て騎馬の部隊は存在はないと展示で示されていました。さらに、武田神社の宝物殿の展示で、1553年当時に甲斐の国で鉄砲が300丁あったとあり、鉄砲伝来10年後の時点で300丁という数はかなり多い方で、武田が鉄砲を軽んじていないことは学術的にはすでに証明されているようです。余談でした。
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徒歩3分
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内藤昌豊屋敷跡

この内藤屋敷の看板の近くは、梅翁曲輪の石垣や水堀が見えます。
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徒歩2分(南へ)
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原昌胤屋敷跡
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徒歩2分(南へ)
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三枝守友屋敷跡
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徒歩15秒(そのまま南)
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「広小路・クランク街路」看板
戦国時代の甲府城下町を南北を貫く基幹街路の1つだが、敵の侵攻に備え武田氏館への見通しを遮断するためにクランク型の道路をつくった。

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徒歩3分(クランク道路を東へ)
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「有力家臣屋敷跡」看板(山梨口腔保健センター)
昔の地図にも誰の家臣か名前は載っていないものの、写真右下のように、天目茶碗や陶磁の染め付け皿が20点も見つかっている(2019年10月当時は信玄ミュージアム特別展示室で実際に発掘された出土品が見られますが、完璧な状態で発掘されていました。)
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徒歩1分(少し北西へ)
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「大神宮(伊勢の森)跡」看板
この場所に武田信虎が遷座した大神宮があった場所と言われる。が、今は森はなく住宅街だった。
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徒歩8分(東へ)
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「鍛冶小路」看板
北東中学校正門の市道は鍛冶職人の屋敷跡があったと言われる
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徒歩15秒
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小畠虎盛・小幡昌盛屋敷跡(北東中学校正門前)
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徒歩1分(そのまま道を南へ)
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山形昌景屋敷跡(北東中学校門前)
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徒歩7分(そのまま道を南へ)
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真田幸隆屋敷跡
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徒歩1分(道を東へ)
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高坂昌信屋敷跡(信玄ミュージアムの北西)
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徒歩2分30秒
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板垣信方屋敷跡
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徒歩2分
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信玄ミュージアム駐車場

家臣の屋敷跡は、実際に遺構が見られるわけではないが、こうも武田氏館の周辺に有力家臣がいたということは、それだけ武田氏の城下町が軍事的にも強固だったことがわかる良い機会になりました。スタンプラリーでもあればさらにやる気になったのですが、屋敷跡の看板だけでも歴史好きにはかなりテンションが上がりました。


 最後に、信玄ミュージアムの総合案内のスタッフさんがお勧めしていた「信玄火葬塚」へ行きます。武田氏館からは結構離れているので、私は車で向かいました。


天正元(1573)年に53歳で病没した武田信玄。その死を3年間伏せておくようにと遺言を残した時に、ここで火葬されたと言われている場所です。

残念ながらあまりゆっくりできなかったのは、周辺の道路が狭く、駐車できるスペースがなかったからである。パッと写真を撮って、すぐに出てきたのでゆっくり見ている時間がなかったのが残念でした。できれば近くにある「甲府市北部幼児教育センター」の駐車場の何台かを駐車場として開放して欲しいです。


 以上で、甲府開府500年を記念して訪問した武田氏館の旅は終了です。ちなみに家臣の屋敷の看板は2019年3月に整備されたもの。これも甲府開府500年記念事業の1つだったのですね。
 今後は、大友氏館も復元が具体的になってきましたし、各地の周年行事に期待したいです。能登畠山氏の周年行事は能登畠山氏誕生(1408年)600年記念事業が2008年に終了していますので、当面期待できない・・・。

武田氏館・其の1~館編~

2019-10-23 04:44:00 | 歴史
 歴史お友達のこたつ城主様と小野寺様と行くオフ会での歴史スポット探しをしていたら、「信玄ミュージアム」という歴史施設が2019年4月にオープンしていることを知った。それは甲府開府500年記念事業という一環だそうだ。甲府は永正16(1519)年に武田信虎が躑躅ヶ崎館を構え、「甲斐の府中」すなわち「甲府」としたことから始まっている。調べていくうちにどうしても行きたくなって、オフ会を待たずに行ってしまいました・・・。

 今回の訪問は、歴史資料館としてオープンした「信玄ミュージアム」とその他関連事業について紹介したいと思います。



 最初に「信玄ミュージアム」です。正式には「甲府市武田氏館跡歴史館」というそうですが、公式サイトなどでは「信玄ミュージアム」と言われることがほとんどです。無料の「総合案内」と「常設展示」の他、有料の「特別展示」の施設があります。

 「武田氏館(躑躅ヶ崎館)」を訪れる前に、ぜひこちらの施設で様々な知識を得てから訪問されることをお勧めします。この施設は無料の「常設展示」だけでもかなり詳しく発掘調査の内容を詳しく知ることができます


上の写真は「常設展示室」です。


写真撮影可なので、武田氏の歴史をゆっくり後で振り返ることができます。

最新の発掘調査の様子も、ここで知ることができます。きっと発掘調査が進むごとに情報が更新されると思うので、それも楽しみの1つです。


 さらに総合案内では、武田氏館の最新の発掘調査を掲載したパンフレットや、周辺文化財や散策ガイドブックが手に入ります。武田神社にも案内看板がありますが、情報が古い(平成初期)のものが多いので、こちらの施設で武田氏館の見る場所を決めて回る方が効率が良いでしょう。


 次に「特別展示室」です。こちらは有料で、大人一人300円でした。特別展示なので、きっと時期によって展示替えが行われるでしょう。2019年10月当時は、オープン当初から展示されている「発掘調査の出土品とともに戦国時代の歴史の展示」が行われていました。常設展示と違うのは出土品が展示されていたことです。特別展示室は写真撮影不可なので、掲載できませんが、ほとんど欠けることなく出土された陶磁器の皿、たくさんのかわらけや香炉などを見ると、かなりの文化度を誇ったことがわかります。福井市の一乗谷史跡でもそうでしたが、やはり発掘調査が行われると、古文書以上にその当時の様子がわかります。七尾城も早く発掘帳をしてもらいたいものです。

ではいよいよ・・・

武田氏館跡に行きましょう。跡地には武田神社が建っています。

この日は、七五三の祝いをする人が神社に多くいました。山梨県の人からすると、ヒーロー武田氏の神社でお祝いすることはとても特別なひとときなのかもしれませんね。


 武田神社に入るための南側の表門。ここは神社になってから切り開かれたもので、武田氏館があった当時は土塁が続いていたそうです。石垣は後でつくられたのですね。その辺りも「信玄ミュージアム」で確認ができます。つまり武田氏館の主郭への正式な入口は、東側からの大手からとなります。

次に武田神社の東側にある宝物殿に行きます。有料で大人300円でした。

この時には、特別公開として「風林火山」の軍旗の展示がありました。

館内は写真撮影禁止ですが、一つだけ撮影可能なのがありました。信玄の銅像です。
ちょっと目が光っていて怖かった・・・。宝物殿には、信玄ミュージアムとは違い、神社に奉納された剣やや鎧、軍配などが展示されています。


では次に武田氏館の遺構を見ていきましょう。


次は武田氏館の大手門の丸馬出の復元です。こちらは平成21(2009)年に復元が完成しています。

しかし、この復元は武田氏滅亡後に築かれたものです。武田氏時代の遺構としては、大手門に三日月堀があったことがうかがわれます。

位置関係がわかるように、館の地図の看板の写真を掲載しておきましょう。


主郭部(武田神社・宝物殿)→大手ときました。大手と主郭の堀沿いに御隠居曲輪方面へ向かいます。


御隠居曲輪へ続く道は、「スポット緑地」という公園になっていました。

ここから見えるこの曲輪は「御隠居曲輪」と言い、信玄の母(大井夫人)の隠居所と伝承されているそうです。重機があり発掘調査や整備が行われていることがわかります。令和元(2019)年度の甲府開府500年で一応の整備が区切りとなりますが、館跡は今後も発掘し研究されるようです。


 御隠居曲輪から主郭へ通じる枡形虎口は、石垣が築かれていました。これが武田氏時代の遺構かどうかはわかりませんが、館内の多くの石垣が武田氏滅亡後に築かれていることを考えると、この枡形虎口の石垣も、滅亡後に改修されたものだと思われます。



 写真は右が「無名曲輪」で左が食料庫などがあった「味噌曲輪」。ここにもかなりの石垣が使われています。


 写真は味噌曲輪。味噌曲輪は信玄の嫡男・義信の館があったとされる西曲輪とつながる「北枡形虎口」があり、味噌曲輪に馬出が作られていたようです。ここも発掘調査がされています。


味噌曲輪から西曲輪へ向かう堀切に作られた土橋を渡ります。

虎口から西曲輪にいくには、石垣があります。ここに門があったと思われます。おそらく武田氏滅亡後に拡張されて石積み門となったのでしょう。


 西曲輪には、大きな石がごろごろ。おそらく信玄の嫡男・義信の曲輪だったことから、立派な庭園が築かれていた跡だと思われる。ただ、義信が謀反の疑いで殺害されると、西曲輪にあった建物も破却されて改修されたと考えられます。

 西曲輪には、大きな白鳥がいました。水堀があるから環境もいいのでしょうね。動物にも人にも、そして歴史学習もできるような史跡公園に整備されるといいなって思います。


西曲輪から東への通路は、主郭へ続く橋です。ここは神社の主要通路のためにコンクリ-トで固められています。

西曲輪から南への通路は、武田氏時代では館の外に通じる道で、昔は馬出が外に設けられていたようです。武田氏滅亡後は、梅翁曲輪へ続く橋だったようです。石垣になっているのは、武田氏滅亡後の改修です。

其の2~城下編~へ続く