畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

関東史跡まわり~其の弐~

2008-07-31 22:01:58 | 歴史

 今回は、菅谷館跡巡りをお送りします。私にとってはここは2度目の訪問である。一度目は1998年に同じく能登畠山家同好の士・遊佐きむち氏との訪問である。あの頃は電車で行ったっけ。館跡はほとんど変化はない。やはり国指定史跡であるがゆえ、大事にされているのかなぁ。菅谷館跡は現在の埼玉県比企郡嵐山町にある。畠山重忠が菅谷館に住んでいたと伝承があるが、国指定史跡となっている菅谷館跡からは重忠の父・秩父重綱の名前を記した教筒などがみつかっているが、重忠の頃の遺構や遺物は発掘されていない。
 現在ある菅谷館跡はおそらく戦国時代に整備されたものであると思うが、規模も大きくまた、堀などもよく整備されて見ていてワクワクさせる史跡である。

 本郭の土塁の高低差はかなり大きい。




 また、本郭はかなり広く、それだけ館主の経済力や権力が大きかったのがわかる。


 また、西ノ郭と三ノ郭を結ぶ正拈門では、木橋をかけたとされる石組みが見つかっているほか、西ノ郭から三ノ郭にかけての盛り土が三ノ郭の方が高くなっており、写真のように木橋にも傾斜がついており、敵の侵入を遅らせる工夫がしてある。こういった復元がなければ気づかないかもしれない。貴重な復元である。


 さて、菅谷館跡内にある埼玉県立嵐山史跡の博物館へ。駐車場に止まっているのは、スターレットの我が愛車「能登号」である。
 私が10年前に訪れた同時、ここは埼玉県立歴史資料館と言った。それがこの博物館は、2006(平成18)年に博物館に変わった。何が変わったのか。私にとってはガッカリな変化だった。一番ショックだったのは、刊行物の発売中止である。私は博物館に行くと研究紀要や企画展の図録などを購入するのを楽しみにしている。家に帰ってからも旅行の楽しみを継続できし、一瞬では覚えきれないことを、図録で確認できるからだ。
 しかしここは、博物館に変わった2年前から刊行物の販売は一切行わなくなった。「博物館」とは「歴史・芸術・民俗・産業・自然科学などに関する資料を収集・展示して一般公衆の利用に供し、教養に資する事業を行うとともに資料に関する調査・研究を行う施設。」(Yahoo!辞書)だそうだ。資料の収集・展示が役割であり、図録の販売などは仕事でないと言う県の方針なんだそうだ(受付の女性談)。しかし、かなり訪問者から刊行物の販売中止について質問や批判があるらしく。受付の女性は「刊行物は販売できなくなったんです。すみません。資料をお探しならば研究員をお呼びします。」と丁寧に挨拶してくれた。ご好意に甘えて研究員に来てもらうが、来てもらって一言。
研究員「資料と言えば、こんなしかありませんね。」
 と持ってきたものは『畠山重忠 (人物叢書)』(吉川弘文館)そんなものなら全国の書店にあるし、私だって知っている。
義綱「それなら、私も知っています。」
と答えるとそそくさと戻る。なんて冷たい研究員。

 10年前に比べて展示内容が増えたわけではない。刊行物は販売されなくなった。さらに、資料館時代にはあった無料でもらえた「博物館たより」のようなパンフレットもなくなっている。博物館や資料館の使命は、訪れた人や興味を持った人に誰でもわかりやすく情報を提供することじゃないのかな?不況のあおりはいち早く文化的事業に押し寄せる。そのしわ寄せか、間違いなくこの博物館は後退している。残念でならない。
 大阪府知事・橋本殿は「公共文化施設」は図書館だけいい、というような発言をされたとのことですが、本当にそのような思っていらっしゃるなら、「府民は無学でよく、難しいことはわれわれ公に任せろ。」と言っているのと同じです。確かに最近の博物館は、一部のマニアックな歴史家ばかりが利用するだけになってきていますが、もっと展示を工夫したり、研究紀要も素人でも平易でわかりやすい説明にして、「一般人でもわかる楽しさ」を味わえるようにできないものでしょうか…。日本の今後の文化行政は、これいかに…。

関東史跡まわり~其の参~は、いよいよ鉢形城巡りをお送りします。


関東史跡まわり~其の壱~

2008-07-30 18:57:45 | 鉄道
 「続・旅行に行きたい」で宣言していた「鉢形城」に行ってきました。ついでに深谷城にも行こうと思っていましたが、時間的に断念。今回は、鉢形城を中心に、関東の史跡を日帰りでまわりましたので、その様子をブロクにします。
 まずは、JR高麗川駅。…?史跡じゃないと思った方。その通りです。中世でもなければ史跡でもありません。現在走っている電車の駅です。私義綱は歴史マニアでもありますが、鉄道マニアでもあります。そこで高麗川駅の紹介です。

「高麗川」と書いてなんて読むか知っていますか?正解は…

「Komagawa.st」(こまがわ)でした。地元の人以外でこんなの読める人います?まさに難解地名ですね。さて、この高麗川駅はローカルながら八高線(東京都・八王子駅~群馬県・高崎駅)と川越線(埼玉県・大宮~埼玉県・川越駅~埼玉県・高麗川駅)の2路線が走っている駅です。

駅前は非常にローカルな雰囲気ですが、近年押し寄せる都市開発の波にさらされたのか、駅前のロータリーにわけわからないオブジェがありました。ロータリーはよく整備されていて、歩道もキレイ。近くに高層マンションが建っており、今後の開発が期待されます。

では、八高線を走っている列車を紹介します。写真をみると、2種類の電車があります。でも、左側の新しい電車が川越線で、右側のローカルな感じのディーゼル車が八高線?という単純な説明はできないのです。その理由を八高線の歴史とともに振り返ってみましょう。

 この写真は電化される以前に八高線を走っていた車両のキハ35系気動車です。行き先表示が「東飯能」となっているので、まさに八高線で活躍した気動車です(同写真は「碓氷峠鉄道文化むら」で展示されているキハ35系の写真です)。キハ35系は旧国鉄時代の1961(昭和36)年に初めて登場し、1966(昭和41)年までに258両も作られました。近郊非電化区域の通勤電車として利用されるため、オールロングシートを採用。車内にはトイレもあります。さらに車両の軽量化を目指すため、ドアを戸袋にしまう内包型のドアではなく外吊り式ドアとなっている珍しい車両。しかし、車両の色が赤一色であり、さらに形もいまいちなことから鉄道マニアの間では不人気の車両でありました。さらにキハ35系の不運は、後年になると近郊区間が次々と電化され、活躍の場を失った上、オールロングシートゆえに地方長距離ローカル線に不向きだった。また、非冷房車で後年は八高線でも評判が悪かった。私は何回か八高線でこのキハ35系に乗ったが、いつも103系か201系の電車に乗っていた小学生の頃の私はディーゼル車とこのボディーに強い衝撃を覚えた。(もっとも私は八高線では、ハイカラなデザインで冷房も完備しているキハ38系の方が好きだったが…残念ながら自前の写真がありませんので掲載できず。誰かキハ38系気動車の写真をくださいませ(懇願))
 さて、そんな事情もありようやく1996年八高線は電化されることになります。それではまず下の図をご覧ください。

 八高線は東京近郊区間にしては非常に電化されるのが遅かった区間です。しかも全線の電化は今でも達成されていません。八高線区間では八王子~高麗川までの区間で、しかも現在でも単線です。
 高麗川以北は非電化区間として、現在では110系という最新鋭ディーゼル車が投入されました(2つ上の右側の白と緑の列車)。そして高麗川以南にはこれまた当時の電車としては最新鋭の209系が投入されました(現在でも山手線に投入されている電車です)。こうして、八高線は南北に分断されました。そして、それだけでなく八高線のアイデンティティーを崩すことが起こりました。八高線の川越線への直通運転です。無論先に電化されている川越線に乗り入れることができるのは、八王子~高麗川を走っている209系です。
 したがって、209系は八王子~高麗川~川越を走ることになりました。川越線は、高麗川~川越~大宮を走る路線ですが、1985年に全線が電化して以来、川越~大宮で埼京線との直通運転を行っており、川越線も東西が分断されていました。そして、1996年南北に分断された八高線と乗り入れ。まるで寂しさをなめ合う子犬のように、分断された路線同士がくっついたのです(意味不明)。こうして路線を飛び越えた愛が生まれたのです(さらに意味不明)。
 ただ、この路線名。利用者にすごくわかりずらいと思いませんか?川越線は高麗川~大宮の全線直通電車はない。八高線も八王子~高崎の全線直通電車はない。これで同じ路線を名乗ってよいのか?例えば、1977年に開通した東急電鉄新玉川線(渋谷~二子玉川園)は、新玉川線だけを走る電車なく、全線が東急田園都市線の中央林間~渋谷で運転されていた。ほぼ、新玉川線は田園都市線に飲み込まれていたのである。そこで、利用者の混乱を避けるため2000年に新玉川線という名称は廃止され、田園都市線に吸収された。
 八高線・川越線も名称を変更した方がわかりやすいのではと思う。八高線が「八王子」と「高崎」の頭文字をとった路線であるから、この際、「八王子~川越」を走る路線を「八川線」(はちかわせん)とし、川越線は名称を廃止(「川越~大宮」は埼京線と統一する)。「高麗川~高崎」は「高高線」(こうこうせん)あるいは「崎麗線」(さきれいせん)としたらどうだろうか。
 最近は首都圏の私鉄は、乗り入れが複雑に行われおり、どの電車がどこにいくのかわかりずらくなっている。このような事態をぜひ、名称をそろえたり、わかりやす表示するなどして、超高齢化社会になるのに備えて解消して欲しいと思う。

関東史跡まわり~其の弐~は菅谷館をお送りします。

『無差別殺人』は『無差別』ではない。

2008-07-29 06:16:42 | ノンジャンル
 昨日も戸塚駅で「無差別に切りつける」という事件が起こった。秋葉原の無差別殺傷事件から49日。八王子ではいきなりデパートの本屋でバイトしている人をナイフで殺傷などなど、「だれでもよかった」「だれか道連れにしかたっか」などと理由を語ることが多い。そんな「無差別」に私は疑問をもっていたら、見事に私の思いをワイドショーでコメンテーターをしていた北野誠さんが見事に私の疑問を公共放送で言ってくれた。
 「無差別殺人は無差別なんかじゃないんですよ。犯人たちはいずれも犯行をするときに抵抗しないような、優しそうな人、おとなしそうな人を選んでいるんです。決して自分より強い人を対象にしようとはしないんです。無差別ではありません。」(このような趣旨で発言しただけで、原文ではないです)
 被害にあうのは決まって、マジメな方々。秋葉原の犯人も下見をしているのは、抵抗しないような人たちがいることを確認していたからだろうか。日本を支える常識ある人々。人の命に重い軽いなんてないが、世の中を汚しているような悪い人はこの国にもたくさんいる。そういう人たちには絶対手を出せない「無差別殺人犯」。結局のところ犯人はどきょう無しの、卑怯で、弱い者いじめをしているだけなんですね。その犯行を犯してしまう人の心はいかに?どのような環境で育てられたのか?その人もいじめなどにあっているのかもしれない。犯行を防ぐには…やはり色々な人と関わることが必要か。

人が優しくなれるとき

2008-07-22 22:15:20 | 日記
通り魔殺人、短絡的な理由の親殺し、他人の気持を考えない自己中な人々…。そんな憂鬱なニュースばかりが報道される。人はどうしたら優しくなれるのか。答えは簡単だった。人と関係を作ればよかったのだ。私の職場に5歳上の女性の先輩がいる。2年前はその人のことが苦手だった…というより大嫌いだった。お互い嫌いだから関わりを持とうとしなかったが、やがて大きな言い合いに発展。言いたいことを言った事から少しずつ打ち解けていき、昨年は普通の仲に、今では信頼できる先輩になった。ときたま夕食を一緒に食べたりする。他愛ない会話が楽しい。お互い自然と相手をおもいやるようになった。すると、その先輩からの助言(指導?注意?)も素直に聞けるようになる。これはけして自分が優しくなったわけでなく、その人といっぱい関わったからこそ。さて、人類がみんな優しくなるには?世界全部の人と関わっていこう!

ターニングポイント

2008-07-17 23:25:18 | 日記
 私は職業柄、仕事のことを詳しく書けません。でも今日はとっても嬉しいことがあった。2年前の職場で起こった出来事があった。そして2年後の今日、何気にその出来事に関わった子どもが私のところを訪れた。「あの時自分を信じてくれて嬉しかった。だから自分は(良い方向に)変わった。」と言ってくれた。本当に嬉しかった。ああ、この職業をやっていてよかったなぁと思った。今から思えば、その子にとっても、私にとっても、2年前の出来事は人生の大きなターニングポイントだったのかもしれない。
 人生の選択。どうする?