畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

落ち葉で除染-農水省-

2011-09-30 23:53:00 | 日記
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110930-00001309-yom-soci

読売新聞 9月30日(金)配信

 農林水産省は30日、東京電力福島第一原発事故で放射性物質が蓄積した森林の除染方法について、樹木の葉や落ち葉を取り除くことで放射線量を最大で半減できる、とする指針を発表した。

 発表によると、原発から約60キロ・メートル離れた福島県大玉村の杉林のスギ3本について、木全体と地表から15センチの深さまでの土を合わせて調べたところ、葉に放射性セシウムの38%、落ち葉に33%が含まれていた。また、土壌からは17%、枝から11%、樹皮から1%が検出された。

 同県郡山市内の森林で実際に落ち葉や下草を取り除いたところ、高さ1メートル地点の放射線量が約2割下がった。落ち葉も合わせて取り除くことで、木を伐採したり土壌をはがしたりしなくても放射線量を半減することが可能だという。

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だからいったじゃない!早く除染しなよって。落ち葉を取り除くだけで半減だよ。これが雪がふったら終わりだよ。もう来週あたりからずいぶん寒くなるみたい。だから早いところ除染しなきゃ雪が積もったら、土壌にしみこんじゃうよ。

年内に「冷温停止」宣言へ

2011-09-22 04:44:00 | 政治・経済
年内に「冷温停止」宣言へ

 これまで、政府と東京電力は、原子炉圧力容器の底の温度が100度以下になり、放射性物質の放出が大幅に抑えられる「冷温停止」を、来年1月中旬までを目標に実現するとしてきました。現在、原子炉への注水は安定し、1号機と3号機ではすでに100度を下回っていることなどから、20日に公表する工程表の見直しの中で、「冷温停止」の目標時期を前倒しして年内に達成できるとの見通しを示すことにしています。

 また、東京電力は原子炉からどのくらいの放射性物質が放出されているかを測定していますが、20日の改訂版には、その評価結果も盛り込まれるほか、除染モデル事業を開始することなども新たに加えられる見通しです。

TBS系(JNN) 9月19日(月)12時9分配信


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やっとここまで来たか。
ニュースのコメントでは、100km圏内を避難地域にとか、200kmを農業禁止にしろとか、福島県を立ち入り禁止にしろとかバカバカしいことをコメントする輩がいます。

 しかし、福島県会津坂下町産のコシヒカリからセシウム検出されなかったし、原発の冷温停止も前倒しされる。東日本はまだまだ立ち直れる。あとは除染だ。冷温停止になれば放射性物質の放出はほぼ止まる。次は除染が進むといいな。また、福島に旅行に行きたいな。



落ち葉で除染

2011-09-21 04:44:00 | 政治・経済
 文部科学省は、福島県内の森林の放射性セシウムの調査結果を発表した。放射性セシウムの5割~9割が表面の落ち葉や枯葉などの層に溜まっていることが確認されたという。落ち葉を取り除けば汚染を大幅に改善できる見通しがある。


 これは、先週の鉄腕DASHのDASH村でも実証されている。落ち葉がセシウムを集めているから普通の土壌が10マイクロシーベルトでも、森林部の落ち葉は30マイクロシーベルトにもなる。


 ならば、早く落ち葉を取り除かないと。時間を置くとどんどん地中にセシウムが浸透してしまう。それに冬になって雪が降ると、それこそ地中深くに浸透してしまい取り返しがつかなくなる。福島県の警戒地域や計画避難地域の山林の落ち葉を取り除かなきゃ。


 民間レベルでなく文部科学省が結果を発表したんだから早く動いてくれないかな?先月細野原子力事故担当大臣が、来月(9月)には大規模な除染活動が始まるって言っていたけど、結局まだ実験段階でしかない。年内に除染基準を決定と環境省は言っているみたいだけど遅い遅い。早くなんとか作業を開始してほしい。そのために、ホームレスの方や失業している方の了解をとった上で、国が給料を出して山林の除染を大規模に国費で行うといいんじゃないかな?

福島旅行~其の6(Final)~

2011-09-20 04:44:00 | 旅行・観光
 2011年9月10日(土)~9月11日(日)に歴史友達の武藤舜秀様と、福島に旅行に行ってきました。東日本大震災からの復興途上にあり、原発問題を抱える福島県。その復興支援の一助になればとも思いました。「其の6」にして最終回。今回は、いよいよ1泊2日旅行の最後、二本松市の訪問と、ついでに行った「群馬県立歴史博物館」の様子です。



 まずは「二本松市歴史資料館」です。入館料100円とめっちゃ安いですが、二本松畠山氏の古文書は1通しかありません(二本松藩や二本松の民俗など他の展示は充実しています)。やはり二本松畠山氏は古文書が残っていないんですね。



 今回も隣の二本松市立図書館へ。こちらは郷土の本が充実しています。図書館の職員の方がわざわざ「何をお調べですか?」って聞いてくれて「二本松畠山です」と答えると色々と資料を持ってきてくれました。前回以上の収穫がありました。この図書館、コピーは司書がやってくれておまけに1枚10円というとんでもない恵まれたシステムです。コピーしている間に、二本松畠山氏の菩提寺である「称念寺に行ってみては?」と言われたので、さっそく訪問です。



 図書館から300mくらいしか離れていません。車でも駐車場があるのでいけます。このお寺開祖は1280(弘安3)年と鎌倉時代です。応永年間ころ(1413年ころ)奥州探題畠山満泰が霧ヶ城(二本松城)を築城した際、称念寺も城の中腹に移転され、以後二本松畠山氏の菩提寺になったといいます。



「畠山公墓所参道」です。かなりよく整備されています。

 これが、「畠山公墓所」です。かなり立派なものです。説明板を読むと二本松畠山氏は畠山義継の次女から二本松氏を名乗ったそうです。1933(昭和8)年に墓所を改装し、累代の祖霊と「粟の須の戦い」で義継と運命を共にした23名の家臣の霊もまつられているそうです。


 こちらが義継公と運命を共にした家臣の供養塔の一部です。名前に「遊佐」なんてのも見えます。

 そしてこの大きな五輪塔が二本松畠山氏累代の墓です。墓のいたるところに畠山氏の家紋である二引両が刻まれています。

 五輪塔には二本松畠山氏の累代の名前と没年が刻まれていました。反対側の面には江戸時代以降現代まで続く当主の名前と没年が刻まれていました。こんな風に二本松畠山氏の墓が大切にされているというのはうれしいです。さらに二本松畠山氏の研究が進んでくれれば言うことがないんですが…。



 次は資料館からほど近い二本松城です。こちらは近世城郭です。私は2003年にもここを訪れています。震災の後の影響もあり、二本松城天守台の石が膨らんでしまうなど、かなり被害があったようです。城の周りには「がんばっぺ二本松」ののぼりが掲げられていました。震災以降福島県内にはどこもこのようなのぼりが見られました。



 震災の影響か、あまり人がいなかったのが残念です。2003年に訪れたときは結構人がいて、天守台の写真を撮るのに「邪魔くさいな」なんて思ったほどでした。上の写真は二本松城の復元された「箕輪門」です。かなりの迫力があります。



 二本松城はかなり広くしかも山城なので、結構な斜面を登ります。鶴ヶ城(会津若松城)と同じかそれ以上の面積があると思います。

本当は天守台まで行きたかったのですが、この後に本宮市歴史民俗資料館と、群馬県高崎市にある群馬県立歴史博物館にも行きたいので、今回は断念しました。この時点で10:45。本宮に行って、高崎に行って、武藤様を東京駅まで送って自宅まで夕方に戻るにはギリギリラインでした。



 二本松市から下道を急いで本宮市歴史民俗資料館へ…と思ったら今日は定休日…がっかり。おかげで時間が節約できた…わーい(泣)時間的節約には勝ちましたが、歴史見学的には負けでした…。


 カーナビで「群馬県立歴史博物館」まで検索したところ距離340km。到着予想時刻15:50!えー!昨日武藤様に調べてもらった時は、220kmだったのに…と思ったら、北関東自動車道が全線開通したのが2011(平成23)3月とちょっと前でカーナビの地図には反映されていませんでした。それでも、本宮市から一気に南下し福島県を抜け、栃木県宇都宮市を越えた岩舟JCTから北関東自動車道へ入り、およそ54km。遠いです。高速を最寄りの南前橋ICで降りたころにはもう12:30過ぎ。さすがに武藤様が「コンビニでもいいから何か食べましょ。」ということでコンビニでご飯を済ませてすぐに博物館へGO。



 さすがに県立だけあって立派な建物です。やっている企画展は「関東戦国の大乱」というもので、享徳の錯乱を取り上げています。古河公方と関東管領の対立。応仁の乱より10年ほどまえに戦国時代は関東で始まった…とテーマに古河公方足利成氏や上杉顕定などを取り上げていました。

まず先に常設展からみました。常設展ではフラッシュでなければ撮影OKみたいです。

 私が気になる遺跡「黒井峯遺跡」の模型がありました。日本のポンペイと言われ、1450年前ほどの榛名山の噴火で消えた村です。噴火の軽石でパックされたことで、普通の発掘調査では得られない家の屋根や塀や柴垣が立ったまま発掘されたそうです。1993(平成5)年に国指定史跡となり、現在整備がおこなれているそうです。私はこの遺跡のことを千葉県佐倉市にある「国立歴史博物館」で知りました。整備が終わったころにぜひ行ってみたいなと思っています。



 群馬県太田市にある金山城の模型です。特に石垣が多いこの地区は実城地区と言われています。関東戦国時代に石垣の城はなかったと言う定説を覆した城です。ガイダンス施設も充実しているようなので、今度ぜひ金山城にも訪れたいなと思っています。



 上杉憲政の安堵城です。群馬県は上野ですから当然山内上杉系の資料もあるんですね。上杉輝虎の文書もありました。企画展だけでなく常設展も見ごたえ十分。



 近代の展示には群馬県らしく富岡製糸場もありました。2009(平成21)年に行ったばかりです。

 企画展のほうは写真撮影不可でした。そのかわり、企画展の図録がものすごく分厚くて、すべて資料が網羅してありました。その方がありがたいです。戦国前期なんてほとんど取り上げられることがないので、企画展も図録も貴重です。


 武藤様を東京駅に送ったのが16:30頃。

そういえば先週も墓参りのついでに江戸城が見たくて東京駅に来たっけ。せっかく来たので、東京駅の復元工事の写真も撮っていきます。私が家に着いたのが17:30ごろ。なかなかいい時間に帰ってきました。使ったお金が現金で2万6000円。高速代で1万円ほど使ったので、今月はかなりの金欠月間になりそうです(苦笑)


 以上、福島旅行のブログでした!

福島旅行~其の5~

2011-09-19 04:44:00 | 旅行・観光
 2011年9月10日(土)~9月11日(日)に歴史友達の武藤舜秀様と、福島に旅行に行ってきました。東日本大震災からの復興途上にあり、原発問題を抱える福島県。その復興支援の一助になればとも思いました。「其の5」の今回は、いよいよ1泊2日旅行も後半。伊達市にある梁川城などを紹介します。


 福島県歴史資料館の職員の方に「梁川城を見るなら、ぜひ見てほしいのが枡形です。桜岳団地にかなりの高さの土塁もあるので見ものですよ。」と教えてもらいました。地図までいただき感謝もひとしお。
 福島市から伊達市に入り職員の方に教えられたとおり「ヨークベニマル」を見印に曲がり桜岳団地に進みます。

武藤様「これって土塁ですかね?畠山さん。」
と2人で半ば興奮状態。でも、こんなのは序章に過ぎませんでした。

 この辺は急傾斜地崩壊危険地域らしいです。というとかなり大きな土塁があるんだろうか。もともと地形がそうなっているんだろうか。と思ってさらに進むとありました。

 団地の横に結構な土塁です。でもこれだけ見ると「山がちなところに団地削って作ったんじゃないの?」と思ってしまいますが、これならど~だ!

 見事なまでに直角に土塁が曲がっています。これは人工物としか思えない。そしてさらにさらに…

 これは完全に枡形です。しかも高さが建物の1.5階分くらいあります。しかも枡形自体もかなりの大きさです。梁川城はどれだけ大きい城だったのでしょう。この遺構に思わず武藤様も「これはすご~い!」とびっくりしていました。当初は、梁川小学校敷地内にある梁川城庭園跡だけを見るつもりでしたが、この枡形を見ないと損するね…というほどすごいものでした。福島県歴史資料館の職員の方に感謝感謝です!

 この枡形は伊達氏時代の梁川城大手門と説明版には書いてありますが、戦国時代にこれほど大きな枡形が築けるでしょうか。ちょっと疑問なところはあります。安土桃山期の城郭かもしれません。
 この場所は福島県指定史跡になっているそうです。この枡形を生かさない手はないんですが、このあたり元城跡だけあって公有地ならではの建物が多く建っています。団地に小学校・中学校・高校まであります。それだけに梁川城をPRするように整備するのは難しそうです。

 では、梁川城の庭園に行きましょう。庭園は梁川小学校の敷地にあります。敷地は部外者を阻むような門はありませんが、それでも小学校の活動中に入ると、それこそ福島県歴史資料館の職員ですら「誰この人?」のような目で小学生に見られたようです。

 ですので、入るならこちらの浅間神社側から入るといいと言われました。梁川保育園の前に駐車スペースがあるので、そこから降りて歩くとほんの1・2分です。


 これがその庭園です。こんなものが小学校にあるなんて羨ましい。庭園にあった説明版によると、本丸跡では発掘調査が行われており、主殿跡など建物の遺構を25棟の他に井戸、石敷き中国銭や陶器なども出土しており、伊達氏時代の居館が確認されました。「庭園も伊達氏居城の時代にまでさかのぼることが推定され」とあるので、庭園時代の発掘調査は行われていないようです。先ほどの大きな枡形といい、この大きな庭園といい本当に伊達氏時代なんでしょうか?16世紀終わりごろの上杉時代のものではないか?とも思います。

 庭園はかなり大きいものです、中ノ島が2つ配置されています。そういえば、会津若松市の福島県立博物館で、梁川城の模型がありましたね。

庭園の全体模型です。

この庭園近くにある建物は、たぶんこれは「会所」でしょう。客人をもてなすために庭園があったと思われるので。本丸の発掘調査が行われているのならば、この模型の建物も発掘調査を生かしてつくられているんでしょうか?

 梁川城庭園は京極氏の館や江馬氏館と比較しても遜色ない大きさです。1532(天文元)年に伊達稙宗が居城を桑折西山城に替えるまで本城だったそうです。水がある庭園は15世紀初頭くらいまでで、15世紀中庸ならばそろそろ枯山水が庭園のブームになってきます。まあ朝倉氏の居館では水がある庭園がありますから、枯山水以外考えられないというわけではないですが。どうなんでしょ武藤様?



 梁川城の本丸は梁川小学校のグランドになっています。おかげで本丸の発掘調査があったわけですが…。