今回で6度目の八王子城訪問。「八王子城は幽霊が出る」とのうわさですが、私は4度目の訪問で1度も霊気を感じませんでした。
八王子城の「日本百名城 国史跡 八王子城跡」のパンフレットによると、八王子城は城の城下町にあたる「根小屋地区」、城主氏照の館があり生活の中心になっていた「居館地区」、戦時に要塞となる「要害地区」の3つにだいたい分けられています。5度の訪問で、御主殿がある「居館地区」とガイダンス施設や北条氏照の墓などがある「根小屋地区」はすでに訪問していた。しかし、460mの山にある「要害地区」は体力的にめんどうなので後回しにしていた。
昨年(2014年)に「要害地区」を訪問しようと決めており、サイトの目次にも「八王子城 in 2014~本丸跡に上ってきましたの巻~(更新予定)」と書くことで、今度こそ八王子城を制圧しようと意気込んでいたのですが、本業が忙しすぎてとうとう行けずじまい。そこで2015年の夏。子ども達に「山登りしよう」と誘い要害地区に挑戦することに。
根小屋地区の駐車場に愛車「能登号」を置いて、まずはガイダンス施設でパンフレット入手。そして公園管理棟からいよいよ要害地区へ。最初、管理棟を左の路に行き空堀を渡りあしだ曲輪の方に行ってしまったのだが、看板に「あしだ曲輪はガイドなしには入れません」とありました。前回の訪問(八王子城 in 2013参照)にボランティアガイドを連れて御主殿からあしだ曲輪も見学しました。旧福善寺の境内となっていて、だいぶ前に廃寺になって手入れもされてないので、ここを通過して要害地区に行くのは迷うし、子どもが居ては危険と判断。管理棟の右の道から要害地区に入ります。
この鳥居と「八王子城跡自然公園」の看板が「八王子城・要害地区」の入口のようです。自然公園とは言っても460mの山。かなりの登山です。登ってきた道を振り返ると…
狭い道が続きます。そして先を見ると…
道は細いです。この後険しい道が続き、子どももバテバテです。
※画像がブレておりスミマセン。
登城道(登山道?)の近くにスズメバチの巣があるようで、市の職員の方がロープで警戒を促していました。そう言えば城のあちこちに「マムシ注意」や「動物がよく出没するので音のでるものを持っていきましょう」などという看板が…。本当にここは東京か?
入口から8分、スズメバチの巣から2分ほどで少し広いところへ到達。
ここはこの曲輪にある看板を見ると金子曲輪(金子丸)とあります。「金子三郎右衛門家重が守備したといわれ、尾根をひな壇状に造り、敵の侵入を防ぐ工夫」が施されているという。このあたりまだ6合目。本丸跡まで管理棟から40分ほどらしいので、まだ25分ほどかかる。
でこの後の道が大変だった…。
細く険しい道がかなり続きます。このあたりで下の娘はかなりまいっていたようです。
途中ベンチがある場所があったのですが、先にいらした方がおり(写真は帰り道で撮影)、もうちょっと先に進んでしまったのが失敗でした。このベンチのあたりは「柵門跡」と言われ、「山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦な地」という。しかし、なぜ「柵門跡」と言われるかわからないというので、門があったのではなさそうなのかな?
金子曲輪から12分。険しい道もピーク。「高丸(この先危険)」という看板が見えたところで小休止。ガイダンス施設の前の自販機で買ったペットボトルのお茶をここで3/4消費。子どもたちは大きな水筒にしてよかった。ここで9合目という案内板を発見。もうちょっと。
ここから5分進んだところで、谷の方をみると急に景色が開く。
木の多い八王子城で唯一全面パノラマ(本丸より松木曲輪よりも眺望がよい)です。ここで八王子市街や晴れた日には東京中心部まで見えるそうです。ここで景色を見ながらもう一休みしました。
入口から30分で、本丸跡の下、八王子神社前に到着。この広い場所には東屋(休憩所)があります。ちなみにここの広場ってなんなんだろう?と看板をみて何もないので不思議に思う。
ここからは3方向に分かれ道。高丸や景色のいいところで十分休憩したので、パンフレットや看板を見るて次の行先を決めます。
ここをまっすぐ(西へ)行くと八王子神社を経て本丸へ。
左(南)へ行くと松木曲輪へ。道は平坦そう。
右(北)に行くと小宮曲輪です。道はちょっと険しいかな…。
松木曲輪にはまっすぐ進んだ八王子神社からも行けそうなので道を直進。
この八王子神社は北条氏照が築城した際、城の守護神とした「八王子権現」が祀られているという。この境内には3つの建物が建っている。
八王子神社の左にあった演能台のような建物はかなり荒廃していた。昔は祭りでも使われていたのだろうか?
演能台の後ろにおそらく第二次世界大戦の戦没者の慰霊碑だと思われる大きな石碑があった。大きな城跡には必ずと言っていいほど戦没者の碑がある。それだけ城跡が神聖視されているのかな?
で、この石碑がある場所が松木曲輪だった。この曲輪は本丸のすぐ下にあり重要な曲輪だったようで、別名「中の丸」や「二の丸」とも呼ばれていたという。本丸は広さがないので、戦時にはここが重要な施設だったのであろう。1590(天正18)年の戦いでは中山勘解由家範が守備したが、少数では防ぎきれず陥落したという。城主の北条氏照はこの戦いの時に本城である小田原城に詰めていて留守だったらしい。松木曲輪の名前の元になったであろう「松木氏」もこの戦いでは小田原城に居たのだろうか。この戦没者の碑の前にはベンチがあってそこそこ眺望もよいので子ども達と3度目の休憩で体力全開!
では八王子神社に戻って本丸へ。
ここまで来ればもう一息。体力も回復したので足取りも軽く本丸跡へ。
本丸の看板には、「城の中心で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので天守閣など大きな建物はなかったと考えられます。横地監物吉信が守備した」とある。
本丸跡には大きな「八王子城本丸址」の石碑がシャッターチャンスです。子どもたちを記念に写真撮りました。この本丸には3個ほどお花が飾られていました。これは豊臣との戦いで徹底的に殺された北条方の兵の怨念などの噂があるので、その鎮魂のためと思われます。
八王子神社まで戻り、行く道が険しそうだった小宮曲輪はどうしようかと、子どもたちに「行く?」と聞くと「ここまで来たんだから行く!」と勇ましい。結構な藪の中をちょっと進むと…
こちらにも建物があり、麦茶のペットボトルと食べ物がお供えしてありました。なぜか狛犬がいて、娘が「コマさんだぁ!」(妖怪ウォッチより)と喜んでいました。小宮曲輪は1590年の戦いでは狩野一庵が守備していたが、ここの曲輪の陥落をきっかけに山頂の曲輪が次々と陥落したらしい。そして、この曲輪に行ったからこそわかった事実が。八王子神社の階段の前にあった東屋のある広い広場。あれば「腰曲輪」だと看板より判明。本丸・松木曲輪・小宮曲輪の3つに囲まれる曲輪だけに「腰曲輪」には納得。なるほど。
これですべて「要害地区」は回り終えたので下山。心霊スポットと名高い八王子城なので、要害地区こそひょっとしたら出るかも?と思ったが、普通に歴史を堪能できるスポットでした。
帰りに2013年に整備された「居館地区」の御主殿に子どもたちが行きたいというので連れて行いった。御主殿地区で前回と変わった点は本来の位置とは別の所に造られてしまった「疑問の曳橋」が通行できなくなった事(八王子城 in 2013参照)木造の橋のため強度面で問題となってしまったらしい。今は取り壊さてこのような状態に。
その曳橋がもう一度掛け直されることに!!
2016年2月には完成するらしい!これはもしや本来の位置に掛け直すのか?とガイダンス施設の職員に聞くと、残念ながら「誤った位置に掛け直す見込みです」との返答。曳橋の取り壊された写真をよく見ると、下のコンクリートの基礎部分は残っており、本来の位置に掛け直すとコンクリートの基礎部分までやり直さなければいけなくなるので、予算が立たなかったのだろう…。残念。
ガイダンス施設で、子どもが「八王子城物語」のVTRや歴史体験ゲームで遊んでいる中、私は汗を拭きながら涼んでから帰路へ。帰りは東京都で唯一の道の駅「滝山」で昼食を食べた。