畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

高屋城跡

2016-08-30 07:01:00 | 歴史
 高屋城は天皇陵に築かれた城である。だから「訪問しても中には入れない」というのをネットの情報で知っていた。「訪問してもいけないなら無駄」だと思い込んでいた。しかし、高屋城は河内畠山氏の本拠地であり、広い城域を持った城であるから、天皇陵以外の部分も城域としてあったことが調べてわかった。よく考えればわかることなのだが、思い込みとは恐ろしい。


 天皇陵は高屋城の本丸だけで、周辺の住宅地になっており、看板が3ヶ所ほどあるようだ。いずれも羽曳野市が建てたものである。
 1つは城山姥不動明王の境内にある。
 1つは高屋城不動坂の看板がある。ここは不動坂門という搦手門があった場所であるそうだ。
 1つは二の丸跡にある公園にも看板が立っている。

 河内畠山氏の領域だった、八尾市には、八尾市立歴史民俗資料館があり、ここには河内畠山氏に詳しい小谷利明氏がおり、研究紀要にたびたび河内畠山氏関連の論文を書いている。
 また、この資料館では、「資料館歴史講座【戦国時代の河内】」というイベントを開催しており、平成28年4月24日(日)には「両畠山氏の抗争」というテーマで弓倉弘年氏を講師として講演が行われた。弓倉氏は河内畠山氏研究の第一人者である。また、平成28年5月22日(日)には「畠山氏と細川氏を渡り歩いた木沢長政」というテーマで馬部隆弘氏が講師として講演し、地元の戦国時代をよく研究している。この資料館は高屋城に行ったならぜひ訪れたいと思う。
 残念ながら羽曳野市には歴史資料館や博物館が見つからないが、何か河内畠山氏関連のイベントをやっていないかな?とひそかに期待している。

畠山氏研究の進展

2016-08-22 23:07:00 | 歴史
 弓倉弘年氏の著作『中世後期畿内近国守護の研究』をネットで注文。届くのが楽しみです。河内畠山氏の研究も結構進んできたなあと思う。弓倉氏の論文が体系的に見れるのはありがたい。森田恭二氏の『河内守護畠山氏の研究』はどんな本屋でも見てもものすごく値段が高くて困る…。

 能登畠山氏研究では、『加能史料』の出版で原典にあたるべく東四柳史明氏が奮闘なさっている。また、久保尚文氏の論文「法華宗上行寺蔵サンキ明王伝来試論ー能登守護畠山義綱の楡原城滞在と病状ー」(『富山史壇173号』2014年)では、永禄九年の政変で追放された畠山義綱が越中の細入谷滞在したことを証明しようという新しい動きが見られる。
 さらに、大阪市立大学では、川名俊氏が「戦国期能登畠山氏権力と北陸地域」を研究テーマとし、『地方史研究』の第364号(63-4)(2013年8月号)で「中世後期能登における七尾・府中の性格と展開」という論文を書いている。川名氏は「戦国期における守護権力の展開と家臣-能登畠山氏を事例に-」『ヒストリア』第248号、2015年)という論文も書いており、今後も能登畠山氏関連の論文が期待できそう。平成30年度には七尾市博物館も開館するので、能登畠山氏の研究も一部進むのではないかと思う。

金沢学院大学の修士論文では、
「室町期能登守護畠山氏の研究」(平成26年度)
「中世能登の生産と流通―珠洲焼を中心として―」(平成25年度)
「戦国期能登内浦の領主と村落」(平成23年度)
「戦国期能登国一宮気多社と吉田神道―吉田兼右への返伝を中心に―」(平成22年度)
と戦国期の能登の修士論文がたくさん。修士論文は一般の論文のように簡単に閲覧することはできないし、まだまだ考察が博士論文に比べ足りないこともあるが、これが博士課程まで進んで一挙に研究が進んでくれたらなあと希望する。

 仕事が忙しくなりちょっと歴史から遠ざかっていたらどんどん研究が進展しているなあと思う。どんどんみんなやりたいことをやって成果を出しているんだなと思うと、どんどん仕事が忙しくなり、歴史から遠ざかる自分がなんかさみしく感じてもしまう。かといって今更歴史研究で食べていけるわけではない。なかなか難しい問題だ。
 今度、能越自動車道が完全開通したこともあり、来年(2017年)あたり自分で能登まで足を延ばしてみようかなって思ってみた。

現代の文章と思考の比較

2016-08-15 08:57:00 | 政治・経済
 8月14日の未明にトップアーティストのSMAP解散に関する発表がされた。2016年の1月に解散騒動があったがそれを引きずる形での解散となった。8月14日にみる5人のコメントから、文章というのは本当にその気持ちを表していると感じたので、そのコメントからどのような思考が見て取れるか。いつもは中世の古文書を見ているが、今回は現代の文章からその意味を考えていきたいと思う。
 まず、前提に日本の文章というのは、特に文面に自分の意見を間接的に表現することで、相手を立てたり波風を立てないようにする慣習がある。その分、その意図を組みにくいが、その言い回しやどこに軸を置いているかを通してその気持ちを汲み取ることはできる。そこで、解散に関する5人の文章の全文を比較することでその気持ちの差を読み取っていく。


■中居正広さんのコメント全文

 「ファンの皆様、関係各位の皆様、我々SMAPが解散する事をご報告させて頂きます。ご迷惑をお掛けしました。ご心配をお掛けしました。お世話にもなりました。このような結果に至った事をお許しください。申し訳…ありませんでした…」

 まず冒頭にファンと関係者に向けた解散報告のあいさつ。ファンに軸を置いている点が中居さんの周囲に気を配る姿勢が見て取れる。そして、そのファンに向かってまずお詫び。感謝の場面は「お世話になりました」という部分以外ない。そして「申し訳…ありませんでした…」という文面からは口語のように言葉に詰まる様子を行間から読むことができる。予想ではあるが、中居さんの解散することが本望ではない様子が文章から強く表れている。SMAPで一番大事なファンを立てていることに、リーダーとしての責任感や、まったくSMAP内の事情に触れていないことから、メンバーすらもかばう全方位外交ともいうべき、素晴らしい人間性が見て取れる文章である。



■木村拓哉さんのコメント全文

 「この度の『グループ解散』に関して、正直なところ本当に無念です。でも、25周年のライブもグループ活動も5人揃わなければ何も出来ないので、呑み込むしかないのが現状です。沢山の気持ちで支えて下さったファンの方々、スタッフの皆さんを無視して『解散』と言う本当に情け無い結果になってしまいました。今は言葉が上手く見つかりません」

 まず冒頭に「無念です」という文章があり、軸が自分にあることがわかる。そして一番の違いが他の4人にはないネガティブな文言の多さ。「正直なところ」「5人そろわなければ何も出来ない」「呑み込むしかない」「無視して『解散』」「本当に情けない結果」「今は言葉が上手く見つかりません」。ほぼ全文がネガティブな言葉で占められている。つまり軸が自分にあることから、自分としては不本意な結果であるということが強いメッセージになっている。しかも他の4人とは違って、メンバーへの恨み節も見て取れる。一見ファンやスタッフに向けていることばに見えるが、この文章は実はメンバーに向けた「なぜ解散という道を選んだのだ」という問責にも見て取れる。ここからやはり1月の騒動以来、木村さんだけ違う立場に立たされてメンバーとの意思疎通があまりできていなかった点が見て取れる。すると、木村さんがいくら頑張っても他の(特に稲垣さん、草なぎさん、香取さん)との連携は難しく、その点で中居さんがメンバーの調整に苦労していたであろうことがこの文章からも推察できる。
 日本人的感覚からして、他者を非難すると自分に返ってくるので積極的には避けたいと考えるのが普通だ。であるならば、木村さんの隠された意図として、ファンやスタッフの応援を通して、解散にするその日までもう一度5人での活動を行った上でお別れしたいという意思表示なのではなかろうか。つまりは、一部マスコミで報道されているさよならコンサートや
、25周年イベントや紅白への出場を狙ってのファンへの喚起を促すメッセージなのではないかと筆者は推測した。


■稲垣吾郎さんのコメント全文

 「ファンの皆様、スタッフ関係者の皆様、この度はご心配ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ございません。今の状況で五人での活動は難しいと思い、辛い決断ではありますが『解散』という形を取らせて頂く事になりました。どうか僕達の意思をご理解頂けたらと思います。28年間本当にありがとうございました」

 冒頭の発言から、ファンや関係者に軸足が置かれている。そして「ご心配ご迷惑」という文面から、騒動後からの溝で関係者に本当に苦労を掛けたところを謝罪している。しかし、次の文面で「僕達の意思をご理解頂けたら」というあたりから、稲垣さん自身も解散派であったことが見て取れる。一方で「辛い決断ではありますが」という文面よりメンバーが一枚岩ではない、そして解散が良い決断では無かったという点が見て取れる。これはメンバーへの配慮とファンへの配慮が見て取れ、稲垣さんが解散派でありながらも、中居さんの調整に少し心動かされていなのではないかと想像する。

■草なぎ剛さんコメント全文
(なぎの字は文字化けするのでひらがなとなったことをご容赦ください)

 「この度僕たちSMAPは解散する道を選びました。いつも応援してくれたファンの皆様、支えてくれた関係者の皆様、グループ結成から28年間本当にありがとうございました。今後も精進して参りますので引き続き、温かく見守って頂けると嬉しく思います」

 冒頭のコメントは軸が明確のようで実は不明瞭なのである。「僕たち」が主語であり一見SMAPが主語のようであるが、前述のようにSMAPの意思は一枚岩ではなく、淡々と「道を選びました」と言ってしまうあたり、自分視点からであり、軸が自分にある。コメントにある言葉に、ネガティブな言葉はなく、「ありがとうございました。」「今後も精進」「引き続き、温かく見守って」というあたり、解散に対する後ろめたさはない。一方ネガティブな発言が全くないので、存続を図るメンバーに対しての思いがなく解散に対するリーダー中居さんの調整などをほとんど受け入れていないのではないかと筆者は思った。すると草なぎさんは積極的な解散論者であったのではないかと推測する。

■香取慎吾さんのコメント全文

 「ファンの皆様、そしてスタッフ関係者の皆様。僕らSMAPは解散いたします。応援して下さった沢山の方々に心より感謝申し上げます。そして突然のお知らせとなりましたこと、深くお詫び申し上げます」

 冒頭のコメントからファンやスタッフに向けた言葉のように見えるが、「解散いたします」という文面に自分の意思の強さを感じる。中居さんが「解散することを報告させて頂きます」と報告という言葉から結果的に解散となったと言う意図が見て取れるし、草なぎさんが「解散する道を選びました」という言葉から、それ以外の道もあったかもしれないけど、それを選んだという意図が見て取れる。しかし、香取さんから「解散いたします」という端的な表現は、「この道しかなかった」という強い意志を感じる。したがってその記述を見ると、ファンやスタッフの名を挙げながら自分を軸にした文章だと考える。
 そして今までの「心よりの感謝」を伝える一方、ネガティブな言葉は「突然のお知らせとなりましたこと、深くお詫び申し上げます」のところだけであり、ファンに対しての突然の報告に申し訳なく思うが、解散に対して申し訳なく思っていないという意味にもとれる。つまり強い思いを持って解散を主張していたとも見て取れる。この事からも、草なぎさんと同様に存続を図るメンバーに対しての思いがなく解散に対するリーダー中居さんの調整などをほとんど受け入れていないのではないかと筆者は思った。



 以上をまとめると、5人の解散に対する態度は以下のようになる。

存続派       解散派      強い解散派
木村さん<中居さん<稲垣さん<草なぎさん<香取さん


 室町時代の古文書を見ると、文章というのは一見宛先にわかるように書かれたものに見えるが、その実はその文書が流失したり他人に披露される可能性を考えて、誰に対しても通用する文面を優秀な武将ほど選択していると言える。また、日本人の性質上、直接的な表現は避けるのが通例ではあるが、1つの文章だけではわからなくても、他の文章と比較することで微妙な言い回しからその意図や人物の訴えを読み解くことができる。
 今回の5人の「解散に関するコメント」の全文はそれがわかりやすい比較になると思い自分なりの分析をしてみた。しかしこの分析はあくまで個人的な推測であり、SMAP個人の気持ちを正確に代弁しているかどうかは不明である。そして、また私もSMAP解散に心を痛める世代であることを通して、勝手にSMAP個人のコメントを分析したことをお許し願いたいと思う。

 ライオンハートの歌詞のように「失ったものはみんなみんな埋めてあげる」とはいかなかったのが残念でならない。


七尾幕府の人事

2016-08-09 02:26:00 | 歴史
幕府本拠地:七尾

征夷大将軍:畠山義綱
※畠山家が代々受け継ぐ

管領 :飯川光誠
 ※飯川家、冨樫家、神保家の三管領で交代制

政所執事 :長続連
 ※管領の補佐、財政管理

侍所執事 :富来綱盛
 ※参勤交代の管理、大名への命令・把握

問注所執事:遊佐続光
 ※訴訟裁判受付・判決・裁定見届け

社務所執事:温井景隆
 ※神社・寺院の管理・統括

大目付  :三宅綱賢
 ※大名の監視

交易処  :遊佐続光
 ※外国との貿易の管理、大名貿易の統制

関東管領 :畠山義慶
 ※将軍直轄領の関東の開発と次期将軍職

近畿管領 :佐脇綱盛
 ※将軍直轄領の京都・堺の統括管理。

<大名配置>
★蝦夷:安藤

★東北
二本松畠山(親藩)、蘆名、大崎

★関東
遊佐(譜代・相模)、宇都宮(下野)

★中部
北陸:神保(譜代・越中)、飯川(譜代・越前)
甲信越:長尾(越後)、温井(譜代・信濃)
六角(譜代・近江)

★近畿
河内畠山(親藩)
河内遊佐(譜代)
河内神保(譜代)
紀伊湯河(譜代)
若狭武田(若狭)

★中国


★四国
一条(土佐)
河野(伊予)

★九州
秋月(筑前)
伊東(日向)
相良(筑後)


旅行に行きたい~6~

2016-08-08 04:44:00 | 旅行・観光
2012年7月に「旅行に行きたい~5~」を挙げて以来久々に自らの旅行に行きたい場所をリストアップする。

★前回からの行きたいところ達成箇所
・金山城<群馬県>(2012年達成)
・彦根城<滋賀県>(2012年達成)
 ※そういえばブログに未アップ…
・七尾城<石川県>(2015年再訪)
・小田城+平沢官衙<茨城県>(2016年達成)
☆前回は挙げなかったが行った史跡
・足利学校<栃木県>(2012年達成)
・掛川城<静岡県>(2012年再訪)
・古河公方館<茨城県>(2012年再訪)
・浜松城<静岡県>(2012・2015年再訪)
・八王子城<東京都>(2012・2013・2015年再訪)
・金沢城<石川県>(2015年再訪)
・小田原城<神奈川県>(2016年再訪)

 あらためて見ると、仕事で忙しさのピークだった2013・2014年の訪問が少ない。特に2014年。やはりオフィシャルはプライベートに大きな影響をもたらしますね。では、2016年版現在、旅行に行きたい箇所ベスト16をご紹介。

★第1位:能登(石川県能登地方)★
 この中で行きたい城は、七尾城(七尾市)、松波城(能登町)、末吉城(志賀町)、富来城(志賀町)、西谷内城(七尾市)、御舘館(宝達志水町)、姫ヶ城(輪島市)
※2015年の七尾城訪問は、仕事のついでの余暇で行ったのみでわずか滞在時間半日。

★第2位:大内氏館(山口県山口市)★
やはりこの目で見たい大内氏の居館。

★第3位:勝瑞館(徳島県板野郡藍住町)★
復元が完了しているので、ぜひみたいが、四国は2007年にあらかた制覇したので、なかなか行く理由が見当たらない。

★第4位:堀越御所(静岡県伊豆の国市)★
史跡に関する看板が新しくなったようだ。でも資料館があるわけではないので、家族旅行のついでに行きたいな…と思っている。

★第5位:山陰(島根県・鳥取県)★
 月山富田城や竹田城、吉川元春館などに行きたいが、家族旅行としては怒られそうなラインナップ。家族で行くとすると、出雲大社、鳥取砂丘、石見銀山などを組み合わせか。大内氏館とセットで行って、フグを食べて帰るのもいいなあ。

★第6位:首里城(沖縄県那覇市)★
 クルマが新しくなったことで、飛行機で旅行に行くことに抵抗がなくなった。唯一の欠点は我が子どもたちが飛行機を怖がる自分の子ども時代と重なる光景…。

★第7位:鳥越城(石川県石川郡鳥越村)★
2003年に訪れた時にはその凄さがまだ理解できなかったので、再訪して学びなおしたい。

★第8位:北畠氏館跡庭園(三重県)★
夏に行くと蚊が凄いとか。北畠関連の専門的な資料館がないのも残念。

★第9位:増山城(富山県砺波市)
国指定史跡に指定され、2013年に麓に「増山陣屋」という休憩スポット兼案内所もできた。

★第10位:真壁城(茨城県桜川市)★
城としては立派なんだけど、復元が現状は中途半端すぎて…いつ頃どのような姿になっているんだろうか…

番外編として、「大友氏遺跡」(大分県大分市)まだ史跡が完全に整備されているわけではないが、九州復興を願っていきたいけど…。「武田氏館」(山梨県甲府市)にも行きたいが、中世の武田氏館の復元というより、武田氏滅亡後の豊臣秀吉政権下での復元というのがちょっと。