畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

深大寺城訪問記

2019-08-15 04:44:00 | 歴史

 今回は東京都調布市にある深大寺城を紹介します。



 深大寺とは733(天平5)年に浮岳山深大寺、法相宗として開創し、改組は満功上人という。その寺に隣接するのがこの「深大寺城」です。現在は国指定史跡となっており、発掘調査も行われていました。多摩川の跡である国分寺崖線をうまく使った標高50mの戦国前期に作られた平城である。1524(大永4)年に北条氏綱に太田道灌が築いた江戸城を奪われた事で、その奪還を目指す扇谷上杉氏の当主であった朝興の息子・朝定が家臣の難波田弾正に命じて1537(天文6)年に「深大寺のふるき郭」を改修することで再興された城と言われています。

 しかし、同年に北条氏綱は深大寺城をスルーして、扇谷上杉の本城である河越城に直接攻め込んだため、深大寺城の手勢は、逆に本城に後詰めする結果となった。その戦いに敗れて本城を追われた扇谷上杉氏は同時に深大寺城も放棄して、北条氏の手に渡ったようである。その後1546(天文15)年に有名な河越夜戦で北条氏康の勢力が大勝利すると、武蔵の支配権を確実にした北条氏に対抗する勢力が国内でなくなり、従って深大寺城の重要性も薄れ放棄されたと言う。


 前置きが長くなったが、深大寺城は1537年に扇谷上杉氏に再興されて数ヶ月で城を奪われており、北条氏の手に渡っても数十年の歴史で幕を閉じた城なのである。それを踏まえて実際の城を見ていきましょう。


 まず深大寺城を目当てに行く場合は、神代植物園本園の方の第1駐車場(植物多様性センター側)や第2駐車場からでは遠い。

第2駐車場から深大寺城のある「水生植物園」までは1kmもある。さらに第1駐車場からだとおよそ1.5kmほど。一番近い駐車場はこちら。

深大寺の門が近い方である。このタイムズが一番近いし安いのでお勧めです。私は第1駐車場に停めたので、とても長く歩きました・・・。



 この入口が目印です。神代植物園の本園は入場料がかかりますが、深大寺城を見るための「水生植物園」は無料ゾーンです。ただし、本園が休館日の場合はこちらも閉園となるのでご注意を。


 水生植物園の地図です。城の西部分が整備された城の部分で、東部分は水生植物園となっている。

この水生植物園は国分寺崖線からの湧き水を使って作られたものらしい。

ということは戦国時代でもここは湿地であり、当然深大寺城の主郭への攻めるには苦労する地形といえる(攻め手にとっては兵の足が取られて攻撃がうまく出来ない)。



 水生植物園入口から第2郭跡方面へ歩くと、早くもそれなりの斜面になっている。とっても写真の通りしっかり整備されているので、苦労はない。



 登った先には有名な「深大寺そば」のそば畑がありました。それだけ平坦な曲輪が第2郭にはあります。

 かなり広い面積がある第2郭。ここにある石のポツポツは、

掘立柱建物跡の2棟の柱穴を表しています。この第2郭では4棟の建物の柱穴跡が見つかっており、この城での郭の役割を考えると、武士の屋舎であったと考えられるそうです。礎石建物でないのは、中心人物の建物ではないこと。さらに深大寺城の歴史を考えた時、建物を豪華にするより、急いで敵勢力に対抗するような規模にすることが求められていたと考えられます。



 この第2郭は写真のように土塁で囲われています。現在ではそれほどの高さではないですが、戦国時代はもっと高さがあったことでしょう。



 こちらは第2郭と第1郭を結ぶ土橋です。

 空堀はかなり埋まっていましたが、こちらも往事はもっと深さがあったようです。



 第1郭に入った所に、「深大寺城」という石碑がありました。シャッターチャンスはここですね。

 この説明板に往事の地図と現代の公園の地図があります。これを見ると、深大寺城は第3郭があり、それは現在の深大寺となっている場所であることがわかります。



 第1郭はそんなに広くない。深大寺城の中で一番広い郭が、深大寺がある第3郭。次が第2郭。主郭である第1郭が一番狭い。


これは第1郭から湿地へ向かう虎口です。

虎口の奥は斜面になっており、説明看板によると、湿地まて高低差は13mもあります。
湿地帯から第1郭に上がる階段はこんな感じです。

結構急な階段です。これが往事はもっと急な斜面だったと思うと、平城にしては防御力もあるかもしれません。

 最初の前置きでも述べたように、深大寺城は扇谷上杉氏の手にあった期間はごく僅か。つまり大部分の改修は北条によるものと考えられます。しかも、本城である川越城は北条の手にあり、少しずつ深大寺城の重要性も薄れており、完全廃城になるまで10年。あまり生活感の感じられる施設は少ないのではないかと想定します。しかし、それにしてはなかなかお手軽に見れて見応えのある城跡です。城跡だけなら30分弱で見ることができます。

でも、それではもったいないので、ぜひお勧めしたいのは。
 
深大寺の参道にあるお店!

 深大寺で有名なのは、「深大寺そば」と「深大寺ビール」。さすがに、車の運転で飲むわけにいかないので、やはり楽しみはそば。この日は夏季限定商品の「冷やし坦々そば」を頂きました。食べるラー油で風味をました坦々に加え、そばのもっちりとした歯ごたえがとても美味でした。

そして・・・

甘酒!夏なので冷やし甘酒!健康に良いそうですね。

食べ歩きはやはり楽しい。これも大きなお寺さんが近くにあるので楽しめるんですね。

山中城訪問記~後編~

2019-08-14 04:44:00 | 歴史


山中城の訪問記後編。前回は山中城の生活拠点である南部を紹介したので、今回は防衛拠点としての役割であるバス停より北部を紹介します。




 バス停より北部の城郭部分は、「三の丸堀」から始まる。この堀は他の堀と違い、自然の谷を利用して作られたもので、堀の長さは180m、最大幅約30m、深さ約8mとかなりの規模である。この堀を利用する都合上、こちらが防御施設となったのであろう。



 三の丸の堀を進むと「田尻の池」に到達。この池は戦時には水がめとなっていたのであろう。三の丸の西に位置し、その周辺には馬屋もあったようだ。この池を東の道に行き上ると二の丸、西の道に行くと西の丸に行く。




この2枚の写真は、西の丸を囲む畝堀である。かなり大規模な堀で、完全に西の丸の周りを囲んでいる。北条氏が領国を守るためにとても大規模に整備した城であることがわかる。



 西の丸が写真奥、手前が西櫓である。かなりの高低差がある。しっかり整備されているとはいえ、かなりの急勾配。やはり運動靴でないと山城訪問は厳しい。



西櫓です。

かなり景色がきれいです。見晴らしもよい。ということは櫓としての機能もばっちりだったと言うこと。


 西櫓にあった「掘立柱建物」の平面展示。柱穴の方向や感覚が不ぞろいで、用途が不明であり、このような平面展示になっていると説明看板にあった。

 山中城全体の建物についての説明看板が西の丸にあった(上記写真)。西の丸では全面調査をしたが、建物遺構はなし。開墾の影響もあるが、あっても臨時の小屋程度かとみられ、「日常生活用具である炊事道具や椀類が出土しないので、寝小屋(根小屋)は他の曲輪にあったと考えられている。」とあった。となると、西櫓、元西櫓、西の丸以外の曲輪は全面的な発掘調査はされていないのであろうか。



 西の丸は、3400㎡の広大な曲輪である。山中城の西方防衛の拠点であり、北条にとってももっとも警戒する西からの侵攻に備えたものであろう。この曲輪の西端には見張台があった。この曲輪は全体に東に下降傾斜しており、雨水を先ほどの「田尻の池」へ自然にためる工夫があったといわれる。「自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。」と説明看板にあった。城跡と言うと、とかく防衛のことばかりが注目されがちだが、このような生活拠点としての役割や、経済統制としての役割など多彩な役割を考えたとき、現在の都市計画のようなち密さが見て取れて、とても楽しい。



 元西櫓から二の丸へ続く架橋。土塁も見て取れる。

 二の丸から本丸への架橋。本丸の藤棚が見える。本丸は、標高578mm、面積1740㎡。北には詰め所とも言える北の丸、西には「北条丸」とも言われる「二の丸」、南には兵糧庫という曲輪に囲まれており、まさに天守櫓と共に山中城中心としての役割を持つ。これほど連携された本丸を持つと言うことは、北条直轄で中央集権的に作られた国境の城と言える。



 こちらは天守櫓。あまり面積が広くはないが、城の中心であったのであろう。天守櫓は江戸時代のような大きなものがあったわけではなかろうが、戦国末期から安土桃山初期の城郭という性格がよく見て取れる。



 本丸から「北の丸」へ続く架橋。北の丸はそれほど広くない。北の丸は本丸からと、長い距離の帯曲輪で、西の丸まで続く。帯曲輪から侵入しようとすると、二の丸からの攻撃にさらされる。まさに防備が堅い城と言える。



 本丸の南、兵糧庫の南東の駒形諏訪神社を通って現道へ出る。そこから歩いて「田尻の池」からすぐ近くの「三の丸」へ。そこに遺構はとくに見られない。現道に近いので、滑り台や公民館的な物が立っていた。
 そしてこの三の丸には、山中城落城の際に亡くなった最後の城主であった松田氏や群馬県の箕輪城主・多米出羽守長定ら北条軍の墓に加え、豊臣軍の先鋒・一柳伊豆守直末らの墓碑もひっそりとたたずんでいる。1590(天正18)年3月に全国統一を目指す豊臣秀吉が圧倒的な大軍を率いてこの城を攻撃し、一日で落城したと言われている。
 写真で見ていたが、ここまで考えて作られた大規模な城が一日で落ちるとは、かなりの大軍であったのであろう。豊臣氏の権勢がいかに大きかったかを物語る城跡であった。


 さて、ここまで来てお分かりだろうと思うが、かなりの大規模な城にも関わらず石垣が存在しない。落城したのが1590(天正18)年で、ぎりぎりまで改修されていたこと。さらに豊臣が小田原城を攻めるために作らせた一夜城(石垣山)では総石垣であったことを考えると、北条ほどの規模の大名が石垣を用いるだけの財力がなかったとは考えられない。というと、関東の山城はやはり主流が土塁であったことがわかる。



山中城訪問記~前編~

2019-08-13 15:02:00 | 歴史

 今回の義綱城館訪問記は静岡県の西の端にある「山中城」です。と言っても私がここを訪れたのはもう約3年ほどの前の2016年11月。それまで写真をアップしなかったのは、写真が多すぎて整理ができなかったから…という言い訳に近いもの。では、ご紹介していきましょう。



 静岡県三島市にある山中城は東名高速三島ICから車で20分、観光地箱根からわずか30分ほどの距離にある。私は当初箱根観光のついでにちょっと見ようと思った程度で訪問した。そうしたら、ビックリするほど整備されていた城跡だった。駐車場もあり、ちょっとした休憩場所や飲食場所もあるので、歴史好きには簡単に訪問できる良スポットである。



 山中城は、駿河と相模の国境にある箱根旧街道の要所に立つ城で、北条氏が永禄年間(1558~1570)の間に西方防衛の拠点として築城したとされる。本来ならば甲相駿三国同盟によって、武田北条今川は領国を接する所は安心できる場所となるが、永禄年間の駿河と相模と言えば、桶狭間の戦いで今川氏が織田信長に敗れ、今川が徳川や武田の侵攻を受ける混沌としている時期である。その時期に建てられたのは、北条氏の焦りがあったことに他ならない。



 私が最初に降り立ったのはバス停があった付近。当初駐車場が狭いと思っていたが、ほかに広い駐車場があることがこの地図からわかる。

 さて、このバス停&休憩所を挟んで、山中城は大きく南北に分かれているのがわかる。主に生活拠点となっているのが南部であり、その平坦な場所を生かしていた立地である。それに対し、山という地形を生かして北部は防衛拠点となっている。
 この山中城は、生活拠点と防衛拠点がわかている典型的な山城と言える。

 ではまず生活拠点の南部から見ていく。

 写真をみたとおり、なだらかな丘陵となっている南部。「すり鉢曲輪」「御馬場跡」などがある。


 この写真を見ると土塁の形がよく見て取れる。三島市は1973(昭和48)年から全面発掘調査を行い、環境整備を行い史跡公園として公開している。そこで、北条末期の築城法が明らかになっている。



 これは南部の御馬場曲輪の北堀である。写真ではなかなか伝わらないが、生活拠点としてはなかなか高低差がある。私は最初このような土塁だけで喜んでいたが、もっと戦国山城の特徴を伝える整備がこの城ではされている。



南部の生活拠点の先端であるすり鉢曲輪からバス停付近の垈先出丸に至るまで続く、「一の堀」。箱根旧街道からの進出を警戒しているのは明らかである。この150mほどの堀の中に、17ヶ所の畝がある。この畝堀の見ごたえは歴史好きには十分である



 すり鉢曲輪の先端には「見張台」があったようだ。箱根旧街道を監視していたのであろう。発掘調査の結果、「堀底から見張台まで八めm以上もあり、武具をつけた敵がよじのぼることは不可能な状況を呈していた。」という説明文があり、発掘調査がしっかり行われていることがわかる。


 土塁からみた「すり鉢曲輪」。かなりの大きさであり、国境を守備する武士たちの生活拠点となっていたのであろう。どんな建物が建っていたのであろうか。そのような発掘調査もあるだろうが、この山中城は資料館がないので、発掘調査は説明看板に頼らざるを得ないのが残念。

さて、山中城の南部の最後の写真。

 一見低い土塁が組まれているように見えるが、説明看板をみて納得。これは「構築途中の曲輪跡」であると言う。「尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれ。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したのであろう。」発掘調査をこのようにしっかり行うと、遺構がない事もこのような事情だとわかる貴重な場所。永禄年間に作られた山中城。おそらく豊臣秀吉の侵攻に備えてもっと防備を強化しようと思ったのであろう。ここに文献的な歴史学と発掘調査結果がリンクしないとわからないことがある。
 七尾城も早く発掘調査しないかな…。

後編では山中城の北部を見ていきましょう。