一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。
さて、前回のブログで諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。
さてにこの庭園近くの上記写真真ん中にある草陰。これは庭園跡にある花壇跡だそうだ。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。朝倉氏が豊かな生活をしていたことが、よく見てとれる。
敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏にもこのようなものがあったのか?と想像するだけでも楽しい。そういえば、この義景館は2007年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。
戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、図面だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡資料館に模型がある。
この模型をみると、かなりいろいろな建物が詰まっていたことがわかる。朝倉氏の経済水準と文化水準を物語るには十分な資料である。
義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。
さて、越前朝倉氏一乗谷史跡を後にして朝倉氏の盟友にして、日本五大山城のひとつである浅井氏・小谷城を訪れる。