畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

越前朝倉氏一乗谷史跡~義景館~

2007-12-29 15:47:00 | 旅行・観光

 一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。



 さて、前回のブログで諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。



 さてにこの庭園近くの上記写真真ん中にある草陰。これは庭園跡にある花壇跡だそうだ。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。朝倉氏が豊かな生活をしていたことが、よく見てとれる。



 敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏にもこのようなものがあったのか?と想像するだけでも楽しい。そういえば、この義景館は2007年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。



 戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、図面だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡資料館に模型がある。

 この模型をみると、かなりいろいろな建物が詰まっていたことがわかる。朝倉氏の経済水準と文化水準を物語るには十分な資料である。



 義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。
 さて、越前朝倉氏一乗谷史跡を後にして朝倉氏の盟友にして、日本五大山城のひとつである浅井氏・小谷城を訪れる。

町並み復元~諏訪舘庭園

2007-12-27 22:36:58 | 旅行・観光

 町並み復元の最後には、医療機関とみられる医者宅跡があった。この跡では調剤器具や調剤した薬品の跡がみつかった。この医者は相当もうかったのであろうか。かなり宅も広かった。他の史跡でも中国の元の時代である『湯液本草』の写本が発見されるなど、医薬の知識も高い水準であったことが推測される。平和で大規模な一乗谷の町だからこそ、発展したといえよう。



 復元史跡の出口には、やはり定番のみやげ物屋&食べ物屋。武藤様と一緒に昼食に「越前朝倉そば」を食べる。武藤様曰く「やはりここは戦国そばでなければ!」。その通り、現地に来たら現地の物を食べよ。これ旅行の常識。お土産に朝倉戦国大名饅頭も購入した。



 腹ごしらえも済んだので、一乗谷川を渡り反対側の諏訪館庭園を目指す。



 諏訪館庭園跡の隣ではなにやらブルーのシートが。発掘中だ。一乗谷史跡の発掘調査が始まったのが1967年から。復元史跡が完成するなど、一応の成果をみせた30年たった現在でも発掘調査を行っている一乗谷。すばらしい。さすが福井県。七尾城跡と七尾市はいったい何をやっているのか。腹立たしくなる。腹立ちを抑えて再び発掘調査に目をやると、なにやら側溝のような石組みの跡が。ここにはどんな館が建っていたのだろう。興味が沸く。七尾城跡の大規模な発掘調査なら立会いたいな…。



 諏訪館庭園跡。ここは、朝倉氏5代当主・義景の夫人の小少将のために作った館であると言われる。この一乗谷史跡の中で一番大きい庭園だ。1967年に復元整備されて、1991年に導水路が整備されて水の流れる往時の景観が再現たという。朽木庭園もよかったが、これはまた規模大きく違うし、落差も大きく滝を表現したと考えられる水が落ちる風景がすばらしい。心なごむ。庭園跡もただ発掘するだけでなく、水の流れを復元して再現するという方法もあるなあと納得。近江京極氏の庭園である上平寺庭園もこのように復元すればいいのに…と思ったりする。
 それにしても、この一乗谷史跡を訪れて改めて室町・戦国時代における庭園造営について考えさせられた。それまでは、庭園=高い文化水準+高い経済力ということくらいにしか考えなかったが、実際の庭園跡に接し、この庭園はなんのために作られたのか、それが重要なのではないかと考えるようになった。例え庭園主が趣味で作ったとしても、多くの人にその庭園を見てもらいたいと考えるのが普通である。ならば、その庭園には多数の来客があったことが推測される。庭園だけ独立して存在するというのはありえないので、庭園の周辺の館には建物が存在し、その建物から見られることを意識して作庭が行われる。ということは客人はその建物のどこから入って来たのか、間取りを考えても楽しい。復元史跡や庭園跡を訪れるとまるで、戦国時代の人の息遣いが聞こえてくるかのような迫力がある。ここでもまた現地調査(フィールドワーク)の大切さを感じたのである。
 さて、次は越前朝倉氏一乗谷史跡のメインとなる場所。朝倉氏館に行く。
 

一条谷朝倉氏遺跡-町屋敷-

2007-12-22 20:48:21 | 旅行・観光

 中世史を語る上で忘れられがちな視点。それが庶民の力である。私も最初のころは、政治史だけで物事を捉えていて、それゆえに見落とすところが多々あった。政治は経済なくして考えられない。そしてその経済を支えているのは一般の庶民である。この一乗谷史跡の復元では、中世の町並みが体感できる貴重な場所だ。


 まずこの町並みをみて感心するのは、道路に石組みの側溝があること。武家屋敷に町屋敷にも各戸に井戸があり、上水と排水がよく考えられている町並みである。また、建物にある窓の突き上げ戸も、それに伴う金具などが発掘されており、当時実際にあった光景といえる。


 この屋敷は上記「染」の文字が書かれている店の中。大きな甕跡が何個も発掘されたことから、おそらく紺屋(染物屋)ではなかったかとされている。


 これは町屋敷にある商家の1つ。紺屋の写真と同じように土間が建物の結構な部分を占めるので、板の間となっている居住スペースは小さい。都市であるがゆえに家の狭さなのか、それともこの時代だからこそ、こんな広さなのかしれないが、ひょっとすると今も昔も狭い家に住む日本人の住宅事情はあまり変わらないのかもしれない。


 町屋敷の裏手にも小さなスペースがある。ここは厠(トイレ)などがあったり、小さな物置き場などがある。やはり当時も、限られたスペースで快適に暮らすために置く物や間取りを工夫したのであろう。


 この側溝の石は発掘された本物とのこと。本物を使わねば国の指定史跡とはならないらしい。室町時代の住民が歩いていた空間と同じ空間を平成時代に歩く。なんとも考え深いものである。また、大通りが直線でなく少し曲がっていたり、建物で直角な角があるのも戦乱の多い室町時代らしい。
 さて、次は川を渡って、諏訪館庭園跡の方へ行く。

一条谷朝倉氏遺跡-武家屋敷跡-

2007-12-21 00:06:13 | 旅行・観光

 復元武家屋敷の向かい側の武家屋敷に入る。あれっ?土壁の塀はあるのに建物がない。どうやら、この一帯は復元ではなく、平面展示されているようだ。


 だだっぴろい空間に、土盛などがある。ここが屋敷の敷地と敷地の境界線なんだろう。この空間は柱の跡や建物跡などが平面展示されている。発掘された場所に上にコンクリートなどで固めて屋敷の痕跡を示すものだ。
 ここで武藤様が「こんなに敷地が広いのに、なぜ建物の面積がせまいんだろう」という鋭い質問。これにはガイドスタッフが答えてくれた。「田畑などの土地改良工事の時に遺構が失われてしまった。だから、これだけ広大な土地なのに、遺構が発見されなかった。ただ、江戸時代の古地図に屋敷跡と書かれていることから、武家屋敷があったのは確かである」といっていた。
 一乗谷のような比較的良好に遺構が残っているとされる地域ですら遺構はこの状況。とすれば都市化が進んでいる関東や関西はもう望むべくもなしか。早く七尾城跡も発掘調査をしてもらいたいものである。


 上記写真は復元武家屋敷の隣側の屋敷。この武家屋敷は復元武家屋敷より敷地も広く建物も広い。表面展示もいいが、やっぱり立体感のある復元展示の方がいいなあ、なんて思ったりしながら次の町並み復元に行く。

一条谷朝倉氏遺跡-復元武家屋敷・町並み-

2007-12-16 21:57:16 | 旅行・観光

 いよいよ楽しみにしていた一乗谷朝倉氏遺跡-復元武家屋敷・町並み-である。入り口に行くとちょっと興奮気味になる私義綱。どんな世界がまっているのだろうか…。


 復元武家屋敷のメインストリート。石垣を含む土壁が雰囲気を感じさせる。周囲に高い建物もなく、本当に室町時代へタイムスリップしたかのような雰囲気である。


 いよいよ復元武家屋敷へ。広くもないがかといって狭くもない武士の屋敷である。


 まず入った武家屋敷。一乗谷の家々をみるとまず感心するのが井戸。どんな小さな家にも井戸がある。人間の生活の基本となる水が意識された計画的な町造りをしているんだなと感心。


 門を入って右側。便所があった。今の和式便器と同じように「金隠し」が設置されている。これは想像復元ではなく、金隠し自体が発掘されているのである。これも文献だけでなく発掘調査を見ないとわからないことだなあ、と現代と同じような景色のトイレをみてまた感心した。


 武家屋敷の主殿では武士の像が将棋をしている様子がみられた。将棋の駒も一乗谷から発掘されている。将棋から先の手を思考することを学んだのだろうか。また離れ座敷には茶道具もあった。七尾にも香道が盛んだったりしたので、発掘されれて復元屋敷ができればこんな感じになるのかなぁ?


 屋敷の台所では調理中であった。

 魚をさばいている。室町時代は、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになった時代である。この一乗谷遺跡でも包丁が発掘されている。儀式を重んじるこの時代、料理にも色々な作法があったようである。武藤様がこのさばき方をみて「室町時代の魚のさばき方ですね」と教えてくれた。このようなアドバイスは有難い。歴史好きの友人と来れて良かった!
 さて次は平面展示している周りの武家屋敷を覗きます。