畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

自分的香水元年in2009

2008-12-31 18:54:32 | 日記
 最近ちょっとずつ生活を質より量に転換してきている。例えばシャンプー。今まではとにかく一番安いものをスーパーで購入していたが、2003年くらいから「ビダルサスーン」を買うようになった。まだ「TSUBAKI」も出ていない頃なので高かった頃である。将来毛が少なくなると困るので、今から少しは高いものをという配慮だった。
 そして、来年(2009年)からチャレンジすること。香水だ。いよいよ年齢が来るべきところに来た。男性が中高年になると誰しも来る「加齢臭」というものも考えるべきかと思う。そこで、香水に手を出してみようと思った。初めて香水の店に行くと色々種類があってビックリ。今回選んだのはコレ。

 「カフェカフェアイス」30ml。お店で1980円で購入。メーカー名「カフェカフェ」。ブランド名「カフェカフェ」ってなめとんかい!ってな感じの名前ですが、どうしてどうして甘いいいにおい(妻にも確認してもらった)。あまりにおいが強いと不自然なので、最初はどんなものだろう?つけ方も色々あるみたいで、手首につけるという他に、空中に撒いてその下をくぐるなんて方法もあるらしい。香水っておもしろそう。

大日本帝国憲法の制度的限界

2008-12-29 07:53:24 | 歴史
27日からブログで「傀儡政権の存在意義」「日本はなぜ周辺諸国から信頼を得られないのか?」を考察した。今回は戦前日本の根幹であり国の最高法規について「大日本帝国憲法の制度的限界」と題して考察してみたい。ただ、あくまで推論であり、机上で考えただけの根拠に乏しいので論文ともいえぬ稚拙な文であることを始めにご了承いただきたい。

 明治以来、薩長土肥の連中が政治の中心を担っていたことは中学の教科書でも習うとおりである。一方で自由民権運動が起こり、藩閥政治にも限界が見え始めた。その折に1881年に端を発した「開拓使官有物払下事件」で国民世論が一挙に硬化したことにより、「国会開設の勅諭」が出され10年後の国会開設が決まった。そして、1889年に国の最高法規としての「大日本帝国憲法」が定められた。起草した伊藤博文らは、藩閥政治を維持するために超然主義(議会政治によらない政治)を掲げ、議会の力が弱く皇帝の力が強いプロイセン(ドイツ)の憲法を模範にした。その結果、制限選挙であり、衆議院のみ民選という民意が限定された帝国議会ができた。その上、帝国議会の地位は憲法5条で「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とされ、あくまで天皇の立法権を補助する地位に過ぎなかった。
 しかし、実際は12月27日の筆者ブログにあるように「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」状況であり、いわゆる「初期議会」と言われる1890年~1894年の時期に、自由党・立憲改進党に代表される民党と、政府側の吏党が激しく対立した。軍備拡張予算がなかなか通らず、天皇の皇室費削減するので予算を認めて欲しいという「天皇の建造詔勅」があって辛うじて認められたという危うい状況であった。つまり、憲法の規定とはうらはらに、帝国議会はある程度の力を発揮し得たのである。単純比較するするわけにはいかないが、現在のねじれ国会の状況と似ている。政府と議会が対立して政治が混乱する状況である。
 ただこの政府と帝国議会との対立も長くは続かなかった。日清戦争の勃発で協調ムードが醸成されたのである。戦争という危機的事態ゆえの協調とも言えるし、国民世論が民党より戦争勝利へと向いたのも原因であるし、政府と帝国議会の政治的妥協とも言える。ともあれ、政党は政府にただ反発するのではなく政府と妥協することにより政権担当を目指し、政府は政党を取り込むことにより政治の安定を目指したと言える(立憲政友会の成立がその好例と言える)。その結果、憲政党での政党内閣(隈板内閣)、原敬首相の本格的政党内閣、立憲政友会と立憲民政党のニ大政党制による「憲政の常道」と徐々に政党政治が成熟していった。
 しかし、この政党政治にはとてつもない弱点が存在した。政党政治をする上で政治のリーダーとなる「内閣」の地位が、大日本帝国憲法上では制度上政党政治と矛盾があったのである(当初超然内閣で藩閥政治を意図して作成された明治憲法考えると当然とも言えるのだが)。すなわち、12月27日にも筆者は次のように記した。

 明治憲法における内閣の地位は「内閣は、天皇の行為を輔弼(ほひつ=補助)する」と定められ、主権者たる天皇を補佐する地位しかない。さらに首相の地位は「同輩中の首席」でしかなく、軍の命令・指揮権がない(軍は統帥権=天皇の命しか受けない)ばかりか、国務大臣に対して罷免権・指揮命令権を持ないと、おおよそ大日本帝国の政治の中心といえる権力を持っていなかった。

 そして、さらに大きな矛盾点は、内閣の組閣の命令は日本の主権者である天皇大権に属するということである。制度として政党政治が規定されていないゆえに、非常事態などがあれば政党内閣の根拠となった「憲政の常道」という慣例はすぐに終焉する危険性をはらんでいた(実際、戦前の憲政の常道は1925年~1932年の8年間しか続かなかった)。そこで、生まれたのが「天皇機関説」という憲法学(憲法解釈)である。明治憲法の第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるが、その解釈は色々ある。天皇は国(憲法や帝国議会)を越える日本の主権者という「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」は天皇であっても憲法に制限される存在であるという。前者が近代国家にあっても専制君主的な外見的立憲主義の面を持つのに対して、後者は立憲君主制としての代議制(議会制民主主義)をある部分認めている点で大きく違う。この「天皇機関説」は大正デモクラシーにおいて国民にも政治界にも通説化していき、前述した政党政治である「憲政の常道」の根拠となったのである。
 その状況が変化していくのは、昭和初期になってからである。政府との妥協を重ねて腐敗する政党に国民が失望する。世界恐慌が起きて経済が疲弊する。満州事変を気に軍部が統帥権(軍は内閣に左右されず天皇に直接属する)を立てにとり勝手に戦争を始め支配地を広げる。閉塞した状況に国民は大きく失望していた(政党は国民の信頼を得なければならないのに政局に終始していた平成日本の状況とも似ている?)。そして、政党政治の土台である国民世論が政党から離れていってしまったのである。選挙で票を得て議席を得る政党にとって、国民世論を失うのはその存在を危うくする状況といえる。昭和初期の状況は政党政治に大きな隙が空いた状態と言える。その状況を利用して自己の権力拡大を図ったのが軍部である。その最たるものが1932年の五・一五事件である。政治リーダーである犬養首相を海軍の将校の一部が暗殺する事件である。犯人の将校たちに対する「助命嘆願運動」があったことを考えると、国民の政党に対する不信が限界に達していたであろうことが推察される。
 そして、国民から信を失った政党を抑えてこの難事にあたるには「挙国一致内閣」(危機を脱するために国を挙げて一丸となる内閣)を組閣すべきという立場から、次の組閣大命は海軍軍人である斉藤実が下ったのである。「憲政の常道」では暗殺など首相が倒れた場合同じ政党に組閣の大命が下るはずであるが、犬養が満州国の承認をしなかったことから陸軍が政友会の組閣大命を拒否したとされる。理由はともあれ、慣例としての「憲政の常道」も「政党政治」も破られた。憲法としての「政党政治」の規定がないからこそあっけない終焉だったのだ。そして、政党政治への揺れ戻しの動きもゆるかったといえる。そして、首相に支配されない「統帥権」という強い権力を持ち、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)を指名しなければ倒閣できるという権利(軍部大臣現役武官制が影響した)を用いて内閣の組閣・倒閣の権利を掌握し、満州事変での満州占領(満州国の成立)や日中戦争での南京陥落など、国民世論を軍の味方につけたことで、一気に軍は強大な政治権力となったのである。そして、「天皇機関説」をも軍は否定し、軍の権力のよりどころとなる統帥権をより強固なものとした。そして、文民統制を失った軍は戦争へと暴走していくのである。
 以上のように考えていくと、「大日本帝国憲法」はその国家の政治制度としての制度的限界を抱えていたと言える。すなわち、「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」ため、国の政治責任者(とその基盤)が一定化しない状況になってしまったのである。それゆえ、「天皇機関説」などの憲法解釈や「憲政の常道」などの慣例が国の政治をつくり、そして崩壊していったのである。1889年~1947年までの「大日本帝国憲法」時代に何度も戦争を起こしたのに対して、1947年~現在までの「日本国憲法」時代の60年以上にも渡って平和な時代が訪れたことも、「日本国憲法」は以前の憲法に比べ制度的優れたものであったと言えよう。

 ただ「日本国憲法」にも大きな懸念がある。筆者が考えるべき現憲法の懸念は2つ。1つ目は憲法9条の「憲法解釈的限界」。1950年の警察予備隊、1952年の保安隊、1954年の自衛隊と、政府は「平和主義=戦争放棄」の憲法解釈を時代とともに変えてきた。さらに、PKO協力法など常に憲法に対して合憲か違憲か国民世論は割れている(ここでその合憲か違憲かを論じるのは論点から外れるので論じない)。この時代に政府は憲法をうまいように解釈して乗り切ってきた。憲法解釈という安易な手法は前述したように、危機的事態で変節してしまう恐れがある。実際、憲法改正で最も大きな議論になるのは憲法9条の条文であり、憲法を揺るがす問題に発展する危険性が「憲法解釈」には存在するのである。2つ目は、現在の政党に対する信頼性である。現在国民の間に蔓延した政党不信と政治不信はとても根強い。これだけ根強い不信があるのに政党政治が続いているのは、「日本国憲法」が制度的に政党政治を規定しているからに他ならない。小泉首相(当時)が一時提唱した「首相公選制」に多くの国民世論が関心を寄せたのは、国民の政党に対する不信が限界に達しているのを示してはいないか。もし、日本に大きな危機が訪れれば、日本の政党政治は再び危機に陥るだろう。例えば、タイで起こったタクシン首相に対する軍事クーデターや、ロシアのプーチン大統領(当時・現首相)に見える強権政治の可能性である。いずれも日本でそういった状況にはならないのは、そこまで国民世論が逼迫していないという状況があるにせよ、より状況が悪化すれば政党政治はそれこそ「日本国憲法」という最高法規のみで「首の皮一枚がつながる」危うい政治状況になるかもしれない。戦前の苦い反省を考えると、現憲法下で平和な日本を取り戻すには、政党が国民の信頼を回復することが一番の対策と言える。
 日本の政治家は、信頼を取り戻すことができるのであろうか。それとも、戦前日本のような「挙国一致内閣」に逆戻りするのだろうか…。

戦後日本の戦争観

2008-12-28 20:57:27 | 歴史
 昨日のブログ「傀儡政権の存在意義」を考えたら、戦後日本の戦争観を考えるに至った。「日本はなぜ周辺諸国から信頼を得られないのか?」
 昨日のブログで日本の戦争責任者を考察したときに、筆者は「本来の主権者である天皇が主体的に統治しないために、国の政治の責任があいまいになっていたと言える。」という結論に至った。その結果日本戦後史にどのような影響を与えたのだろうか考えてみた。ただ、あくまで推論であり、机上で考えただけの根拠に乏しいので論文ともいえぬ稚拙な文であることを始めにご了承いただきたい。

 戦後日本は連合国軍総司令部(GHQ)の命令により「公職追放」が行われた。すなわち戦争責任者(戦争犯罪人や戦争協力者など)は、政府の職を追われたのである。また、極東軍事裁判(この裁判の正当性などの議論が大いにあるが、ここでは論点からずれるので論じない)により戦争責任者は文字通り裁かれたとも言える。
 しかし、マッカーサーからリッジウェイ司令官に代わった頃から、公職追放が緩和された。極東軍事裁判で裁かれた者も出所している者もいる。そして、岸信介が首相となるなど旧体制派の人物たちが復権したのである。また、財閥解体も徐々に緩和され、この時期以降日本の戦争責任は一層あいまいになったと言える。
 戦後初期の日本は、「戦争の反省に立つ」という姿勢から憲法改正で「平和主義=戦争放棄」が制定されるなど反戦の姿勢が重視された。しかしその一方旧体制側の復権が行われ、政治の中枢に戻ったために、日本は左右の思想が極端に混在するのようになったと筆者は推察する。例えば、戦後ドイツは徹底的にナチスそしてヒトラーを否定した。少しでもナチズムが台頭すると徹底的に押さえつけた。それが周辺諸国の信頼を得たとも考えられる。結果、ドイツは二度の大戦の原因ともなったのに現在軍が存在する。その一方、日本は「日本国憲法」で戦争放棄=軍備を持たないと謳ったことも一因であるが、自衛隊は現在でも「一般的な」軍であることを否定している。すなわち、周辺諸国が日本の再軍備=脅威と捉える動きがあるからである。戦後60年以上も戦争を全くしなかった日本は未だに周辺諸国の信頼を得られないのである。日本の周辺諸国はよく「日本は先の戦争を反省していない」と言う。ただ、日本は「日本国憲法」の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」という前文をみても、また1995年には行政権の長であり政治のリーダーの地位にある村山首相(当時)が通称「村山談話」とし「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」と、謝罪の意を示している。そして、ロシアや北朝鮮など一部の国を除いた国々と平和条約を締結し、賠償問題も話し合ってきた。
 であるならば、なぜ周辺諸国から日本はいまだに「日本は戦争を反省していない」と言われるのか。それは、ドイツ国民がほぼナチスを過ちと考えている(だろう)ことと比べ、日本人は考え方が割れているからなのではなかろうか。日本では現代でも、「戦争を反省する」という立場と「自虐史観である」という考え方が大きく対立していると思う(もちろん、日本は民主主義の国なので表現の自由はあるので、そういう人たちがいることは否定をしないが)。自衛隊の某幕僚長などの発言はその象徴だと思う。そして、この発言が先の戦争被害諸国の感情を逆なですることは確かだと思う。どんな理由のある戦争だとしても死者は必ずおり、被害者にとってはとても迷惑な話である。日本にとって先の戦争がどんな理由があったとしても、被害を与えた国には謝罪しなければならない。そして、もう一つ。日本もある側面では被害者の面を持つということである(言い方には気をつけねば誤解が生じるかもしれないが)。例えば、空襲で、沖縄戦で、原爆被害で、中国残留孤児で、シベリア抑留で…などなど。日本は敗戦国だからといって、戦勝国から謝罪を受けない理由にはならない(と思う)。戦争の勝者もまた謝罪が必要だと思う。そうすれば、戦争が少なくなるのではないかな…。
 「戦争の原因」を考えることは大切であるが、理由があるから謝罪しなくていいということにはならないと思う。「戦争の原則」として負けたから謝れ、勝ったら謝らなくてよい、というのも理不尽な話である。左とか右とかじゃなくて、もっと大きな論点で日本の歴史を考える必要があるのかな。戦争の責任者は誰だ?コイツが悪かったとか犯人探しすることも必要かもしれないが、それとは別にして日本に住む全員が戦争被害を被った国に謝罪は必要ではないのかな。そして、それを受けて戦勝国の人も戦争を被害をもたらした日本に謝ることが必要なのかな。それが終わったら、日本も周りの国もお互いを認めてよりよい関係が築けるのかな…。なんて思う。長々文章に書くことで、満州事変から始まる日本の先の戦争に対する一応自分なりの答えが見つけられた気がする。
 もっとも、朝鮮や満州国など日本が植民地にしており大きな被害を与え、しかも日本にそれほど大きな加害を加えなかった地域が日本に謝罪する必要があるのか?と考えると自分の論点にもまだ疑問の余地がある。「俺はお前(日本)から迷惑を大きくかけられたけど、お前(日本)には対して危害を加えてないから、一方的に謝れ」というスタンスでは、心のそこから通じ合うことはできない。だから、そういった地域であっても、日本がある面(原爆被害など)では被害者の側面を持っているという事実に共感をしてもらいたいと思う。
 あの戦争から60年以上たった今、戦争を生で語ることのできる人は減っている。戦争を経験していない者は、他人事として、短絡的に「誰が悪い、だから謝れ」という考え方になりがちである。もっと世の中を深く考えることこそが必要なのだろう。私はそのために何ができるだろうか…。ううん…重い課題だ…。

責任の所在と傀儡

2008-12-27 21:03:50 | 歴史
「傀儡政権の存在意義」を生涯の学習テーマにおいている私。2008年12月24日に放映された「ドラマ あの戦争はなんだったのか」をDVDに撮っておいてみて、色々な考えが深まった。
 ここ最近戦争系のドラマやドキュメンタリーを見るのがとっても嫌だった。昔のことを知ることはとても大切だと思うのだけど、とても暗い気持ちにさせられる内容が嫌だったから。
 しかし、「ドラマ あの戦争はなんだったのか」は久々にみたいと思った内容だった。というのも、私が中学生の時に感じた疑問があったから。それは、ドイツにヒトラー、イタリアにムッソリーニという独裁者がいるのに、同じ枢軸国の日本には独裁者がいないのはなぜか?中学生の私は「開戦時の首相が悪い」と東条英機が独裁者だと思っていた。しかし、高校になると、東条英機がそれほどカリスマ性がないこと、さらに首相辞任後も戦争が続いていたことを考えると、「軍部全体」が悪なのだと思った。
 大学生になると、「誰が悪と決め付けるのではなく、色々な複合要素を考える必要がある」と考えた。しかし、私の頭の中では「東条英機=悪」のイメージだった。今までも東条英機のテレビ番組や本などがでているが、左系の人の話も右系の情報も私はどこか納得できなかった。
 そして「ドラマ あの戦争はなんだったのか」。東条英機は戦争回避を模索していた。徳冨蘇峰が綴る東條の人物像「学なし胆なし…ただ忠君の士」というイメージはすごく納得ができる。そして私の学習テーマ「傀儡政権の存在意義」に通じるところがある。
 明治以来、戦争終結まで言うまでもなく、大日本帝国の主権者は天皇である。しかし、よくその歴史を紐解いてみると天皇が主体的に主権を行使しているとはとても思えない。むしろ「伊藤博文」「山県有朋」「大隈重信」「原敬」「加藤高明」「犬養毅」「近衛文麿」「東条英機」など日本の政治史は首相を中心に語られている。ただ、明治憲法における内閣の地位は「内閣は、天皇の行為を輔弼(ほひつ=補助)する」と定められ、主権者たる天皇を補佐する地位しかない。さらに首相の地位は「同輩中の首席」でしかなく、軍の命令・指揮権がない(軍は統帥権=天皇の命しか受けない)ばかりか、国務大臣に対して罷免権・指揮命令権を持ないと、おおよそ大日本帝国の政治の中心といえる権力を持っていなかった。にも関わらず日本の政治を中心に行うということは、その地位は常に不安定で、権力に明記されていない基盤を有しないと存在すら危ういという立場にあった。それゆえ、明治期には元老の力を借り、大正期になると貴族院の力を借り、昭和期になると軍の力を借りざるを得なかったのであろうか。とすると、ドラマにあった東條の苦悩もうなづけるものがある。昭和天皇の「日米外交で戦争を回避」という命を受けそれを実行しようと考えるが、軍部の力を抑えることができなかった、というものである。
 戦争の責任は誰にあるのか。憲法を条文を見れば「国の主権者たる天皇」に責任があるのはもちろんである。しかし前述したように天皇は実際には主権者たる権力を積極的に行使していない。その点では責任者は別にあると言える。であるとすれば誰が責任者か。「同輩中の主席」に過ぎない首相であるのか?軍部の横槍ですぐに倒閣されてしまう地位なのに?では軍部の責任者なのか?とすると陸軍大臣?海軍大臣?ただ、どちらの大臣も実際に軍を動かす地位ではない。では実際に軍を指揮する陸軍参謀総長?海軍軍令部総長?しかし、どちらもその責任は「陸軍単体」と「海軍単体」であり、日本全体に責任が及ぶわけではない。つまり、本来の主権者である天皇が主体的に統治しないために、国の政治の責任があいまいになっていたと言える。
 これに対し現代日本の形式上の最高権力者である天皇は、象徴の地位にあり、憲法上も全く国権を有しなくなった。そして首相は行政権の長となり、国務大臣の任命・罷免権を得、自衛隊の最高指令官の地位もある。まさに日本の政治の最高責任者である。政治の責任はすべて首相の責任につきる点で、責任の所在が憲法からも明確になっている。
 本題の「傀儡政権の存在意義」に上記がどう関わっているか?つまり「傀儡政権」を生み出せば責任の所在をあいまいにできる利点があるのではなかろうか。本来の責任者はNo.1の者であるが、実質の責任者は傀儡を影で操るNo.2にある。しかし、公的な責任はないので仮に失敗しても責任を逃れることができるのではないか。つまり「傀儡政権の存在意義」は政治が失敗した際に責任逃れを画策するリスク回避の面があったのではなかろうか。
 能登畠山家でも同じことが言える。1570年代、当主は畠山義慶であったが、実質は親織田派の長続連、親上杉派の遊佐続光、親一向一揆派の温井景隆が握っていた。複数の有力者がいると微妙なバランスがないと政権の維持ができない。路線対立などがあるとすぐに政権は瓦解する。それを回避するために、1572年畠山義慶は何者かに暗殺される。つまり政権崩壊の危機の責任を負わされたのである。そして実行犯はうやむやにされ、責任の追及は行われなかった。これも「傀儡政権の存在意義」なのだろう。