畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

菅谷館再々訪記

2020-02-17 04:44:00 | 歴史


今回は、1998(平成10)年、2008(平成20)年と訪問し、今回2020(令和2)年に3度目の訪問となった菅谷館の訪問記をお届けします。



3度目の訪問を決めた理由は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に行きたかったからです。

 2019(令和元)年11月30日~2020(令和2)年2月16日まで同博物館で行われていた企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」を見たかったからです。

この企画展の最終日である2020(令和2)年2月16日に訪問すると、企画展の展示を担当した学芸員の解説付きという特典付きの日でした。その企画展の様子は、別の機会に譲るとして、菅谷館の訪問記を書きます。


 菅谷館跡は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の駐車場と同じ位置にあります。たくさん車が駐車できるし、平地の居館なので見学しやすい史跡です。
 菅谷館の古文書上での初見は、1187(文治3)年の鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』のみに出てきます。それによると、畠山重忠が身に覚えの無い謀叛の疑いをかけられ、「武蔵国の菅谷館」に引きこもって身の潔白を訴えたというものです。1205(元久2)年にも「菅屋」という記述が見られ、菅谷のことかと思われます。また、1488(長享2)年に山内上杉と扇谷上杉の対立から「須賀谷原合戦」が起きたと言われ、その「須賀谷」は「菅谷」のことで、近くで合戦が行われたことが示されます。しかし、1187(文治3)年以降古文書で明確に城主が確定できる資料はないようです。しかし、ここで見ていくようにとても大きな館であるのは間違いありません。江戸時代に廃城になるために、図面が書き起こされますが、その図面と現在の形状が一致する珍しい城とも言われ、現代でも戦国時代の面影を色濃く残した城なのです。


では具体的に館を見ていきましょう。

 駐車場にある館の全体図です。このプレートを見ると、どこが見るべきポイントなのかわかいますね。

ちなみに駐車場の入口は、館の搦手門だったことがわかります。門の幅は7mです。



 では博物館がある「三ノ郭」から見ていきます。博物館の南の出入口を出ると、平面展示の掘立柱建物跡があります。

これは井戸跡だそうです。言われないとわからないですね。たんなる凹みだと思ってしまいます。三ノ郭では、建物跡が4棟、井戸跡が3ヶ所発掘調査で見つかったそうです。ちゃんと発掘調査がされているのが「三ノ郭」ですが、そこからは15世紀後半から16世紀前半の遺物が中心で、ここが鎌倉時代の遺構ではないだろうと思われます。


 館から東側に来ました(この地図は南が上です)。この入口は公園としての入口で当時からあるものでは無いようです。

「二ノ郭」に簡単に侵入されないための空堀の道です。最初は土塁もたいした高さじゃないなぁと思いましたが・・・

写真は右に行くと「二ノ郭」へ。奥は「本郭」です。本郭の堀と土塁はかなりの高低差があります。


「ニノ郭」から「本郭」への分岐点です。

「本郭」の虎口です。この虎口は堀と土塁で守られています。

左が「二ノ郭」で右は「本郭」です。本郭の方が土塁が高く守りが堅い事がわかります。


では本郭に入ります。

本郭には鎌倉時代の畠山重忠の館があったと考えられるようです。が、本郭の発掘調査はされていません。

この石標ですが、なんと書いているかよくわかりません。その理由は後ろを見ると「昭和廿一年」の文字が。おそらく1946(昭和21)年に菅谷館の城址として建てた石碑なのでしょう。


本郭にある南口の虎口です。

ここから土塁→堀→土塁となって、「本郭」から一段低い「南郭」へとつながる。


南郭は東西に長い。

この「南郭」から「本郭」と「二ノ郭」に行けるので、防御を固めなければいけない場所。それゆえ、一段低く周りから攻撃がしやすい地形になっている。

この「南郭」からつながる町道が台風で崩落したため通行止めになっていました。


ここから「二ノ郭」に行きます。

「二ノ郭」への土塁は二段になっていました。ここから波状攻撃をしかけるためでしょう。本郭への防御も含めてかなり防御が硬いですね。これは鎌倉時代の畠山重忠が作った館をかなり改変していると言えます。おそらく、1488(長享2)年にあった「須賀谷原合戦」から考えると、山内上杉と扇谷上杉のどちらかの拠点だったのであろうと考えられます。



現在は「二ノ郭」にいます。写真の右には「本郭」があります。やはり二ノ郭より一段高いです。そして空堀もあるのでかなりの高低差があります。

そしてこの堀には「出枡形土塁」があります。「二ノ郭」に対して。「本郭」が凸状に突き出た土塁になっています。これにより、「二ノ郭」に侵攻してきた敵を効果的に攻撃することができます。


二ノ郭と三ノ郭の間にある「畠山重忠」の像がある場所です。

「畠山重忠」の像は菅谷館での一番の見所です。お見逃し無く。2008(平成20)年に撮った写真は、夏だったので木々が全体的に生い茂っていて写真も暗かったのですが、今回は2月の訪問なので、木々が落葉していて、写真が明るいです。


像のあるところから「三ノ郭」方面を見ています。水堀があります。おそらくこれは公園としてため池にしたので、本来は空堀だったと思われます。もっとも雨が降っていたときには水も堀にたまったかもしれませんね。

ため池があるのはこの辺りです。


「三ノ郭」です。博物館があるのが「三ノ郭」なので戻ってきました。と言ってもかなり広いので、三ノ郭の西側部分です。この写真の郭も土塁に囲まれています。


「三ノ郭」から「西郭」を見ています。しかし、写真から「西郭」がうかがえません。それは西郭が一段低くなっていることと、低い土塁を配すことで、視線を遮る効果があるようです。このような土塁をこの館跡では「蔀土塁」(しとみどるい)と読んでいます。


 この「三ノ郭」と「西郭」は大きな堀があり、木橋が想定復元されています。ここが畠山重忠像に次ぐ見所です。そして三ノ郭側には門があったようです。正てん門(てんは常用漢字ではないので表示できず)という門もあったようです。かなり防御にすぐれた館です。

 横から見た木橋です。1998(平成10)年にはもうありましたが、段々木が劣化してきています。ただし橋の肝心な部分は木に似せてコンクリートになっているので、八王子城の木橋のように「劣化したから通行止め」なんてことにはならなそうです。


 これが「三ノ郭」と「西郭」の間の堀です。かなりの大きさです。大きな木が倒れています。おそらく2019(令和元)年の台風19号でかなり災害があったのでその影響かもしれません。
 全体的に12年前の2008(平成20)年に訪れた時より多くの樹木が切られていました。もちろん木々が無い方が全体的な地形が見れて良いのですが、「景観のために木々を切った」なら良いですが、「災害で木々が倒れて切らざるを得なくなった」としたら辛いですね。


「西郭」の南側を見ています。堀はありますが土塁がありません。やは侵入される側の郭は攻撃しやすさを考えて配置されているようです。かなりの構造をもった館です。



 「西郭」から外につながる道路です。私は3度目にもかかわらず駐車場の入口を間違ってしまい、館跡を大回りしてもう一度入りました。その時に、この西郭側の入口に駐車場がある事に気づきました。そして、文献によるとこの入口こそが「大手門」(表門)らしいです。駐車場の入口は搦手門(裏門)ですから、当然大手門もあるわけですが、まさかこんな小さな所が・・・。


では博物館に戻りましょう。

博物館の正面から入った所です。

ロビーでも企画展をやっており、この辺りの比企郡の展示をしていました。

そして菅谷館の模型もあります。ただこれは現代の姿の模型です。安土城や岐阜城でみたような復元CG模型があるといいなあと思います。


2008(平成20)年にこの博物館を訪れた時には、菅谷館のパンフレットなどはありませんでした。この12年で館跡の看板が新しくなり、2019(平成31)年3月には館跡のパンフレットも新刊されました。200円とお買い得です。ぜひ購入を!

そして3度目に訪れてわかったことがあります。
 1度目の訪問の1998(平成10)年は、菅谷館では畠山重忠と復元木橋くらいしか興味がなく「これくらいしか残ってないのか?」と思っていました。
 2度目の訪問の2008(平成20)年は、改めて見ると「堀や土塁がよく残っているだなあ」と中くらい感動しました。
 3度目の訪問の2020(令和2)年は、そもそも2回も菅谷館に行っているので行かないつもりでした。しかし、その姿を見て見て回りたくなってしまいました。「こんなに深い空堀があるのか!」「土塁はかなりの高さだな・・・他の城跡とも比べるとかなりよく残っているなあ。相当遺構がよく残されているんだなあ」と大感動。
 この差は何なのか?それは他の城を訪れたり、書籍で基礎知識を入れたりしたりする差。つまり「経験値」の差なのです。私の歴史の師匠である林光明様は「歴史は奥が深いから、どこまで極めても、自分はまだまだ知らないと気づかされ、やればやるほど謙虚になる。」とこたつ城主様におっしゃっていたと言っていました。私はこの言葉を直接聞いたわけではないのですが、今回3度目の菅谷館を訪問することにより、まさに「論より証拠」。22年前の私が如何に知識が無かったのか・・・と言うことを気づかされました。

 これからも歴史をもっともっと学び続けたいな・・・と訪問記をまとめていて思いました・・・という感想をもって、2020(令和2)年の3度目の菅谷館訪問記を閉じたいと思います。

岐阜城(稲葉山城)訪問記~金華山編~

2020-02-16 04:44:00 | 歴史


「岐阜城(稲葉山城)訪問記~信長居館編~」からの続きです。

 金華山ロープウェイを登ります。大人は往復1100円ですが、「信長居館編」でも書いたように、ホテルでの宿泊者割引券で1000円で購入することができました。

 ロープウェイは1機ではなく2機あるので、出発時間は麓も山頂も15分おきで。00分、15分、30分、45分となっています。結構頻繁に動いているので、観光の予定も立てやすいです。

到着間近から岐阜市内を望んでいます。高低差は255.43mとかなりのもの。所要時間は4分でした。

1機には最大定員が46名で、ガイドさんも乗り込むので安心です。私が訪れた2020(令和2)年は新型コロナウイルスの影響で、ガイドさんもマスクをしていました。


 ロープウェイの山頂駅を降りると、すぐにリス村があります。入園料が200円しますので私は入りませんでしたが、家族連れならいいかもしれませんね。



さていよいよ、復元天守へ向かう道のりです。

現在位置を地図で確認します。この地図で確認すると「煙硝蔵」は現在リス村になっていました。さらにこの看板によると「ルイスフロイスの記録では、山上には100人以上の家臣がいて、城は全て塗装をした屏風で飾られた、極めて豪華なものであったと伝えられています。」
 織田信長と言うと、安土城が有名で、山城から平山城へと移った安土桃山期の代表的な城郭ですが、この岐阜城は室町・戦国期の戦時に避難する山城と平時に居館として住む麓の館という従来的なものになっています。しかし、岐阜城は、平時でも山上の城に100人以上いる点で、完全に緊急としての山城ではないのだなと思いました。



 私はロープウェイでさっさと山頂付近まで来ましたが、こちらが「七曲り登山道」で徒歩で登る大手道だったところです。麓から距離は2.3kmほどで40分ほどかかりますが、ロープウェイ完成までは一番利用者が多かった道で、他の道に比べて傾斜が緩やかであり小学生でも登山が可能だったようです。


 模擬天守までは、このように整備された道が続きとても歩きやすいです。この先に一ノ門があるので、この冠木門は往年の門では無いようです。この道から山道は左に行ける急な階段があります。

 展望レストラン「岐阜城」に続いているようです。このレストランは「太鼓櫓」という曲輪を利用して作られているようで、往年はここからの道はなく、むしろ侵攻する敵をその太鼓櫓から撃退していたと思われます。
 時間がないのでレストランにはいきませんでしたが、かなり店内からのビューは良いようです。ちなみに人気のメニューはB級グルメの「信長・どて丼」(750円)で牛や豚のホルモンを地元の味噌で煮込んだものだそうです。

 この模擬冠木門がある所に、金華山の岩石に関する看板がありました。金華山の大部分は、土ではなくチャートと言われる硬い岩石からできており、城の石垣や巨石、庭園などにも使われます。チャートは放散中という珪酸質の硬い殻ををもったプランクトンの殻が海底に堆積してできった岩石で、2億年以上前に赤道宇付近の南半球でできたものがプレートの移動によって運ばれてきた。と看板に書かれています。このような岩だらけの山だからこそ、麓の館でも巨石を使うことができたのだと納得できました。


写真の右側に移っている巨石があるこの場所は「一ノ門」と言われます。

この門の展望レストランがある太鼓櫓の真下にあります。また、最初の地図によると、南には松田尾という曲輪があります。敵の侵攻を止めるには要な場所だったのでしょう。



 一ノ門を超えて二ノ門へ至る前、「伝馬場跡」があります。江戸時代の記録などに「馬場」と記録されているようですが、広い場所でもなく、多くの馬がつながれていた場所とは考えられません。おそらく、信長が麓の居館と山上の城を大手道を通って行き来する時に使われた馬をつなぎ止めた所ではないかと思います。




「堀切(ほりきり)」とも「切通(きりとおし)」と呼ばれる、「太鼓櫓」と「二ノ門」を分ける堀切です。往年は木橋がかかっていたと言われます。現代では堀切を通って反対側へ行くと、展望レストランへ上がる階段があります。



シートがかけられている・・・ということは・・・

やはり発掘調査中でした。

二ノ門へ続く階段の脇あたりです。麓もそうですがこちらでも発掘調査をしているとは、岐阜市進んでいますね。七尾市も頑張って欲しいです。もちろん七尾城の。


「伝二ノ門」へ来ました。

二ノ門を過ぎると、「下台所」と呼ばれる平坦部分です。

ここから模擬天守閣がよく見えます。ここで分かれ道となりますです。左の階段の道に行くと「天守台」「上台所」方面へ。右の道に行くと平坦な帯曲輪のような道に行きます。おそらく、登城する時は、天守台訪問へ。そして戻ってくる時には石垣が見られるので、帯曲輪方面から戻ると効率が良いと思います。この時点で9:50ほど。ロープウェイで上がってから15分ほどです。

階段を登ってしばらく歩くと

分かれ道。下に降りると「戦国時代の井戸」があるそうです。

後ろを振り向くと観測所のような建物が。おそらくこの建物があるのが「上台所」でしょう。

井戸方面の道は急ですが整備された階段でわずか20mなのでもちろん行きます。

行ってみると、「井戸」というよりは貯水池のようなものでした。先ほどの看板にもありますが、金華山はほとんどが岩石。そこでこの「井戸」は岩盤を四角形にくりぬいて作られました。その技術があるのがスゴイ。そして岩山でおよそ湧き水要素もないので、雨水をためたものだと看板には書いてありました。



さて井戸から戻ると、いよいよ模擬天守閣が大きく見えてきました。

かなりの高さなので、岐阜市街もキレイに見えます。そしてこの上台所から、「馬の背登山道」という道を通ると、1.1kmで徒歩40分で下山できます。しかし、看板には「途中断崖や難所が多く、大変危険です。体力に自信のない方は通行を控えてください。」とありました。

確かに急な階段ですね。しかし大桑城の「ゆったりコース」よりは安全かもしれません。


いよいよ天守台に到着。

金華山は岩石の山なので、様々な所に石垣が見られます。


 岐阜城にいつから天守閣があったのかはよくわかりません。しかし、最後の城主である織田信長の孫・秀信が1601(慶長6)年に岐阜城を廃城にし、加納城へ移る際に、天守閣・櫓・石垣などを移設したそうなので、どこかで天守があったようです。
 その後、1910(明治43)年に模擬天守がこの地に作られましたが、1943(昭和18)年に焼失し、1956(昭和31)年に現在の天守閣が再建されたそうです。

 模擬天守の中は、最近改装されたのかとてもキレイでした。1階が「武具の間」(刀剣などの展示)、2階が「城主の間」(歴代城主紹介)、3階が「信長公の間」(信長の展示)、4階が「望楼の間」(展望台)となっています。

信長が発した制札の複製などを展示しています。

出土された天目茶碗などの展示されいて、プチ資料館状態。

これは岐阜城の信長居館の復元CGです。

かなり壮大ですね。

これを見ていると、安土城の原型のようにも思えます。


 山上の岐阜城の模型です。現代の作りですね。きっとまだ往年の山上の岐阜城のを復元できるほど発掘調査でのデータが無いのでしょう。パンフレットによると、2018(平成30)年から「山上部における発掘調査を実施しています。城郭構造や石垣の残存状況の確認、絵図との対比などを行い、実態の解明を目指します。」とありました。頼りになりますね岐阜市!お願いしますよ七尾市!七尾城の発掘調査!


この木造は織田信長です。あまり信長をイメージできるような木像ではないですね。この木像は信長の一周忌のために作られ、安土城にあった総見寺の本堂に安置されていたそうです。


3階で展示されている、フロイスの日記を要約したものです。このように戦国の建物は、発掘調査だけでなく文献調査によってもその建物を復元することが大事になってきます。信長はたくさん文献があっていいなぁと思います。


続いて4階「望楼の間」です。

「上台所」の建物が見えます。アンテナみたいのがありますが、変電所?観測所?

岐阜市の街が一望できます。この高さからの景色は本当に綺麗です。これも信長が見た景色なのでしょう。たしかにこの景色を見たら、間違いなくここに城を建てたくなりますね。高い建物が好きな信長らしい。

私が昨晩泊まったホテルが写真の茶色の建物。「ホテルパーク」です。露天風呂からの「岐阜城ライトアップ」はとても歴史好きには乙な景色です。
 さてすべての展示が改装されてとても綺麗だったのですが、おそらく2017(平成29)年に「信長公450プロジェクト」(織田信長公岐阜入城・岐阜命名450年事業)で模様替えしたのではないかと思いました。

 ただし、1956(昭和31)年に作られた建物なので震度7の耐震不足があるらしく、耐震補強にはまだまだ時間がかかるようです。



 山上にはもう一つ資料館があります。「岐阜城資料館」です。模擬天守閣からほど近く。入場料も共通なので行ってみます。山上の天守閣周辺の曲輪はもうそれこそ大きい岩がごつごつ。


ここが天守台曲輪の端です。ここに裏門へ続く道がありました。

 「水手道」(通称:めい想の小径)と呼ばれるルートで、七曲登山道(大手道)に対する裏道として当時から使われていた道だそうです。写真をみてわかるようにかなりの急な道です。後で資料をみて思ったのですが、この地点からそう遠くないところに裏門があります。それは私が後で訪れることになる「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」で作られたチラシにありました。

やはり、資料館は先に訪れておかないと、見学し忘れがありますね。岐阜城の館や庭園が整備されたらいずれ再訪したいな・・・と思います。



 では裏門へのルート地点から、「岐阜城資料館」へ向かいます。ここからゴツゴツしている岩道を40m進んだ先です。


「岐阜城資料館」は、天守閣から東の一段下がった位置に36m×11mの曲輪にあります。米や塩・味噌を蓄えておく蔵と弓矢を備えた蔵が建っていたと考えられています。1975(昭和50)年に岐阜市民の寄付により、隅櫓風の資料館が作られたようです。では入りましょう。


トビラを開けると信長のお出迎えです。ただしあまり歴史的な資料はありませんでした。

これはトリックアートの写真スポットです。私は平日なので一人で来たのであまり意味はありませんでした。

あとあったのは、1992(平成4)年に放送されたNHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」のジオラマセットでした。ジオラマセットは上から撮るとガラスが反射してまったく見えなかったので、横から撮りました。このセットは3方位を違う城の門にしています。それぞれ門の櫓を比較してみてください。


那古野城大手門のセットです。

清洲城大手門のセットです。

岐阜城大手門のセットです。

段々、門の櫓が豪華になっているのがわかります。
その位しか見所はありませんでした。岐阜城模擬天守閣の展示が充実していただけに残念。


 では帰り道です。資料館から右の階段を上れば模擬天守閣方面(来た道を戻る)へ。左の平坦な道は、二ノ丸へ続く帯曲輪です。
 現在時間は10:20。あと10分で下りのロープウェイが出発。時間を短縮するのと、帯曲輪の石垣を見たいので、左の道を行きます。


 この上台所から天守台に至る通路の東側の石垣が岐阜城でもっとも良好に石垣が残存している場所です。

貯水用の井戸もありました。

この高い技術で積まれている石垣から、近世にあたる信長入城以後に作られたものと考えられています。

模擬天守閣との位置関係です。


平坦な道が続き、二ノ門まで早く着きます。

東坂ハイキングコースです。こちらは岐阜市街とは反対側の方面に行くコースです。岩戸という所へ通じているようです。



 ロープウェイ近くまで戻ってきました。時刻は10:25。ロープウェイ発車まで5分も余裕があります。以外と山上の城はせまいのですね。ロープウェイ山頂駅近くには、リス村の他に、キレイなトイレの他に「ろおぷ亭」という自販機コーナーがあって十分休めるスペースがあります。時間があれば、大手道のコースから登るのもよさそうですね。

今後の岐阜城の山上部の発掘調査にも期待大です。

岐阜城(稲葉山城)訪問記~信長居館編~

2020-02-15 04:44:00 | 歴史

 今回の城館訪問記は「岐阜城」です。訪れたいと思ったきっかけは、2020(令和2)年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(主人公明智光秀=長谷川博己主演)がきっかけです。それまで室町・戦国時代好きとしては、メジャースポットの城は観光対象から外していたのですが、大河ドラマというきっかけと、そろそろ手近で行きたい城(遺構がよく残っている城)も少なくなってきて、ではメジャーの城も行こうかと思って、今回「岐阜城(稲葉山城)」や「安土城」を訪問しました。が、結果はこの時期に訪問して大正解だった。と思います。特に岐阜城はそう思いました。そう思った理由は後述します。


 私は岐阜城ちかくのホテルパークに宿泊しました。すべての施設の営業が9:00からなので、私も8:30ほどに宿を出て8:40ほどに岐阜公園に到着。麓の史跡を15分もみてロープウェイに9:00に乗れればいいだろうと思っていました・・・がすべては誤算でした。


・・・見るべき史跡が多すぎる。むしろ、室町・戦国好きとって岐阜城は山城の方ではなく、麓の「信長公居館跡」の方が見所でした。


岐阜公園入口の門です。凜々しい門や石垣が見えますが、ここは史跡では無いようです。

 この銅像は、入口にあるものです。「若き日の織田信長銅像」と紹介されています。が、岐阜城を信長が手にしたのは1567(永禄10)年。信長は1534(天文3)年の生まれなので、もうこの時には30歳代半ば。とするならば「若き日の信長銅像」ではなく、その歳にふさわしい銅像にすれば良いと思いました。この銅像ならば「うつけ」と呼ばれていた時の頃ではないでしょうか?


 観光バスの駐車場の横に、武家屋敷風の建物。それが「総合案内所」です。まだ時間が8:49でオープンしていませんでしたので、後回しにします。



 この建物は「総合案内所」から徒歩30秒の「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」です。ロープウェイの時間の都合上で、一番最後にしてしまったが、ここが今回の私の一番の失敗点でした。展示内容については、一番最後に紹介します。


 ロープウェイの下にある「山内一豊と千代」の婚礼の地の石碑。まあ石碑が無いよりはある方が嬉しいです。で、私は岐阜の麓の「信長居館跡」はこのような石碑が数点あるばかりだと思っていました、しかし、事実はまったく異なっていました。


 その認識を始めたのが、この冠木門の周辺。「大河ドラマの明智の幟が立っているな。そしてこの門もきっとそれ風の再現だろうな・・・」と思っていました。

その認識を覆したのがこの看板でした。岐阜城の事が詳しく書いてあるのと・・・

「麓の居館も発掘調査やっているんだ。詳しくその当時の建物の様子なんかが今後わかるかな・・・」とちょっとワクワクし始めていました。そして・・・

 この復元CGに私は度肝抜かれました。よくみると、居館と奥の建物が渡り廊下でつながっている。さらに左側の庭園とも居館が渡り廊下でつながっている。そして左側の庭園では滝を見るための、空中桟橋のようなものが・・・。「これが本当に当時の建物のなのか?」「信長がまだ尾張と美濃を手に入れたこの時期に、こんな建物を作っていたのか?」ととても驚きました。現代の復元CGはかなり根拠が明確なので、この空中渡り廊下などは柱跡などが見つかっているはず・・・。と俄然興味がでてしまいました。この時点で8:55。ロープウェイは9:00から15分刻みで出発。9:00のは諦めて、9:15に乗ろうと考えました。

さて、この冠木門から信長居館跡に入ります。

当時の門はここから南にある「板垣退助遭難の地」の銅像ある位置だったようです。

居館の入口の正確な情報もかなり念入りに発掘調査で明らかになっているなあと思いました。ちなみに「板垣退助遭難」とは自由民権運動が全盛の際に斬りかかられて、死にそうになりながらも「板垣死すとも自由は死せず」と言った場所だそうです。でもここで死にはしませんでしたが。



 写真にもある「巨石列の通路」です。実物を見てもかなり石が大きいし、この枡形を使って塀や櫓があったのだと思いました。
 この看板を見て私が後悔したことにお気づきでしょうか?「解説番号②」とあります。そしてこのCG。そうです。私が時間の都合で最後に訪れることになった「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」でタブレットを貸し出してくれ、往年の信長居館の姿を解説付きで見られるのです。この時点でかなり後悔しました。が、仕方ない。9:15にロープウェイ乗れるように頑張らねば!


奥の建物がロープウェイ乗り場です。

石垣の下にある小さな石垣。この正体はなんでしょう?

この看板を見ると、斎藤時代の遺構だそうです。見つかった階段は、斎藤道三・義龍・龍興時代のものだそうで、その上には火災が起こった地層が発掘調査で見つかり、攻略の際に火災になったのだろうと推察されるそうです。発掘調査によって斎藤時代のものまでわかるとは・・・なんて見応えのある城だ。




 庭園跡だそうです。それを感じさせる展示は看板のみ。池跡や景石や池の上部にあった建物のの瓦で金箔のものが見つかったらしいです。できれば平面展示などもして欲しいな。で、この発掘調査は2017(平成29)年3月に行われたようです。つまりこの展示も最近されたと言えます。


 この場所にはこんな展示も。地面の中にも石垣が・・・。これが斎藤時代の石垣の跡ですね。信長の居館に使われた石に比べるとかなり小さいもので構成されています。時代の移り変わりや、権力者の指向性の差が見て取れます。


このシートの状況は、発掘調査の途中であると言うことでしょう。

発掘調査中の建物は信長居館の中心建物です。先ほどの庭園で見つかった金箔瓦はこの建物から落ちてきたのですね。発掘調査中と言っても、このCGで細かく建物が復元されているのを見ると、現在は発掘しているのではなく埋め戻して整備しているのでしょう。


位置関係はこんな感じ。

説明板を見ると・・・

 現状が同じです。これから埋め戻すのでしょう。埋め戻さずに、復元した建物を建てて欲しいな。


 発掘調査されていない箇所でも石がゴロゴロ。これは普段からある石だと思えません。発掘調査で得られた石をどかしているのでしょう。

今後の発掘調査も楽しみです。


この広い場所。ここが館の中心部分です。



 かつては千畳敷と呼ばれ、だだっ広い平坦地だと思われていたのでしょうが、信長の居館があったと思うと納得。しかも庭園がしっかりあったのですね。その居館の2階は・・・

濃姫の部屋と推定されているそうです。


居館中心建物から、奥を除くと、どうやらここも発掘調査が。

 これが私がビックリしたCG復元図にある空中廊下からつながる部屋。中心建物の2階からかなり高い位置にある廊下が奥座敷につながっている。その奥座敷は茶室であったようです。よくその様子を見ることはできませんが・・・。

 ロープウェイに乗った時に真下に見えます。かなり発掘調査をやっているようです。整備されたら、こちらもたぶん見学に行けるようになるんだと思います。あと何年後でしょうか?
 さてこの時点でもう9:15になってしまいました。ロープウェイに乗る時刻は9:30に変更します。ただ、それが9:45になるとこの後の計画が大幅に乱れます。なので、9:30乗車は死守したいと思います。


中心建物から写真に見える谷川を渡ります。

この谷川にかかる橋は、現在は写真に見える赤い橋が建っていますが、往年の姿は

このような屋根付きの空中廊下があったようです。そして、もう1つ不思議だったのが、1つ上の写真にもあった、水の流れている谷川ともうひとつ水の流れていない水路。

往年は中心建物があった所から滝が流れていて谷川につながっていたようです。

位置関係はこんな感じです。現在シートがかかっている場所が、滝だったようです。当時の水路をイメージできる絵がこちら。

現在はこんな感じになっています。

ロープウェイから見るとよくわかります。どうしてこのように水路を変えたのでしょうね?



谷川をわたった庭園地区です。ここは巨大な岩盤が目立つ地区です。

ここは高さ35mの岩盤から滝がかつて2本あったようです。私が行った時にも水が流れていましたが、これは「信長公居館庭園整備」に向けた再現のための実験だったようです。

ここが私が復元CGで驚いた2つ目

滝を眺めるための空中桟橋。この空中桟橋からの滝の眺め。さぞかし美しいことでしょう。濃姫もこの景色を見たと思うと考え深いです。この滝のある区画。現在は池も無い状態ですので、「庭園整備」の計画があると言うことで、できれば池の復元もして欲しいです。

そして、空中桟橋があった所の現在は

大正天皇即位を祝う御大典記念事業として、1917(大正6)年に建立された三重塔が建っています。天皇関連の建物が現在建っているならば、空中桟橋は復元できても、その横の建物の復元はできそうにないですね。


 さて、庭園も見終わって9:20。あとロープウェイ出発まで10分。この入口の旗は、NHK大河ドラマでもやっていましたが、斎藤道三の旗。演出がにくいです!
 当初の予定から30分遅れたので、チケット購入も考えて9:27には乗り場に着いていたい。そこで、走って「総合案内所」と「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」に行くことにしました。



 「総合案内所」の中はほとんどが休憩スペースです。歴史以外でも岐阜市関連の観光パンフレットがありました。まさに案内所ですね。

 さらにこの地区周辺の模型がありました。手前の川が長良川。左の山が金華山(稲葉山)。写真の中腹にある三重塔が大正天皇即位記念事業の場所です。やはり岐阜市の中心であるので、周辺はかなり開発されています。にも関わらず信長居館跡がこれほど状況よく遺構が残っているというのは全くもって奇跡です。

 次は「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」に行きます。「総合案内所」もそんなに見ることが無かったので、ここもきっと2・3分で見終わるだろうと思っていました。それが飛んでもない誤算に・・・。入ってみると、発掘調査の様子が建物の名前通りしっかりと展示されており、見応えが相当ある。ということで、1分で出てきて、ロープウェイで山城を見た後で行くことに急遽変更しました。

 ロープウェイまで戻ると、時刻は9:25。大人は往復1100円でしたが、ホテル宿泊者のサービス券を使うと団体扱い料金で10%で購入できました。
 まだ2・3分余裕があるので周囲を見て回ると・・・

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で斎藤道三役を演じている本木雅弘さんの人形が。恐ろしく似ております。最近の技術はスゴイ。そして明智光秀ではなく斎藤道三の人形という辺りが、やはり岐阜=稲葉山城のロープウェイでいいなあと思いました。

まあ、お土産ものは織田信長ものが多かったですが・・・。

のりば付近に、斎藤氏関連の古文書の複製や斎藤氏の歴史が展示されていて、小さな博物館のように楽しめました。2・3分では楽しめなかったので、ロープウェイを降りてからゆっくり楽しみました。

 では、私の行動した時間軸を曲げて、本当はロープウェイを降りてから行った「岐阜市歴史博物館」兼「麒麟がくるNHK大河ドラマ館」と「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」の様子をお伝えします。



この建物が「岐阜市歴史博物館」です。以前も行った方ならば「?」と思う方もいるかもしれません。手前にと右下にお土産物屋や食事処の仮設店舗が増設されています。訪れた日は平日でしたが、休日ともなるとかなりの人数が来るので、増設されたのでしょう。


 入口も増設されているようです。「麒麟がくる」で一色。入場券売り場も増設されています。私は旅行会社で手配した「入場券付きの宿泊コース」にしました。



 「岐阜市歴史博物館」が「大河ドラマ館」になっていた事は知っていましたが、まさか博物館常設展が大河ドラマ館と兼ねているとは思いませんでした。博物館のウリの一つに「楽市場の街並みを再現している」と言うので、行ってみたいと思っていましたが、一石二鳥でした。

 基本大河ドラマ館はほとんど写真不可です。ドラマシアターで大河ドラマのメイキング映像や、登場人物の紹介を衣装を交えて詳しく展示。稲葉山城のジオラマはかなり精巧に作られていたので、これはおそらく大河ドラマ館が終わっても、展示されると思います。



写真がブレしてしまっているのが残念ですが、これがウリの楽市場です。写真OKです。

結構緻密に再現されています。

魚屋は現代の魚屋のように並べて売っていたんですね。そして振り売り(行商)の人が魚屋に買い出しに来ています。

この市場にはドラマに出ている人もパネルがありました。一人で訪れたので写真を誰かに撮ってももらうことはできませんが、パネルの横に立って写真を撮るのもいいですね。

これは、楽市楽座の制札が出されている場面を再現したものですね。制札はしっかり複製されたものが飾られています。


 この場面は、稲葉山の斎藤道三の居館の主人の間を再現しています。大河ドラマ館のスタッフが写真を撮りますか?と行ってくれたので、実際に畳に座って写真も撮れます。

その後、おそらく博物館の常設展の内容である、所蔵品や古文書の展示がありました。


 最後に、出演者の写真がありました。左かわ土岐頼芸役の尾美としのりさん。土田御前(信長の母)役の檀れいさん。明智光秀役の長谷川博己さん。帰蝶(信長の正室)役の川口春奈さん。織田信長役の染谷将太さん。

 結構見所があります。まさか常設展と大河ドラマ館を一緒にしたとは思いませんでした。特別展は大河ドラマ館の入場料で入れるようです。今回は戦国時代のものではなかったので入場しませんでした。


 今回の「麒麟がくる」のNHK大河ドラマ館は6つあるそうです。私が行った「岐阜大河ドラマ館」。「ぎふ可児大河ドラマ館」「ぎふ恵那大河ドラマ館」「京都大河ドラマ館(亀岡)」「大津大河ドラマ館」「福知山大河ドラマ館」があるようです。展示内容も違うので、6つを巡る旅も面白いかもしれませんね。


 大河ドラマ館を見終わって、丁度12時くらいだったので、本当は昼食を食べたいのですが、時間もないので次に行ってしまいます。ただお店の名前が「織田信長」(たきやきなど)、「斎藤道三」(チキンなど)、「帰蝶」(戦国やきそばなど)、「明智光秀」(飛騨高山ラーメンなど)店名が工夫されていました。



最後に「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」を紹介します。

中はそんなに大きい部屋ではないですが、

発掘調査のCGを現地で見て解説が聞けるタブレットを無料で貸し出しがしてもらえます。入場料ももちろん無料!

岐阜城の裏門の研究結果など、近年の発掘調査の結果がここで紹介されています。

織田信長に関するものだけでなく、斎藤氏時代の石垣などの、信長居館にあった展示の詳しい内容も紹介されています。
切ぶり。
しかも、このパネルの内容はすべて無料のチラシに内容が書いてある親切ぶり!


CGだけでなく、模型で復元図を表しています。これ案内所の人が頑張ってくつったんだろうな!スゴイ。できれば、まだ発掘調査が未調査のところの内容がわかって付け加えてほしい。


この模型を見ると、中心建物は2棟あり、信長の建物と濃姫の建物が分かれているのが一目瞭然。最初は同じだと思っていました。


さらに出土品などもここで展示されています。本当に最新情報がつまった歴史好きが満足する案内所でした。

 ちなみに、ここのスタッフも素人ではなく、歴史が好きな方のようで、私が「ここまで館の様子が発掘調査などでわかったので、館復元の動きなどはないですか?」と聞くとすぐに「復元は明確な写真などが無いとなかなか動きが無いですからね。今の所、滝の復元などはあっても、館の復元などの動きは無いですね」と即答。

 まさに岐阜城をこの年に訪れて良かったなあと思いました。もっと庭園やら館が復元されたら、再訪したいです。

 では時間軸を戻して、山頂の城である「金華山編」へ。

苗木城訪問記

2020-02-14 04:44:00 | 歴史


今回の訪城館記は岐阜県中津川市にある「苗木城」です。

 この城を訪れた時間が16:05。城の麓にある「苗木城遠山資料館」の最終入場が16:30なので、城自体は約20分で往復する必要がある。しかし、最初に訪れたこの駐車場の場所から、苗木城跡まで650m、徒歩20分。往復40分・・・絶望的・・・かと思われた。しかしこの看板に「←同じ時間でいけます 険しい山道→」と書いてありました。とっさに「違う道がある」と思い、資料館方面に向かう、違う車道がありました。



ここが本丸に一番近い駐車場のようです。

こちらは、車道も歩道もよく整っていてとても見学がしやすいです。



駐車場から一番最初のクランクが後で購入した資料でわかりましたが「竹門」だった場所です。あまり聞いたことないネーミングでしたが、「出口のところ、竹で戸を据え建ててあるので、こう呼ぶ。門番もおらず、開け放しの門である。」開け放しの門とは聞いたことがない。おそらくそれは江戸時代の苗木城のことだと思います。平和な江戸時代のならあり得ると思うので。



 次に足軽長屋です。竹門からすぐ近くの場所にあり、足軽の登城の際にまずここに立ち寄って、それぞれの持ち場にいくための場所だったようです。またこの曲輪の南側に「龍王院」という領主遠山氏の祈祷所があった。

ここから望む本丸の家室がとてもキレイです。

そしてこんなCGも掲載されています。

 こんな建物があったのかと想像すると楽しいです。私はこのCGを歴史のTV番組でみて興味を持ち今回の訪問に至りました。


いよいよ、城内へ入ります。


風吹門です。大手門とも呼ばれていて城下と城内をつなぐ門でした。

かつてはこんな門があったようです。

苗木城遠山資料館に江戸時代の門が展示されていました。



 風吹門を入ると「三ノ丸」と呼ばれる場所です。西側には「大矢倉」があります。かなり大きい石がありますが、苗木城の特徴ですが、元からある石を使っているそうです。時間がなくてこちらは登りませんでしたが、本丸から除くとこんな感じです。

木が邪魔でしていますが・・・CG復元だとこんな感じです。

建物が密集していますね。




 こちらは工事中です。発掘調査かと思いましたが、おそらく崩落して安全対策をしているようです。だから重機があるのでしょう。この苗木城。やはり険しいところにあるんですね。戦国時代や江戸時代でも度々崩落などあったのでしょう。



 苗木城の大門です。城内で一番大きい門だったそうで、2階建てで、2階は物置に使われていたそうです。

 CGを見ると想像がつきやすいですね、ここからはCGを見ると、当時はかなりの坂道になっていて、その先に色々な建物が建っています。もちろん現代ではしっかりと安全な道が整備されて歩きやすいです。

では大門を超えると江戸時代は2つの門がありました。進行方向右側には「勘定所門」。


 この門を通ると、斜面を下がり、「二ノ丸」へ通じています。この「二ノ丸」の写真を見ると、たくさんの礎石があります。

 CG図を見ると多くの建物が建っています。ここが江戸時代の藩主が居住した場所になっていたそうです。やはり藩主の御殿なんですから当然礎石も多く頑丈に建てたのでしょう。


 そして、大門を超え、直進方向に斜面を上がると、本丸へ向かう「綿蔵門」があります。さらに斜面を登ってクランクを曲がると、また門があります。

本丸の坂の下にあったので、「坂下門」と言われるそうです。私の影が見えてますね。



「菱櫓門」です。本丸に一番近い門です。ここからいよいよ本丸へ。


 菱櫓門の北側にある「千石井戸」は、城内で一番高い場所にあるにも関わらず、枯れることがない井戸出会ったという。かなり高緯度にあって、これより上にはそんなに土地もないのだが、雨水などがたまる場所だったのだろうか・・・。




菱櫓門から進行方向右側にある「武器蔵」「具足蔵」。武器蔵はかなりの面積があるが、具足蔵は小さいと思っていたら、看板には「領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも呼ばれていた。」とあり、かなり重要な倉庫だったことがわかる。

 ここから見える天守がこんな感じ。元からある大きな石を使って天守の土台とし、清水寺のような足場を組んでいます。歴史のTV番組で初めてみた時は「すごいなぁ~」と思いました。戦国時代の技術って結構あるんだなぁと思ったのは、このような石垣に対して清水寺のような舞台を築いた場所は他にもあります。例えば七尾城の天守もそうです。岐阜城もそうです。最近の精巧なCGによって明らかになった建物の作り・・・ぜひ復元して欲しいなぁ。



いよいよ天守台に来ました。

看板によると、「二つの巨岩にまたがる形で作られ、三層となっていました。」


「3階の『天守』は巨岩の上にあり、9m×11mの大きさでした。この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用しました。」とあります。

この展望台の足場は往事を感じさせるもので、そうとう技術がいるものだったと思います。これは江戸時代のものでしょうか・・・。江戸時代は在国の時には1月、5月、9月の4ヶ月に一度大名がこの天守に登ったそうで、それ以外はカギをかけ入ることはできなかったようです。


 展望台からの眺めです。中津川市が一望できます。素晴らしい眺めでした。苗木城は、高森山にあり、かつては高森城とも言われたようです。この頂上の標高は432m。眼下に見える木曽川がしっかり見えて天然の堀になると共に、交通の要所にもなっています。
 ただし、私が訪れた時点ですでに16:20。あと10分で資料館の入場が制限される。走って城跡を降ります。余裕がない城館訪問です。


 急いで戻ろうと思った時に、この巨岩。この岩は「馬洗岩」と呼ばれるそうです。なんとなく名前の由来が想像できましたか?「馬洗岩の名の由来は、かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時、この岩の上に馬を載せ、米にて馬を洗い、水が豊富であるかのように敵を欺いたことから付けられたといわれている。」と看板に説明がありました。この伝説七尾城にもあるのです。こういう伝説って日本の至るところにあるようです。郷土史を研究してその地元だけを研究していると、その伝説だけをとって「すごいだろ!」となりますが、きっとこの手の伝説は江戸時代に人々の噂から作られたものでしょう。なにせ、苗木城は千石井戸があるはずなので、どんなに日照りでも井戸が枯れないはずなので、伝説に矛盾が生じます。
 なんて言うのはあとで考えたことで、とりあえず写真を撮ってすぐに下山します。駐車場まで走って戻って急いで車を飛ばして・・・。



 着きました。時間は16:27。入場制限まであと3分。ギリギリの到着です。入館するときに「城は登ってこられました?丁度西日がキレイだったでしょう?」と言われましたが、夕焼けを見る余裕もなく・・・。



 年間15万人ですって・・・いいなあ。2018(平成30)年度の七尾城史資料館の入館者の実績は年間で7670人。七尾市の関連施設の中では一番入場者が多いものの、苗木城の15万人には遠く及ばない・・・。もちろん城の入場者数と資料館の入場者数では単純比較できないかもしれないが・・・もうちょっと七尾市は観光誘致に力を注いでもらいたいと思ってしまう。



資料館にはたくさんの参考文献が置いてあります。

所蔵品などの写真撮影は不可ですが、この模型は写真OK。これは太っ腹!

江戸時代で平和な時代なので、城にも建物が満載。苗木藩は所領わずか1万石。あまり経済力の無い苗木藩でも平和な時代だからこそ、少しずつ建物を増設できたのではないか?と思います。



この復元CGはかなり迫力があります。

こういう資料館での古い感じのVTRはあまり見るのが面倒になってしまいますが、ドローンなどによる迫力ある映像のあるVTRだとつい見入ってしまいます。そっか、やはり全国の資料館も展示替えしないと歴史ファンも飽きちゃうかなと思いました。ぜひ復元CGを!




大桑城訪問記

2020-02-13 04:44:00 | 歴史


 2020(令和2)年に始まったNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。主人公は明智光秀(長谷川博己主演)で、岐阜県の戦国系観光地がにわかに盛り上がっています。私も今回の大河ドラマは関心があるので、個人旅行で「NHK大河ドラマ館」と岐阜城に2020(令和2)年の2月に訪問した。そのついでにどこか岐阜県で訪問できる城がないかな…と思っていたところ、大河ドラマ館の観光案内所で、「美濃国守護土岐氏 最後の居館 大桑城(おおがじょう)」というパンフレットが目に付いた。岐阜市から車で45分くらいの岐阜県山県市なので、突然訪問したくなり突如予定に組み込んだ。
 その理由は、義綱はマイナーな歴史人物が好き!特に「傀儡」が生涯の研究テーマ。そのため、斎藤道三に担がれた美濃守護「土岐頼芸」は昔から気になっている人物の一人でした。


 まず最初に訪れたのがここ。

岐阜県山県市にある「古田紹欽記念館」。古田紹欽は1911(明治44)年に岐阜県山県市で生まれた哲学者。その方に興味があるのではなく、私が興味を持ったのはこれ。

「明智光秀ゆかりの地山県市 古田紹欽記念館特別企画展 今、ときが動き出す~土岐鷹から麒麟へ~」。2019(令和元)年11月1日~2020(令和2)年4月5日まで行われていた企画展です。

 では土岐氏の説明を簡単に。土岐氏は清和源氏の流れをくむ美濃の地元武士。室町時代には足利尊氏の信を受け、美濃・尾張・伊勢の3ヶ国の守護になったことも。その後戦国時代まで美濃国守護であり続けました。
 しかし、1525(大永5)年頃から斎藤道三の父が土岐家内で台頭し始め、土岐氏の家中で成り上がっていきます。そんな中、1532(天文元)年に守護・土岐頼武が枝広館に守護館を置くも、水害のため1535(天文4)年にこの山県市の大桑城を整備し守護所を移した。土岐氏は越前朝倉氏でとても賑わっていた一乗谷を模範にして大桑城の城下町を整備し、大桑城の周辺は町人で賑わっていたと言われている。
 しかし、翌1536(天文5)年に斎藤道三も関わる土岐家内紛により土岐頼芸が守護となり、大桑城を舞台に斎藤道三の国盗り物語が進行していきます。歴代の土岐氏は鷹をこよなく愛していた。武士にとって鷹は勇猛の象徴とされており、土岐氏も鷹狩りなどの目的で所有していたとみられ、そのうち当主達が水墨画で鷹を描いていた。特に最後の当主・土岐頼芸は見事な鷹の描き手として有名で、「土岐の鷹」の名で後世まで珍重されたと言います。

 その土岐の鷹をこの目で見るために「古田紹欽記念館特別企画展」に行きました。残念ながら記念館は撮影不可だったので、鷹の絵を掲載することはできませんでした。鷹の絵は勇敢と聞いていたのですが、土岐頼芸の生涯を知っているので、記念館で見えた鷹は少し寂しそうに私には見えました。
 そして、その最後の当主がどんな場所でどんな生活をしていたかを知りたくて大桑城に行きたいと思ったのです。


 記念館から車でさらに25分。大桑城がカーナビに出ない場合は「県立幸報苑」(デイサービス施設)を目印に行けば間違いありません。そこを目印に行くと、

大桑城跡2.5kmの看板が見えました。また、大河ドラマの関係で「明智光秀」や「土岐氏最後館 大桑城」などの幟がたくさん目に入りますので、2020(令和2)年では迷わずに行けると思います(大河ドラマが終わると保証はないです)。

そして「県立幸報苑」近くまで来ると最初の大桑城スポットが見えます。

写真に見えるのが「四国堀」です。

 この堀は大桑城下を守るため作られた深さ5m。長さ約100mに渡る空堀で、山県市の指定史跡となっている。この堀の名称である「四国」とは、地名ではなく、尾張・伊勢・越前・近江の4ヶ国の加勢を借りて土岐頼芸が掘らせたことから由来しています。他国の加勢を受けたということは、その時点で土岐頼芸が斎藤道三と対立しているということを表しています。周辺は畑地が多いので、ぜひすべての堀を発掘調査で解明してくれれば良いのですが…。


四国堀からまっすぐにいくと、大桑城のパンフレットにも掲載されている

大型観光バスも駐車できる無料駐車場があります。NHK大河ドラマの為に整備されたようです。この少し先に左右の分かれ道があり、

 大桑城の「古城山登城口(けんきゃくコース)」の入口にたどり着きます。このコースは山頂まで2.1kmで徒歩で最大90分。「ルートの一部に傾斜の急なところがある、距離もあることから体力の自信のある方におすすめです。」というコースです。私はこの後も城を巡りたいので、楽なコースを選びます。

 このコースを右に行くと「はじかみ林道」という車道があり、車で10分ほどで「古城山登城口(ゆったりコース)」の入口駐車場まで行ける。このコースは山頂まで750mで徒歩最大30分。「ルートの大半は緩やかで、距離も長くないことから、古城山山頂からの雄大な眺めを楽しみたい人におすすめです。」とパンフレットにあります。



 駐車場に着きました。看板があるので、場所も間違いなく「ゆったりコース」入口のようです。しかし、入口からゆったりとは行かないほどの急斜面が待ち構えています。
「これ本当にゆったりコースなのか?」という疑問はこのあと私を苦しめることになります。



急な階段を抜けると「パラグライダー離陸場」に着きました。

急な階段のためまあまあ駐車場から高い位置に来ましたが、元々高い所が好きな私は「ここからパラグライダーとか楽しそうだな!」今度はパラグライダーしに来たい!」と思いました。その一方で、

先の道は不安がありました。その予感は的中。



かなり険しい山道が続きます。途中までは階段も整備されていたのですが、角度も急で体力も削られていました。そして途中からはその階段もなくなり、あるのは新品のロープの手すり。きっと大河ドラマに合わせて整備したのでしょうが、険しすぎます。もはやゆったりコースではありません。しかもまだ城跡ではなく単なる山道なのでテンションも上がりません。普段はデジカメを片手に持ちながら歩くのですが、今回は両手がフリーでないと足が滑り谷へ滑落します。危険です。



「伝猿馬場」という場所に出ました。ちょっと城らしいところでテンションが上がりました。

 この辺りは所々に石がむき出してかなり危ないです。石垣などを作るにはむいているかもしれません。そういう意味では、安土城も観音寺城も岐阜城も石がかなり出る山だったので石垣を作りやすいのかもしれません。手すり代わりのロープもないので、本当にここが城あとなのか心配になりました。

平坦な曲輪に出ると、「下 切井戸」という看板が見えた。みるからに険しい道のりだったが、ここまでに「もうこんな険し山城は年齢が上がったら見れないかも…」と思って切井戸を見学に挑戦しました…が、かなりの急斜面を下ってもたどり着かない。あとで城のパンフレットを見ると「急斜面にあるため、訪れる際はご注意ください。」と書いてある。途中で諦めて引き返そうとするとこの斜面。





景色はかなり良いですが、本当に一瞬デジカメを出してまた懐にしまいまた両手フリーにするの繰り返し。

そしてまた斜面。




多少広い曲輪にでました。ここは「台所」とありますが、こんなところで料理できたでしょうかね?



「帯曲輪」とありますが、その上にある曲輪もかなり細いので、守りを固めることはできるんでしょうか?



ここは大桑城で一番テンションがあがった箇所。帯曲輪の奥におそらく番所から上がってくる敵を防ぐように石垣を配していた箇所です。




山頂部である「伝天守台」に行く道がまた険しい。岩はゴロゴロ。斜面も厳しい…。

唯一の救いは、天守台にある模擬天守を見れること。ここが間違いなく大桑城であることがわかる。



やっとたどり着きました天守台。ここには古めかしい「大桑城址」の石碑があり立派です。また古城山を守る小さいながらも神社があります。ここまで登山口から35分ほど。かなり体力も消耗しています。神社にお願いすることは「怪我無く下山させて欲しい」と願いしまた。


天守台からもうちょっと登った所にある模擬天守。この天守は1988(昭和63)年に立てられた高さ3mのもの。もちろん戦国時代にはこのような天守がここには無かったが、何もないよりこのような天守があると険しい道を登ったご褒美感がある。

この模擬天守の写真を間近で撮りたくて最後登りましたが、写真のように、模擬天守を見渡せるように木々が切られ眺めの良い景色が広がっています。その分、ここに手すりなども設置できないので、万が一滑って落ちたら大怪我するなあと思いました。


模擬天守の背後には、古城山(別名:金鶏山)の407.5mの頂上の看板が立っていました。ご褒美感はありますが、あの急斜面を下ることを考えると…。

 私が訪れたのは平日でしたが、一組の夫婦が通り過ぎました。この城で出会ったのはこの夫婦2組だけ…。この城をゆったりコースでも60歳台以上の方が登るのは現状は厳しいと思います。また、土岐氏も普段からこの山頂に館を築いていたとは到底思えません。

 大桑城下町を一乗谷のように繁栄させたとあるので、一乗谷や八王子城などと同じで、普段は麓の居館で過ごし、この山頂の城は緊急避難用だったと思われます。
 そういえば、古田紹欽記念館の特別展示で大桑城の出土品の展示で天目茶碗とか出土していましたが、これは古城山から出土したのか、麓の城下町から出土したのかそれも知りたいなと思いました。ぜひ今後は、四国堀を中心に町の発掘調査を進めて欲しいです。