畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

七尾城の活性化提言2

2009-08-19 19:47:00 | 歴史
 さて、前回は「七尾城の活性化提言1」で、七尾城史資料館で売られるお土産としての「七尾城 通行手形」の新タイプの提案を行いました。今回は第2段です。

 お菓子系のお土産というのは、置物系お土産に比べて消化されるという利点があります。つまり、食べて無くなるということです。自分のお土産物なら、置物でも自分のセンスで選んだので構わないですが、友人など他人に送る土産物なら、自分(もらう側)のセンスで選べない置物系土産は、もらっても困ることがよくあります。そこで、やはり、七尾城でも食べ物系のお土産物を開発するというのは、七尾観光の振興に絶対必要なものだと思うのです。

 そこで、まず七尾以外の観光地のお土産物の例を取り上げてみましょう。後北条氏の拠点として有名な小田原城にはお土産として「小田原お城饅頭」があります。観光地=○○饅頭というお土産の定番です。

 では、「七尾お城饅頭」の開発はどうかというと、それも悪くないかもしれませんが、私はあまり賛成できません。その理由は、「饅頭はナマモノなので賞味期限が早い」という点です。
・商品の回転が早くないと、在庫処分の費用がかかってしまう。
・「かなり多くの観光客が見込め購入者が多くなるか、お土産物としての認知度が高く、かなりの確率で購入してもらう」という条件が必要になります。

 こう考えると、これから「七尾城のお菓子系土産を開発する」というコンセプトには当てはまりません(つまり、新商品ゆえに商品の認知度が低い)。ということで、新商品開発では、賞味期限が長く、在庫を抱えても長く販売できるので生産調整ができるような商品が望ましいと言える。つまり、商品に水分ができるだけ少ない「乾き物」系の食品が望ましいのではないか。すると候補は、「七尾城山クッキー」「七尾城ゴーフレット」などはどうだろうか。

たいした画力も無い私なので、たいしたこと無い画像でスマソ。
七尾城をより魅力的にする新商品の開発期待しています。


七尾城の活性化提言1

2009-08-18 19:04:00 | 能登の活性化提言


能登や七尾の現在を批評して、未来を悲観するだけでは前進しない。そこで、自分なりに能登や七尾の活性化に関する提言をしていきたいと思います。まとまって七尾城の文化財課に提言メールを出せればいいなあと思っています。

 今回は、「七尾城の活性化提言」として七尾城史資料館と回顧館・飯田家での七尾城に関するお土産について考えたいと思います。
 私はもう5回ほど七尾城史資料館を訪れている猛烈なリピータです。しかしリピーターするほど情報が更新されるわけもなく、私自身「七尾城好きとして資料館にお金を落とさなければ」という半義務感から訪れているという現状もある。私のような物好きが5回も訪れたからこそわかる、七尾城史資料館の欠点は「お土産や刊行物で売り上げをまかなおうとする視点の欠如」である。
 まず上記写真を見ると「七尾城 通行手形 城主・畠山一清」とある。これは回顧館・飯田家で私が買ったお土産である。もはや買った年も、値段も覚えていない。がしかし、不思議なことに回顧館・飯田家のおみやげ物は毎回品物が変わる。これはけっして消費者ニーズと最新のトレンドを意識して品物を変化させているのではなく、私には毎回その時になんとなく品物を作り、品切れになったら違う商品を終了というような気がする。この写真にある通行手形も、木を切って、焼き型で熱で文字を焦がして、ストラップをつけただけのカンタンな仕上がり(と言っても木材加工の素人には面倒くさいが)のものである。

 少なくとも上記くらいしないと、おみやげ物としてはあまり購買意欲がわかないのではないだろうか(お土産の購入トレンドはその顧客の価値観によって大きく違うので一概には言えないが)。また、「七尾城 通行手形」は、その城主にもこだわってほしい。「中世能登で旅人の交通の安全を保障し得る存在」と言えばそれは「能登守護」に他ならない。とすれば、やはり城主は畠山氏の末裔として昭和に生きた畠山一清氏ではなく、やはり畠山氏で一番名君と言われた「畠山義総」である方が史実に近いと言えないか?

 さらにデザインにもこだわりたい。書く文字は「七尾城 通行手形 能登守護・畠山義総」とする。すると、まず観光客は、「七尾城のお土産」として購入するわけなので、「七尾城」という文字が目立たなくては意味がない。そして、「能登守護・畠山義総」は京都市交通局のように印のような字体で朱文字で書いたらどうだろうか。

 一度機械生産に乗せたら大量生産できるので、「七尾城史資料館」だけでは売り上げが心許ないので、「能登食祭市場」や「JR七尾駅」や「和倉温泉の土産屋」まで販路を広げると、それなりの売り上げが期待でき、大量生産=価格の低下が期待できる。この通行手形が一枚300円ほどなら、売り上げも期待できるのではないだろうか。

 今後も七尾城や能登地域のお土産物やイベントなどの提案・提言を考えていきたいと思います。よかったらご意見ください。

七尾城の復元について思うコト

2009-08-17 21:33:00 | 政治・経済
 私はこの夏に栃木県宇都宮市の宇都宮城(近世平城)と愛知県豊田市の足助城(中性山城)と復元城郭を見てきた。宇都宮城は堀・土塁・2つの櫓の復元で合計36億円の費用がかかった(宇都宮市の負担は9億円)。足助城は全部で5億円の費用だそうだ。
 近世城郭を復原しようと思えば、宇都宮城のように多大な予算がかかる。さらに、現在もっとも復元に力を入れている近世城郭の熊本城は復元・整備計画に90億円を見込んでいる。しかし、内訳をみると、現在復元工事中の「本丸御殿大広間」こそ54億円という途方もない数字であるが、外観復元のみの二層櫓である「未申櫓」は3億円、一層櫓である元太鼓櫓は2億3千万円とそこそこである。復元に関するほかの城の費用を調べると、延岡城(近世城郭)の大手門の復元には1億円、土浦城(近世城郭)の塀の復元は49mで1900万という。装飾が華美な近世城郭でも櫓や門、塀ならそこそこの費用で復元できる。
 七尾城も畠山氏時代の中世城郭なら費用もそれほど多くかからないのではないか。例えば、中世山城である足助城は、二層の高櫓や復元建物を数棟建てても全体で費用は5億円である。七尾城のこれからの発掘調査で、どんな結果がでるかわからないが、例えば足助城と同じように城壁を木柵で作るとするなら費用も格段に安く抑えられるはずである。これらのことを考えれば、七尾城でも、それこそ調度丸~遊佐屋敷~本丸くらいの復元であれば、費用も15億円程度に抑えられるのではないか(城域の広さをみて足助城の3倍として計算してみた)。さらに七尾城は国指定史跡なので、国からの援助も仮に期待できるとして、費用負担額を熊本城を例に計算してみよう。

・熊本城本丸御殿大広間の復元総費用 54億円
・市民らの寄付金総額 約12.5億円(27000件あまり)
・市民債の発行 19億円
・まちづくり交付金 18億円
・文化庁からの獲得予算 10億円

 ということを考えると、おおよそ国からの補助は50%となる。仮に七尾城の復元費用を15億円とすると、七尾市民からの寄付金+市民債の発行で7.5億円を確保することになる。七尾市の平成20年度予算の歳入総合はおよそ250億円ほどなので、市民の理解が得られて、寄付金が集まることを前提にすれば無理な金額ではない。しかし、これは復元費用だけの計算であり、七尾城の城域は現在ほとんどが民有地であり、これを公有化しなければ復元ができないことは言うまでもない。その取得費用を考えると(と言っても復元しない地域は無理に公有化をしなければいいのであるが)、もう少し費用は増えることになる。仮にまったくの推測として土地代を約2.5億とすれば、復元費用の市負担額は約10億円となる。

 しかし、もうひとつ問題がある。七尾城は1934(昭和9)年に早々と国指定史跡に指定されながら、なぜ今まで発掘調査が行われてこなかったのか?この一市民である私の素朴な疑問は七尾市議会にも届いていた。
 ある七尾市議のひとりが七尾城の整備活用に関する質問をしたのだが、これに対する武元七尾市長はこのような答弁をしている。

 「(七尾市内には)国の史跡指定がたくさんある中で、どれもこれも早く整備をしなきゃならないという状況であります。(中略)加えて七尾城なり万行の遺跡を考えた場合に、非常に膨大な作業といいますか予算といいますか、そういった状況でありますので、本当に七尾城のことにつきましても努力いたしているわけでございますが、非常に難しい状況であります。そういう状況の中で、幸いにも七尾城は発掘はしなくても現状のままでも多くの皆さんに来ていただけるという、そういうことでありますので、先ほどのお話にありましたように日本百名城に指定をされたことを機会に、さらに七尾城を全国発信していかなきゃならないというふうに思っております。」
と述べている。

 素直に答弁を解釈すれば「七尾城の活用を図っていきたい」という風に聞こえるが、穿った見方をすれば「現状でも七尾城は観光客が来るので、それほど大規模な発掘調査などは後回しでもよい」というように聞こえる。実際、「七尾城の保存・整備計画書」の作成も七尾城域(七尾城下町地域)を通過する能越自動車道が完成するまでは取り掛かれないとしているのは、後回しでよいという、見方の徴証とも言える。一刻も早い七尾城の復元・整備が進むことを望む。


足助城探訪記

2009-08-16 16:07:00 | 歴史


 今日は、「元祖中世復元史跡・足助城」に訪城したので紹介します。
 足助城は愛知県豊田市足助(旧・足助町)の真弓山に築かれた連郭式の山城です。鎌倉時代に足助氏が居城したと伝えられていますが、発掘調査では15世紀以降のものしか見つかっていないとこのこと。
 室町戦国時代には、鈴木氏が在城したことが知られる豪族でした。三河の大名・松平氏(後の徳川氏)相手に半独立の立場で、離反・従属を繰り返しますが、徳川家康が豊臣秀吉の関東入国指令で三河を去ると、鈴木氏も一緒に移動したようで、足助城も廃城となります。
 足助城は、比較的尾張に近いところに位置したため、今川時代には尾張攻略・三河防衛の要所であると言えます。それゆえ、松平氏に離反・従属をする駆け引きが盛んだったと考えられます。鈴木氏という豪族が在住していたことで、武田氏の遠江攻略の出城としての役割だった・高根城とは違って、足助城は建物の遺構も多く存在するようです。

 本丸や西の丸など郭の遺構は発掘調査で数多く発見されました。


 足助城は有料の城址公園になっており、入園するのに300円必要です(公開時間:9時~4時半、休園日:年末年始)。その際、竹下登首相(当時)が行った政策「ふるさと創生1億円」事業をきっかけに、1989(平成元)年に旧・足助町の町制100周年記念事業として足助城の本格的発掘調査・復元に着手したとされます。復元費用にはふるさと創生の1億円の他、町の予算として4億円かかり、合計5億円だったと足助城の職員の方が教えてくれました(5億円でここまで復元できるなら七尾城もやってくれ~)。1993(平成5)年に復元整備が完了し城址公園としてオープンし、全国で最も早い「中世復元城郭」となるモデルケースとなりました。


 足助城の入口をすぎてしばらくすると、この写真の光景。我が正室が「お~!これは歴史に興味のない私でも、結構すごいとおもうわ。」と嬉しいような嬉しくないような言葉を頂きました。ともあれ、中世の城郭を味わうには十分の雰囲気を感じます。まあ、見るだけですごい段差です。ただ本格的な山城のため、荒砥城(長野県千曲市)などに比べると、若干道が歩きにくいので小さなお子様連れには最新の注意が必要です。危そうな坂などでは、まだ幼い我が嫡男・と娘には必ず大人と手を繋がせました。


 足助城の入口から順路は左手に進みます。すると、南の丸腰曲輪につきますが、写真のような大きな石があります。曲輪自体は小さく、とても大きな建物を建てるスペースはありません。この大きな石は、防衛城のために設置されたのか、山城を支えるために抜かなかったのか(あるいは構造上抜けなかったのか)、説明がないので定かではありません。ちょっと不思議。


 南の丸腰曲輪をさらに進むと、井戸の看板が。「特に井戸らしいものはないよ…」と思ったのも当然で、斜面から湧き出る水を溜める井戸だったようで、縄を使ったツルベもなく、柄杓で水をすくったそうです。この写真のように斜面の道は少し歩くには危険なので、幼児などには最新の注意を。


 さて斜面を登って西の丸腰曲輪へ。ここには写真右上に見えるように「西物見台」があります。


 この西の丸には、西物見台の他に建物が1棟以上あったことが発掘調査でわかっているそうです。実際、曲輪の斜面に近いところに大きな礎石を発見。そこそこ大きな曲輪だけに大きな建物が建っていたのかもしれません。ちょっとした疑問は、普通斜面に近いほうに物見台ってつくりませんか?なぜか曲輪の「内陸部」に西物見台があるのはなぜだろうかと思ったりします。その疑問は物見台の説明看板が解決してくれました。
おこし・過疎化対策の進展が望まれる。

 「2層にしたのは間近まで他の建物が建てられたためでしょう」。なるほど、斜面の付近なら1層(1階建て)でもOKですが。斜面の近くに建物が建てられていたために2層の建物にして物見台としての役割を果たしたわけですね。奥が深い。
 それにしても、公園を取り巻く木柵が赴きありますね。やはり中世の山城は木柵でなくちゃ!


 西の丸を出て、南の丸腰曲輪へ向かいます。最初に通った南の丸腰曲輪のちょうど上になります。ここは曲輪に入る前にもう私は興奮状態!簡易の冠木門になにやら格子状の戸がついている!説明板によると、これは「はねあげ戸」というそうで、鎌倉・室町期によくみられるものです。「一遍上人絵巻」などにも描かれているそうです。このはねあげ戸がここから出土したのかは記述がありませんでした。それが知りたかったぁ…。


 南の丸腰曲輪には、カマド小屋が推定復元されています。この場所には、木の燃えカスや炭・灰が出土し、調理のためのカマドがあったのではないかと思われるからとか。中世の台所!そしてこの曲輪には

 厨(くりや)が復元して建てられています。厨とは「食事の準備をするところ」です。

 建物内には囲炉裏もあり、なにやら汁物系の料理をしている様子を再現。かなり建物が大きいので厨の役割だけでなく、人が寝泊りするのも十分なスペースです。この曲輪にはもう1つ復元建物があるほど大きな曲輪です。

 復元史跡ですが、ここは現代の公園でもあります。当然清掃用具などもあるわけで、それをマジマジトとみてしまうと歴史好きとしては凹んでしまいます。この建物では、清掃用具をこのように、戦国時代の木の盾で覆い隠す工夫をしていました。こういうちょっとした工夫が嬉しいです。


 さて、南の丸腰曲輪を出て、南物見台へ。カマド小屋のすぐ上にあります。かなり高台にあるのでそれほど大きな矢倉を建てなくても十分周囲を見渡せます。南に鶏足城があるので、そちらへの連絡を兼ねた矢倉かと言われています。
 この南物見台から先ほどの囲炉裏の建物があった曲輪がよく見渡せます。

 復元建物は「石置き屋根」になっています。発掘調査で柱列に沿って多くの石が出土したため、「石置き屋根」の石が落ちたのでは?と思われて復元されたそうです。こういうところも忠実に再現していあるのもステキですね。


 いよいよ本丸曲輪へ。ここには高櫓と長屋があります。

 ここには、足助城の全体図があります。これを見ると本丸曲輪は先ほどのカマド小屋があった南の丸曲輪に比べると狭い気がします。本丸曲輪は居住スペースではなく、戦時の最終拠点というところでしょうか。長屋は写真で見ての通り、縦に長く横に短い作りです。使用用途は不明だそうですが、識者は武者溜りとしたか武器庫か?と見ているそうです。


 中世の山城に天守閣が?ここまで来てたんなるシンボルとして作成したの?なんて考えは無用やでした。これも発掘調査に基づくちゃんとした復元なんです。

 けっこう広いですね。居間(上段の謁見室のようなもの)・広間(評定などを行う部屋)・土間(台所?)・厠(トイレ)などがあり、城主の居住スペースとしては十分ですね。

 高櫓には厠(トイレ)があります。越前朝倉氏一乗谷史跡と同じく金隠しも再現されています。発掘調査で発見されたのかな?

 高櫓の2階からの景色は素晴らしい。足助の町がよく見渡せます。確かに防衛拠点に適しているところです。

 この高櫓には足助城の職員の方が常駐しており、いろいろと説明してくれます。そこで、何を思ったのか職員の方がいきなり2階の壁を壊し始めた…ならぬ取り外し始めた!

 戦争で追い込まれたときに武者隠しとして使ったもの、と職員の方は説明してくれました。天守閣のような高櫓に武者隠しなど、足助城はなんだか近世城郭のような雰囲気を醸し出していますね。というより、戦国期くらいから近世のこのような特徴が見られ始めていたのかもしませんね。


 足助城城址公園には、1つ1つの説明板のほかには出土品を展示する資料館のような施設がありません。荒砥城(長野県千曲市)や湯築城(愛媛県松山市)は復元建物のひとつを展示施設にしていたのですが、そういう展示方法も1つの方法だと思います。また、越前朝倉氏一乗谷史跡(福井県福井市)や飛山城(栃木県宇都宮市)のように史跡の麓に資料館を作るという手もあります。足助にも資料館はあるのですが、城からは結構はなれた場所にあり、しかも周辺の道がすごく細い道うえに案内表示が全くないという状況。およそカーナビがなければ到達できないところにあります。

 小さい町の資料館にしてはなかなか趣のある建物だなぁ、と思っていたら、1923(大正12)年に建てられた蚕業取締所足助支所として建てられたとのこと。蚕といえば戦前日本の輸出商品の主力。だからこそ、気合の入った建物が建てられたというわけか。それにしてもおよそ90年前の建物とは…この建物に歴史を感じられる、というか、最近の建物に趣がないとも言える。


 足助資料館は、足助城の展示だけでなく旧・足助町の歴史全体を展示している。足助城的見どころはまず「足助城の模型」でしょう。城の全体を大観するにはちょうどいい。また、高櫓や西の丸などの発掘調査・復元した経緯ついて説明した展示パネルがある。

 また、足助城の発掘調査で出土したものもここに展示されている。残念だったのは、足助城の発掘調査報告書はおろか、展示パネルの解説書なども販売してない。足助城に関する書籍は一切置いてないというのはガッカリ…。


 足助城は中世復元山城としてはかなりの規模を誇ると思います。予算の都合もあるのか発掘調査で発見されたすべての建物を復元することはできませんでしたが、それでも中世山城の景色は十分再現されています。しかし、残念なことに私たち家族の他に見物に訪れる人はいませんでした(平日ということもありますが、お盆の最中だからもっと人がいても良いと思うのですが)。城と言えばまず近世の天守閣というイメージを覆すための重要なお城であるといえます。しかし、それに比べて発掘調査報告書などの書籍もなく足助城を詳しく調べようと思って訪れた人には物足りなさを感じるかもしれない。また、広報不足は否めず足助城の交通案内看板も多くはありませんでした。また公式ホームページも情報不足で、もっと積極的にアピールしてほしいなと思います。なぜアピール不足になるのかと考えると、平成の大合併が影響しているのではと思います。足助城を復元した旧・足助町は豊田市に吸収合併された。豊田市にとっては足助町は辺境に位置し、それほどお金をかける対象ではなくなってしまうのではないか。市議会議員も旧・足助町からは何人が輩出されているのだろうか疑問だ。平成の大合併で得をするのは吸収した市側の方で、吸収された町側は過疎がさらに進行するマズイ状況。日本の行政はこのままで本当にいいのだろうか。


 足助城からの帰り、偶然廃線跡を見つけ、鉄道マニアとしての私の血が騒いだので寄る事に。偶然写真を撮るために車を止めた場所が旧・西中金駅だった。ここを走っていたのは名鉄三河線という路線で、レールバスが2004(平成16)年まで走っていたという。地方の過疎化は進行する一方。町おこしの起爆剤として行った足助城の復元も、豊田市の広報不足で客数はいまいち。能登の状況もこのままでは同じだ!地域が主体となる町おこしが望まれる。


宇都宮へ日帰りの旅(後編)

2009-08-15 16:40:00 | 歴史
 では、私の宇都宮へ日帰りの旅の後編。宇都宮氏の重臣・芳賀氏の居城・飛山城は宇都宮市にある。宇都宮と言えば、やはり「宇都宮城」。飛山城からおよそ8kmほどしか離れていないので訪城することに。


私は7・8年前に宇都宮城に行ったことがある。しかし、この時にはお城らしいものは何もなく、僅かにあった本丸跡に清明館という資料館のようなものもあったが、たいした展示もなくガッカリした思い出がある。
 宇都宮城は戊辰戦争の際に土方歳三らが率いる旧幕府軍に攻められ城の大半が焼失したと言われる。さらに明治になると建物の払い下げが行われた。城跡は陸軍の管轄となり国有下されていたため、なんとか開発を免れ土塁や堀などは残っていたが、1889(明治22)年に城跡の払い下げが決定し、どんどん民有地化され、市街地となって1950(昭和30)年ごろには完全に城の遺構は消えたと言う。
 しかし、「宇都宮市のシンボルを」という願いから、2007(平成19)年3月に櫓や堀などを復元し「宇都宮城址公園」としてオープンした。まあ復元したのは近世城郭なのでというので行った見たいと思っていた。
 写真真ん中に小さく見える「P→」の看板。宇都宮城址公園には無料駐車場が5・6台分あるが、宇都宮市役所のすぐ近くということもありいつも満杯らしい。今回も残念ながら満車状態で、仕方なく市役所すぐ横の公営有料駐車場にとめて公園へ。有料公営駐車場のすぐ横がもう城址公園で、すぐにこのような写真の景色が広がる。写真に見える櫓は富士見櫓といって、今回復元された2つの櫓のうちの1つである。

 さて、いよいよ宇都宮城に向かおうとすると、すごい違和感を覚える。

防御拠点であるはずの城の土塁にポッカリ穴が…。というのもこの城址公園を整備するのに、1989(平成元)年から発掘調査が行われていた復元事業。土塁・堀・櫓2つを復元するためにかかった費用は36億円という。2008(平成20)年度の宇都宮市の予算が1659億円であるのでわずか2%ほどになるが、それでも巨額の出費である。そこで、市民から国からの予算を獲得するために、「都市防災公園」(大火の際の避難地)としての機能を持たせるために、大人数が公園に移動できる入口を設けざるを得なかったという事情もある(その結果市の負担は9億円ほどになったという。9億円で復元できるなら、ぜひ七尾城も…)。
 また、宇都宮城は城壁が石垣でなく、土塁という近世平城にしては珍しい、中世平城的な特徴をもっている。しかし、耐久性などの理由で現代の建築基準法などの基準では、復元した土塁には建築物を建てられないという事情があり、復元の担当者も断腸の思いで、コンクリートで基礎を作り、それを土で覆って土塁としたと言う。
その辺の事情が「広報うつのみや」にでている。(下記URL参照)
http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/dbps_data/_material_/localhost/sougouseisaku/kohokocho/kohoshi_koho/2009/02/32-37.pdf
 現代の法令、工法や建築物の安全性、利便性を考えると、こういった「土塁の穴」も仕方ないのかもしれない。


 「土塁の穴」には苦肉の策か、「宇都宮城ものしり館」(入館無料)という展示スペースがある。写真の宇都宮城の模型や、発掘調査の出土品などをみることができる。また、「まちあるき情報館」もあり、宇都宮市の観光情報も知ることができる。


 「宇都宮城ものしり館」から土塁の上にエレベーターで上がることができる。エレベーターは、バリアフリーのためと先述した公園構造上の理由がある。土塁の上からの景色はなかなかよい。また、復元した櫓(富士見櫓と清明櫓)に入ることができるなど、なかなかの配慮がされている。


 上の写真は清明櫓から、宇都宮城の中を撮ったものである。写真奥に見える公園内唯一の建物は「清明館」(入館料無料)といい、復元される前にもあった宇都宮城の展示館である。現在は、宇都宮城関係の展示は「宇都宮城ものしり館」で行っているので、中世・近世の資料は全くなかったのが残念。宇都宮城の復元はまだ途中で、今後も本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元を計画・予定している。さらなる本格的な復元を期待して、その頃にまた訪城したいと思う。


 さて、時刻もそろそろ12時。ご飯時。宇都宮と言えばやはり「餃子」。もちろん、食べてきました。舞茸餃子や激辛餃子など12種類の餃子がひとつになった餃子セット1050円。うまい。

 宇都宮駅西口に移動した「餃子の像」も見てきた。移動の際にうっかりミスで餃子の像が落として割ってしまったそうだが、実際、足元には傷を修復した跡があった。


 さて次は、宇都宮市を離れて30km弱離れている栃木市田村町へ。ここは、下野の国庁があったところで、「下野国庁跡」(「国庁」とは国司の中枢施設で現代で言うところの栃木都なら「知事部局」である)が公園となって前殿が復元され、しかも資料館もあるということで行ってみた。しかし、公園&資料館がなかなか発見できない。カーナビにも載ってなくて、復元もしており資料館があるような大きな公園だろうから栃木市田村町に行けば、なんとかなるだろうと思っていたが、田村町に入ると、大通りではな
くどんどん細い道に入っていく。
">
 道も悪く、スピードを出すとボコボコ音がするので20km/hくらいで進まないと、車軸が痛んじゃいそう…。「本当にここに下野国庁跡の公園があるのか…」と不安になった時に、復元建物らしいものを発見。よかった。駐車場にとめて公園へ。


 公園にはこのような立派な国庁の前殿が復元されている。しかし一方、公園は草ぼうぼうであまり手入れがされていないのが残念。台風9号が接近した直後のため、水もたまっており、歩きずらい。ただ、公園の整備には目を見張るものがある。

例えばコレ。

 何気なく公園に来た人なら単なる公園の植栽関係の施設だと思ってしまうかもしれないが、これは実は下野国庁の脇殿の建物を展示したものである。よく見ると、説明の表示板が写真の左下に見える。おそらく復元整備にかける費用が多額にかかるので、復元は前殿のみとし、東脇殿などほかの建物はこのような展示にしたのであろう。柱の位置などはその場所に建ててあり、本格的な発掘調査などをした苦労の後が知れる。


 写真は下野国庁跡の南門跡あたり。これも単なる植物が植えてあるのではなく、柱跡に沿って植物を植えているので、下野国庁の大きさが体感できるのがうれしい。このように、下野国庁跡は雑草駆除など維持管理でもうちょっとがんばってほしいところがあるにせよ、その発掘調査や以降復元・整備には費用対効果を考えたすばらしい公園であると言える。これはそれほど財源がないような小さい自治体でもできる文化財の管理保存のモデルケースにされてよいほどのものであると思う。


 よ~し、いいもの見せてもらった!宇都宮への旅の最後を締めくくる「下野国庁跡資料館」に行ってみよう。

・・・

ん?建物の中がくらい。

・・・

ん?自動ドアの前に行っても扉が開かない・・・。この自動ドアは人を選ぶのか?

・・・

ん?何々?「休館日は月曜・火曜休み?」なるほどね、今や週休2日の時代だからね。しっかり休まなきゃね。日本人はワーキングアニマルって言われちゃうからね…って!何も一斉に週休2日にするこたぁーねぇだろ(怒)勤務交代制にして開けてくれよ。っていまさら怒っても仕方がないこと。しかしこの「下野国庁跡資料館」はホームページもないし、広報活動が不足に感じる。むぅ、旅の最後の最後で不満タラタラ。みなさんも、こちらの施設に平日に行くときには休館日に注意を!


 下野国庁の全体模型。(こういのが資料館にあったんだろうな。発掘調査で出てきたものが展示されていたっていうし。少なくてもパンフレットはほしかった・・・)なるほど、模型を見ると国庁の全体像がつかめる。復元してあった建物の真ん中の部分は塀がなかったんだけど、私は予算の都合かな?とも思ったのだが、忠実に再現してあるだなと納得。前殿だけに通用口のような役割があったのかもしれない。

 前殿の後ろには正殿があることが確実視されているが、現在は神社が建っており、発掘調査も行われていない状態とのこと。国庁全体の公園化と、広報活動の充実を望むばかりである。

 さて、今回の宇都宮日帰りの旅はこれで終わりですが、もうひとつ、この夏休みに史跡に行ってきました。中世復元城の元祖である愛知県豊田市足助にある「足助城」です。これもブログにアップしたいと思っています。