畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
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大宰府政庁跡

2024-08-16 11:27:47 | 歴史

 今回訪れたのは「大宰府政庁跡」です。こちらも水城跡と同様、国が指定する「特別史跡・大宰府跡」となっている。

 大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、奈良や京都にある大和朝廷が九州に設置した出先機関である。九州は日本では朝鮮や中国にもっとも近く、対外交渉窓口となる。そのため、外交や軍事を担う役所として「大宰府」が置かれた。大宰府は西海道という現在の九州の9ヶ国と3つの島を管轄する施設であり、その政庁がこの福岡県太宰府市に置かれた。

 この政庁は、平城宮のように築地塀(屋根のついた壁)と回廊で囲まれていた。その政庁の南門の礎石も非常に大きく、そのことから門の規模もかなり大きなものだと想定されている。

 この政庁は7世紀後半に建てられ、8世紀初めに礎石建物の政庁が建立されたと言われる。写真でみた礎石は、10世紀後半以降の立て直しによる建物らしい。

 上記写真は、政庁跡の史跡に内にある「大宰府展示館」にある「大宰府政庁跡復元模型」である。手前にあるのが南門でさらに奥へ中門を抜けると玉砂利が敷かれた区画に脇殿が4つある。その奥にあるのが「正殿」でここで政務や儀式が行われた。

 模型で言うと脇殿がある玉砂利の地から正殿を見る北向きの方向である。かなりの広さの敷地であったと思われる。

 脇殿の礎石もかなり大きい。模型にあるようにかなり大きな建物であったと思われる。地方であると行っても、九州全てを束ねる国の直轄機関であり、外国の使節を迎えるためにはかなりの規模の政庁が必要だったのであろう。

 この建物が「大宰府展示館」である。

 大宰府政庁側から南方面に向かってみている視点で模型の写真を撮った。南門の前にも政庁の施設が見られ、その南にあるのが朱雀門。そしてそこから伸びる大きな道路が朱雀大路である。政庁のや諸官司の周りに平城京などの都のように碁盤の目のように整備された条坊制の町区画である。

 大宰府には、歴史書に「天下之一都会」と記されるように、九州・都・海外から人や人物の往来が盛んだった。上記写真は、727(神亀3)年に大友旅人が大宰府長官の「大宰師(だざいのそち)」として赴任された後、730(天平2)年正月13日に自身の邸宅に九州諸国の役人を招いた宴を行った「令和」という元号の由来ともなった「梅花の宴」で読まれた『万葉集』の詩を再現したジオラマだそうだ。

「初春の令月、気淑しく風和ぐ」(あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ の意)

 その宴で振る舞われた食事を再現したのが上記写真である。かなり華やかな大宰府の生活が見て取れるが、663年の白村江の戦いの日本の敗北の後、唐・新羅連合軍に攻め込まれる危険性を考えて大野城や水城やが作られたり、律令制下では、防人(さきもり)と言う九州を守る兵役の義務が行われ、一般の庶民の暮らしはとても悲惨なものだった。その奈良時代の暮らしぶりは「貧窮問答歌」などに枚挙に暇が無いほどである。

 また、1019(寛仁3)年には女真族が壱岐島や九州を襲撃する「刀伊の入寇」があった。対馬と壱岐に50余隻の船団に乗って武装した賊が島に押し寄せ老人や子供は殺し成人を捕らえて拉致し、家を焼き家畜を食べたと言う。当時の大宰師だった藤原隆家は刀伊軍迎撃の総指揮官となり、 九州の豪族らを指揮し、賊を撃退したという。大宰府の報告によれば2週間で364名が殺害され、1300名近くが拉致され、牛馬の被害は380頭に及んだ大きな被害がでた。拉致された日本人は高麗が帰還の斡旋をしたが、その数300名余りだったという。このような対外最前線に至る場所ではかなりの心労が多かったと思われる。そんな数々の悲哀がこの場所であったと思いながら鑑賞していた。

そんな大宰府展示館には、平城宮の遺構展示館にもあったような、大宰府政庁跡の発掘調査遺構をそのままの姿で展示している箇所があった。

官衙(役所)の施設を区切るための溝だと思われているという。このような実際に見られる遺構はとても貴重だ。

さて大宰府政庁を後にして、ここまで来たら是非寄りたいのがこちら。

学問の神様として知られる「大宰府天満宮」である。

この天満宮は、左遷され大宰師として赴任し大宰府で亡くなった菅原道真の廟もあり、現在では学問の神様として祭られている。待たしも学業の御守を購入した。

 この時の本殿は改装中だった。2027(令和9)年が菅原道真公逝去1125年という年であることから、本殿は124年振りの大改修を行っており、写真のような現代的な仮殿が設置されていた。お盆の期間に行ったので非常に人が多かった。大宰府政庁や水城にもこれくらい人が居てくれればなあとも思った。あれだけ素晴らしい展示があるのになぁ。

太宰府天満宮は、テーマカラーがミントグリーンなのか、おみくじや巫女さんの袴もこの色だった。夏らしくて爽やかで、個人的にこの色好きなのだが、おみくじはあまり引く性分ではないのでやらなかった。

 太宰府天満宮の名物は「梅ヶ枝餅」。参道の至るところで販売していた。外の餅がちょっと固めで中は粒あんが入っていた。個人的にすごく好きな味と食感。ここをゆっくり訪れるならこれをお土産にするものいいかも。ただ、店頭で食べると熱々のまま食べれるので、それが一番おいしい食べ方のような気もする。

 大宰府天満宮に行くには、西鉄「大宰府駅」から徒歩6分。参道にたくさんお店があって飽きない。車の場合はコインパーキングがたくさんあるので、駐車に困ることはなさそう。

 ちなみに、大宰府政庁が中世の室町時代にはどうなっていたかどうか・・・。戦国時代好きとしては気になるところ。その答えが『市制30周年記念大宰府人物志』に書いてあった。P.112~113「宗祇が見た戦国時代の大宰府」に、同時代に活躍した連歌師・宗祇が1480(文明12)年に周防の戦国大名だった大内政弘に招かれて山口へ下向した。9月には太宰府天満宮を訪れている。宗祇によると「鳥居より入ると松・杉その他の常緑樹が茂り、池の周りには梅林が広がり、楼門。回廊などがありました。宿坊としえは社家の満盛院と花台坊が確認でき」として賑わっているよう。一方で大宰府政庁は「境内みな秋の野らにて大きなる礎の数を知らず」とあり、現代同様に野原に大きな礎石が確認できる状態となっている様子が見られると言う。



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