2018年11月11日(日)。こたつ城主様(戦国放題こたつ城の管理者様)の提案により実現した歴史サイト運営者のオフ会。参加者は、私・畠山義綱(能登畠山氏七尾の歴史の管理人)と、こたつ城主様とその旦那様、さらに小野寺維道様(新・小野寺盛衰記の管理者様)の4人のオフ会が実現しました。訪問した場所は千葉県野田市の関宿城。その様子を報告します。
集合は、茨城県猿島郡境町の「道の駅さかい」に13:00に待ち合わせ。私は圏央道の五霞ICから向かいました。五霞ICから車で10分ほどの距離でしたが、なんと短い距離で2本の大きな橋を渡ります。1つは江戸川、もう1つは利根川です。大きな川の側ということもあり、見渡す限りとても平坦な土地が続きました。
道の駅に到着しました。駐車場は小さいけれど賑やかな道の駅です。新しいパン屋さんがオープンし、今度はレストランもオープンするということで今後注目の道の駅かもしれません。レストランで合流した私たち4人は(ちなみに私は他のお三方とは初見でした。歴史友達とは不思議なもので、初見でも歴史を介して仲良くなれるのがいいなと思います。)レストランで昼食を食べ、おもむろに関宿城へ出発です。
道の駅の出口の交差点に大きなドンキホーテがありました。
川の側だから、土地が平坦で住宅も建てずらいので、大規模な土地が確保できる。なかなか見る目がありますね。古来からそういう土地は交通の要所になるんですよね。まさにこれから行く関宿城もそんな城の1つでした。
関宿城は千葉県野田市なのですが、先ほどいた「道の駅さかい」は茨城県猿島郡境町。ここから車で15分くらいの距離に逆井城があります(詳しくは「逆井城」の項を参照)。その時に関宿城も行こうかどうか迷ったのですが、辞めた経緯があります。それがこちら。
近世城郭っぽい博物館の外観・・・ということで足が遠のいていたのでした。この模擬天守。江戸城の富士見櫓にそっくり、私は当初単なる流行の模擬天守と思っていたのですが、1671(寛文)11年、関宿藩12代藩主久世広之(老中)の時、天守閣破損のため江戸城富士見櫓を模して御三階櫓を再建しているという歴史を再現して博物館を作ったのだと分かりました。そういう歴史を聞くと、なんだか納得します。単なる私の食わず嫌いだったのですね。しかし歴史オフ会の開催場所となれば、自分が行ったことない場所の方が勉強になるので、結果オーライなのかもしれません。
県立関宿城博物館、関宿にこにこ水辺公園に到着しました。
博物館と水辺公園の案内図です。
周りは平坦な土地なのですが、急に博物館のある場所だけ高台になって、土手として続いています。「土塁?それとも川の堤防?」と4人で考えていました。
博物館の近くに江戸川にかかる大きな橋があり、川原にある大きな公園である中の島公園に行けるようです。
位置関係はこんな感じです。博物館は関宿城の跡地に立っているわけではないと、こたつ城主様がおっしゃっていましたが、まさしくこの地図でもそう書かれています。城跡には何かあるのでしょうか?
ではいよいよ千葉県立関宿城博物館に入ります。まさに近世城郭の出で立ちですね。
博物館の入口の前に「蛇籠」が屋外展示してあります。河川改修などの時に使うものだそうです。江戸時代からこんな大きな籠に石を入れて作業していたなんて、なかなか大規模ですね。
博物館の全景模型です。土手にあるので長細いです。
江戸時代の関宿城の模型です。やはり古河城のように天然の川を堀として使用して作られた城のようです。ということは、古河城のように水害に苦労したのではないのかな?なんて4人で話していました。私とこたつ城主様は模型にあった「鬼門除け稲荷」というものが気になりました。天守に登ったときにでも探そうかな・・・。本丸跡と博物館の位置関係もこれで分かったので、あとで本丸跡地にも訪れようという話になりました。
模擬天守のような場所に登って周辺を見てみました。やはり見渡す限り平坦です。しかし、鬼門除け稲荷はみつけられず・・・。こたつ城主様とがっかり・・・。後日調べたところ、「関宿城の鬼門の方角(北東)にあたり、寛文9年(1669)に建立されたものと言われています。明治の廃城の頃に関宿城天守閣脇にあった稲荷を移築したものと思われます。」とありました。しっかり稲荷も残っているようなのですが・・・どこだったのでしょうね?行きたかった・・・。
館内の展示の写真を掲載する訳には著作権の関係でできません。展示は大方が河川改修についてでした。江戸時代に幕府が利根川を江戸湾に注ぐルートから太平洋に注ぐルートに変更したことは知られていますが、こんなに大規模だったのかとまざまざと見せつけられました。水運は中世と大いに関係があるので、江戸時代の展示でも4人で見入ってしまいかなり時間がかかってしまいました。
中世に関する展示も少しありました。関東の中心に位置し、大きな河川が交差する関宿は交通の要所であると共に軍事的な拠点であったと思われます。1455(康正元)年に梁田持助が関宿に配置されると、梁田氏は古河公方足利氏の筆頭家臣として頭角を現します。1457(長禄元)年ヵに梁田成助が関宿城を築城し、その後も古河公方と対立・同盟・服属を繰り返し渡り合っていきました。1510(永正10)年には足利高基が関宿城に移座したり、1558(永禄元)年には北条氏康が、古河公方・足利義氏の本拠地として関宿城を宛て、古河城を他の者に与えようとしてトラブルにもなっています。室町時代の関東の情勢は、鎌倉公方・古河公方・小弓公方・関東管領などの対立もあって本当にその背後関係を理解するのが難しいです。
しかし、こうやって現地を訪れると分かることがあり、頭の中も整理させるようです。やはり頭で考えるばかりでなく、フィールドワークも重要ですね。
思いの他、博物館の展示を見るのに時間を取ってしまった4人。時間があったら公園内の変な動物の銅像でも見ようと話していたこたつ城主様でしたが、そんな時間もなくなってしまいます。秋の日没は早い。タイミングも悪く売店も丁度閉店時間。鬼門除け稲荷を探す時間もなさそう。そこで、話し合って関宿城の本丸跡らしいところに行くことに。
博物館の南に土手沿いに進んで行くと、それらしい森が見えてきました。広い郭と土手よりは低いが、周辺の土地よりは高い。おそらくこれが本丸跡に違いない!そこに近づいてみましょう。
草がボウボウですが、広さは結構あります。と言っても中世ならこの広さでも良いかもしれませんが、近世城郭なら狭そう。
おっ!なにやら奥に看板が見えます。行ってみましょう!
看板には「水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから『この城を手に入れるのは一国を得るのと同じ』」と書かれていました。
さらに奥には公園の入口と思われる場所に、「関宿城址」の石碑が建っていました。これで本丸確定ですね。
この郭は周囲より土塁で盛土されています。ここから見た博物館の位置関係がこの写真。
この本丸より博物館の方が高い位置にあります。これで博物館の高さは川の堤防としての土手として近年に盛土されたのが確定されました。博物館の駐車場に戻る際、津波待避所と書いてある看板を見つけました。周囲が平坦な土地なので、高めに盛土して、ついでに博物館を建てたのであろうと私達は結論づけました。なので、本丸にしては狭い面積は、土手を作る際にかなりの面積が失われたものと思われます。
ちなみに茨城県坂東市にある逆井城には、関宿城の城門が移築されていました。江戸時代のものですからやはりりっぱなものです。でも・・・やはり関宿城に戻してくれないかな・・・とおもっちゃいます。
さて日没まであと少し。こたつ城主様が足利晴氏の墓がある宗英寺に行こう!とお誘いが。
博物館から車で10分ほどの場所にあります。
こたつ城主様がこのお寺で感動していたのが、この生け垣の高さ。他にも同じような高い生け垣の寺があると言っておりました。
これが足利晴氏の墓?説明文がないのでなんとも言えませんが、歴史好き4人が、中世の五輪塔の大きさから見てもこれが足利晴氏の墓なのでは?と一致。墓があったからこのお寺が建った?それとも墓をこの寺に移した?それは謎のままでした。
帰りは道の駅「五霞」でコーヒーを飲んで解散。夕食のレストランも17:00で終了。道の駅は営業終了が早い。たっぷり楽しんだ5時間を過ごして終わった歴史サイト運営者4人でのオフ会でした。