畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

関宿城訪問記

2018-11-26 04:44:00 | 歴史

 2018年11月11日(日)。こたつ城主様(戦国放題こたつ城の管理者様)の提案により実現した歴史サイト運営者のオフ会。参加者は、私・畠山義綱(能登畠山氏七尾の歴史の管理人)と、こたつ城主様とその旦那様、さらに小野寺維道様(新・小野寺盛衰記の管理者様)の4人のオフ会が実現しました。訪問した場所は千葉県野田市の関宿城。その様子を報告します。

 集合は、茨城県猿島郡境町の「道の駅さかい」に13:00に待ち合わせ。私は圏央道の五霞ICから向かいました。五霞ICから車で10分ほどの距離でしたが、なんと短い距離で2本の大きな橋を渡ります。1つは江戸川、もう1つは利根川です。大きな川の側ということもあり、見渡す限りとても平坦な土地が続きました。



 道の駅に到着しました。駐車場は小さいけれど賑やかな道の駅です。新しいパン屋さんがオープンし、今度はレストランもオープンするということで今後注目の道の駅かもしれません。レストランで合流した私たち4人は(ちなみに私は他のお三方とは初見でした。歴史友達とは不思議なもので、初見でも歴史を介して仲良くなれるのがいいなと思います。)レストランで昼食を食べ、おもむろに関宿城へ出発です。

道の駅の出口の交差点に大きなドンキホーテがありました。

川の側だから、土地が平坦で住宅も建てずらいので、大規模な土地が確保できる。なかなか見る目がありますね。古来からそういう土地は交通の要所になるんですよね。まさにこれから行く関宿城もそんな城の1つでした。


関宿城は千葉県野田市なのですが、先ほどいた「道の駅さかい」は茨城県猿島郡境町。ここから車で15分くらいの距離に逆井城があります(詳しくは「逆井城」の項を参照)。その時に関宿城も行こうかどうか迷ったのですが、辞めた経緯があります。それがこちら。



近世城郭っぽい博物館の外観・・・ということで足が遠のいていたのでした。この模擬天守。江戸城の富士見櫓にそっくり、私は当初単なる流行の模擬天守と思っていたのですが、1671(寛文)11年、関宿藩12代藩主久世広之(老中)の時、天守閣破損のため江戸城富士見櫓を模して御三階櫓を再建しているという歴史を再現して博物館を作ったのだと分かりました。そういう歴史を聞くと、なんだか納得します。単なる私の食わず嫌いだったのですね。しかし歴史オフ会の開催場所となれば、自分が行ったことない場所の方が勉強になるので、結果オーライなのかもしれません。



県立関宿城博物館、関宿にこにこ水辺公園に到着しました。

博物館と水辺公園の案内図です。

 周りは平坦な土地なのですが、急に博物館のある場所だけ高台になって、土手として続いています。「土塁?それとも川の堤防?」と4人で考えていました。

 博物館の近くに江戸川にかかる大きな橋があり、川原にある大きな公園である中の島公園に行けるようです。

 位置関係はこんな感じです。博物館は関宿城の跡地に立っているわけではないと、こたつ城主様がおっしゃっていましたが、まさしくこの地図でもそう書かれています。城跡には何かあるのでしょうか?



ではいよいよ千葉県立関宿城博物館に入ります。まさに近世城郭の出で立ちですね。


 博物館の入口の前に「蛇籠」が屋外展示してあります。河川改修などの時に使うものだそうです。江戸時代からこんな大きな籠に石を入れて作業していたなんて、なかなか大規模ですね。


博物館の全景模型です。土手にあるので長細いです。


 江戸時代の関宿城の模型です。やはり古河城のように天然の川を堀として使用して作られた城のようです。ということは、古河城のように水害に苦労したのではないのかな?なんて4人で話していました。私とこたつ城主様は模型にあった「鬼門除け稲荷」というものが気になりました。天守に登ったときにでも探そうかな・・・。本丸跡と博物館の位置関係もこれで分かったので、あとで本丸跡地にも訪れようという話になりました。



 模擬天守のような場所に登って周辺を見てみました。やはり見渡す限り平坦です。しかし、鬼門除け稲荷はみつけられず・・・。こたつ城主様とがっかり・・・。後日調べたところ、「関宿城の鬼門の方角(北東)にあたり、寛文9年(1669)に建立されたものと言われています。明治の廃城の頃に関宿城天守閣脇にあった稲荷を移築したものと思われます。」とありました。しっかり稲荷も残っているようなのですが・・・どこだったのでしょうね?行きたかった・・・。


 館内の展示の写真を掲載する訳には著作権の関係でできません。展示は大方が河川改修についてでした。江戸時代に幕府が利根川を江戸湾に注ぐルートから太平洋に注ぐルートに変更したことは知られていますが、こんなに大規模だったのかとまざまざと見せつけられました。水運は中世と大いに関係があるので、江戸時代の展示でも4人で見入ってしまいかなり時間がかかってしまいました。

 中世に関する展示も少しありました。関東の中心に位置し、大きな河川が交差する関宿は交通の要所であると共に軍事的な拠点であったと思われます。1455(康正元)年に梁田持助が関宿に配置されると、梁田氏は古河公方足利氏の筆頭家臣として頭角を現します。1457(長禄元)年ヵに梁田成助が関宿城を築城し、その後も古河公方と対立・同盟・服属を繰り返し渡り合っていきました。1510(永正10)年には足利高基が関宿城に移座したり、1558(永禄元)年には北条氏康が、古河公方・足利義氏の本拠地として関宿城を宛て、古河城を他の者に与えようとしてトラブルにもなっています。室町時代の関東の情勢は、鎌倉公方・古河公方・小弓公方・関東管領などの対立もあって本当にその背後関係を理解するのが難しいです。
 しかし、こうやって現地を訪れると分かることがあり、頭の中も整理させるようです。やはり頭で考えるばかりでなく、フィールドワークも重要ですね。



 思いの他、博物館の展示を見るのに時間を取ってしまった4人。時間があったら公園内の変な動物の銅像でも見ようと話していたこたつ城主様でしたが、そんな時間もなくなってしまいます。秋の日没は早い。タイミングも悪く売店も丁度閉店時間。鬼門除け稲荷を探す時間もなさそう。そこで、話し合って関宿城の本丸跡らしいところに行くことに。



博物館の南に土手沿いに進んで行くと、それらしい森が見えてきました。広い郭と土手よりは低いが、周辺の土地よりは高い。おそらくこれが本丸跡に違いない!そこに近づいてみましょう。


 草がボウボウですが、広さは結構あります。と言っても中世ならこの広さでも良いかもしれませんが、近世城郭なら狭そう。


おっ!なにやら奥に看板が見えます。行ってみましょう!

看板には「水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから『この城を手に入れるのは一国を得るのと同じ』」と書かれていました。


さらに奥には公園の入口と思われる場所に、「関宿城址」の石碑が建っていました。これで本丸確定ですね。


この郭は周囲より土塁で盛土されています。ここから見た博物館の位置関係がこの写真。

 この本丸より博物館の方が高い位置にあります。これで博物館の高さは川の堤防としての土手として近年に盛土されたのが確定されました。博物館の駐車場に戻る際、津波待避所と書いてある看板を見つけました。周囲が平坦な土地なので、高めに盛土して、ついでに博物館を建てたのであろうと私達は結論づけました。なので、本丸にしては狭い面積は、土手を作る際にかなりの面積が失われたものと思われます。



 ちなみに茨城県坂東市にある逆井城には、関宿城の城門が移築されていました。江戸時代のものですからやはりりっぱなものです。でも・・・やはり関宿城に戻してくれないかな・・・とおもっちゃいます。


さて日没まであと少し。こたつ城主様が足利晴氏の墓がある宗英寺に行こう!とお誘いが。

博物館から車で10分ほどの場所にあります。

こたつ城主様がこのお寺で感動していたのが、この生け垣の高さ。他にも同じような高い生け垣の寺があると言っておりました。

 これが足利晴氏の墓?説明文がないのでなんとも言えませんが、歴史好き4人が、中世の五輪塔の大きさから見てもこれが足利晴氏の墓なのでは?と一致。墓があったからこのお寺が建った?それとも墓をこの寺に移した?それは謎のままでした。



 帰りは道の駅「五霞」でコーヒーを飲んで解散。夕食のレストランも17:00で終了。道の駅は営業終了が早い。たっぷり楽しんだ5時間を過ごして終わった歴史サイト運営者4人でのオフ会でした。


増山城訪問記~その3~

2018-11-25 04:44:00 | 歴史
増山城訪問記~その3~

 前回は、「又兵衛清水」まで行き、石垣をチェックしました。


石垣の東に登った所にある「一ノ丸」に来ました。一ノ丸から見える景色がこちらです。

 ここから増山城の城下町と言われていた場所が見渡せます。一ノ丸という割には大手道からすぐ辿り着けるところにあり、また郭の平地面積も多くない。つまり、一ノ丸とは後世に名付けられたもので、その場所からして本丸ではなかったと考えられる。むしろ、この先に本丸と思われる二ノ丸を守る副郭であったと思われる。


次は一ノ丸から二ノ丸に至る通路を見てもらいたい。

かなりの高低差がある。

その高低差を登っていくと周囲は門跡のような土塁がある。隅櫓のセットになった虎口になっている。

 二ノ丸と言われる郭は、城内の一番高い場所にあり、かなりの平地がある。そしてこの郭を囲むように一ノ丸や三ノ丸があることから、ここが主郭=本丸だと現在は想定されている。


 郭内は広く、ベンチもある。上の写真の左上の部分が盛り上がっているが、これは鐘楼堂跡と言われている。

 時を知らたり、非常時の合図とする鐘を鳴らしたのであろう。もしくはかなりの高い位置にあることから隅櫓のような役割があったのかもしれない。写真では、鐘楼のミニチュアがあり、鳴らすと、とてもカワイイ鐘の音が鳴り響く。

 この鐘楼堂跡から城内最大の高低差の堀切を挟んで安室屋敷(あじちやしき)がある。写真で見ると高低差は伝わり辛いものがあるが、階段がかかっていることにより、その高低差を感じてもらえると思う。私も落ちるのではないかと怖くなった。


 本丸である「二ノ丸」にある神水鉢。その近くにある看板には「自然石に穴をうがった石鉢。旱天期でも水は決してかれることがないといわれている。神保城主はこの水におとす月影で時刻を知ったとされている。」とあるが、Youtubeで春風亭昇太が、どこからの礎石を持ってきたものである。と解説していた。用途はイマイチわからないらしい。


 二ノ丸から南に伸びる尾根を改造したのがこの「無常」と呼ばれる場所。地名の由来は「実城(みじょう)」からとの説がある。名前が物騒なのだが、その割にそれほど広くなく縦に長い出城のような場所。この下の斜面には岩盤を掘込んで作った畝状竪堀群があるというが、それらしきものは木で見えなかった。



 本丸である二ノ丸横通って馬洗池へ行く途中の写真。かなりの高低差でここがかなりの規模の山城であることがわかる。

 ここは二ノ丸鐘楼堂から東に行った場所。馬洗池と呼ばれる場所。看板の後ろが馬洗池である。草が生えていて池になっている様子がわからないが、地面はかなり湿っている。池・・・というほどではないが、豊富な湧水があり、確かに城内の飲料水の確保には適していると思われた。



この両面を斜面で囲まれている場所・・・

 このハシゴのような階段には見覚えが・・・。そう本丸である二ノ丸鐘楼堂から見えた、安室屋敷(あじちやしき)に通じる階段です。戦国時代は二ノ丸から安室屋敷まで木橋でも架けられていたと思いますが、この高低差はなかなか怖いですね。では階段を登ります。


 以外と広い平坦面。ちなみに「安室屋敷」の「安室(あじち)」とは、「家督を嫡子に譲って隠居した人の住居」を意味するらしいです。1570(元亀元)年あたりには神保長職は嫡子の神保長城に家督を譲ったと言われているので、こちらの郭に移ったのでしょうか?増山城は山城と言っても、城下町まで距離が近く、ひょっとしたら本当に隠居した神保長職がいた可能性もあるかもしれません。



 「安室屋敷」を降りて、馬洗池の看板近くまで戻ります。写真右下が馬洗池の看板。左の道に行くと「神保夫人入水井戸」。手前に戻ると「安室屋敷」。そして先に進む土塁の上にあるのが「三ノ丸」。



 三ノ丸は64m×70mとかなりの広さがある。別名「オオヤシキ」とも呼ばれている。きっと「大屋敷」という語源からかなりの兵力で守られた郭なのであろう。二ノ丸と安室屋敷の東側を守る重要な位置にあり、亀山城の方から攻め上がろうとすると、この三ノ丸と安室屋敷の空堀切でかなりの攻撃を食らうことになりそうだ。



 さて次は「神保夫人入水井戸」・・・だが、距離は535m。御所山屋敷→足軽屋敷→長尾山の山頂→池ノ平等屋敷を経て神保夫人入水井戸へと至るが、武藤さんの提案で「かなり遠い距離になるので止めておきましょう」ということに。この写真からだと手前に戻り、本丸(二ノ丸)と安室屋敷を挟む堀切を通り、又兵衛清水付近の石垣を通り、一ノ丸下の場所へ。



 この道は「七曲り」へと続く。最初に私と武藤さんが迷ってたどり着いた入口である。城下町跡からはこの七曲りを通ると増山城へ近道できる。



 この道からは一ノ丸にすぐに行ける階段があるのだが、道が危険であるためという理由で閉鎖されている。高低差はあるがすごい危険だとは思えない。きっと国指定史跡になるにあたり、一般の観光客の道通りを考えてのことだろうか。


 かなりの巨大な山城であり、亀山城までを含んだら見学するのに3時間はかかりそうだ。しかし、私が辿った今回のルートならば1時間半くらいで回れる。
 理想のルートは、「増山城陣屋」でパネルを見学しパンフレットをもらい事前学習し、増山城に登る。そしてその後、砺波市埋蔵文化財センターで深く学習するのがお勧めである。

のと里山里海ミュージアム開館に寄せて

2018-11-24 04:44:00 | 歴史

 2018年は、能登立国1300年。そこで毎年開かれる「能登ふるさと博」ではあるが、今年はかなり力の入っている年となっていた。私にとって一番の魅力は七尾市にオープンする「七尾市立博物館(当時の仮称)」だった。七尾市のホームページで確認すると、「子どもを含む市民の研究活動ほか、各種連携場となり能登・七尾について深く「究める」拠点となります。」(「博物館基本計画」より)とあり、とても期待の持てる博物館が開館すると期待を寄せた。


 そして、2018(平成30)年10月28日に「七尾市博物館」は「のと里山里海ミュージアム」という制式名称でオープンする運びとなった。私もこの博物館のオープンをきっかけに3年振り8度目の能登七尾への旅行を決める。



 場所はもう8度目なので、地図なしでもわかる。能登国分寺公園の隣にできているので場所もわかりやすい。この公園は県営ということなので、石川県が後押ししてくれたと言える。



 地図をご覧頂きたい。今までの公園の2倍ほどの面積になった。ただ名前がめんどくさい。能登国分寺がある公園が、「能登国分寺公園」で、新しいミュージアムがあるほうが、「能登歴史公園(国分寺地区)」。県とかお偉いさんの考えることはよくわからん。


 ただ、この「能登歴史公園(国分寺地区)」。訪れたのが11月4日(日)の午前11時くらいだったが、あまり人がいなかった。歴史公園とはいいつつも、このミュージアム以外の歴史的なものはないからな・・・。あとはこの広大な敷地はスポーツでもするしかない?



 オープンして一週間しか経っていない新品の博物館に入館します。入口には「能登立国1300年 能登ふるさと博」ののぼりが立っています。この建物がその象徴的なものですから気合いも入っているのでしょう。



 早速入館です。入場料は無料です。ありがたい。けど、研究費用「子どもを含む市民の研究活動ほか、各種連携場となり能登・七尾について深く究める拠点」(前述より)はどうやって捻出するのかな?さて写真不可ではありませんでしたが、展示内容は現地で見ていただきたいので、写真はエントランスくらいにしておきます。
 エントランスからは能登の自治体の紹介があり、七尾だけではなく「能登全体」のPRがされています。そのあたりは「七尾市立博物館」という名前ではなくてよかったのかもしれません。
 さらにメインの展示内容は、やはり名前が「里山里海」とあるので、海の幸だったり自然だったりするものがメインです。能登畠山氏関連の展示もありましたが、分量としては少なく感じました。まあ、「七尾城史資料館」もあり重複するので仕方ないと言えば仕方ないのですが。能登畠山氏に関する動画も、畠山義総が終わると、畠山七人衆、そしてすぐに上杉謙信の侵攻です。もうちょっと畠山サイドに立って欲しかったな。

https://noto-museum.jp/
↑いつのまにか公式ホームページができていました。企画展示室やレクリエーションルームがあり、定期的に企画展やワークショップなどのイベントを開催するとのことです。今回図録などはありませんでしたが、できれば定期的に能登歴史を深める研究発表をやってほしいなと思います。私も開催できる位の力があればなぁ・・・。



 休憩室兼学習室には、『新修七尾市史』が全巻揃っていました。私は能登畠山氏に関係する部分はほとんど持っているので、あまり参考にはなりませんでしたが・・・。

 見るのにかかった時間は40分程。まあお手軽に見れると言えばそうなんですが、もうちょっと専門的に見られるものだと良いなあなんて思ったりもします、学芸員なんかもいたのかな?よくわかりませんでしたが・・・今後に期待です。



 ついでといっちゃあ何ですが、8度目の能登国分寺訪問です。

 とりあえず「能登国分寺展示館」行っておくか。どうせ入館料100円だし。ん!?なんか様子が・・・。閉館中?あれ展示替えの為に10月28日まで休みとあるのに・・・今日は11月4日だぞ・・・。ということで、のと里山里海ミュージアムの職員に聞くと、「能登国分寺展示館」は「のと里山里海ミュージアム」の展示に合併されて閉館した、とのこと。まあ確かに展示館にあった実物の舟などもお引っ越ししてたけど、新しく作った公園の看板にも「能登国分寺展示館」と書いてあるのに・・・。こちらはこちらで残しておいて欲しかったな。



 仕方ないので、復元された門をちょっとみて退散。寂しいなあ。


 お昼になったので軽く食べようと旅の同行者の武藤氏はチェーン店の「すしべん」を提案する。チェーン店?と思ったが、羽咋市に本社がある石川県の企業ということでGOする。「すしべん」とは制式には「すし・べんとうのやはた」という。持ち帰り弁当の他、店でも食べれる石川県のではちょっと有名な地元チェーン店だった。今後消費税増税で、持ち帰りは8%税、店内飲食は10%かぁ、とちょっと落ち込んでみる。


さてお腹も満たされたことで、いよいよ七尾城か。何々七尾城へ続く道が土砂崩れで崩落。迂回しなければならない。仕方ないまずは七尾城史資料館へ行って情報をゲットするか・・・。とこれがこの日の良縁を演出した出来事になった。

 七尾城史資料館で何気なく見たポスター。「『七尾城の戦国合戦』なぜ難攻不落の城は誕生したのか」というイベントの情報だ。ん!?日付は・・・11月4日・・・今日だ・・・。時間は13:30から?今の時刻は13:30だ!ヤバいいますぐ行こう!武藤氏が「場所はどこですか?」と聞きますが、「七尾サンライフプラザ」は七尾城史資料館からほど近いことは知っていた。



ということで、車で3分程で同建物に到着。13:45にその石川県埋蔵文化センターの職員である川名俊先生の講演会を聞いた。私は何度かメールで川名先生と文書を交わしたことがある。お会いできるとは嬉しいことだ。



 この日はパソコンの調子が悪く、度々画像が乱れて川名先生も苦笑していたほど。詳しい画像は著作権もあるので、掲載は控えるが、この画像にあるような「畠山義綱の能登入国戦」が語られるなど、私の守備範囲のドストライクな講演会には正直萌え萌えであった。講演会の後の質問コーナーでは結構地元の方がするどい質問をバシバシぶつけ、郷土史に対する地元の愛もあるんだなと思った。講演会後、私も川名先生にご挨拶。名刺交換(と言っても私はプライベートのため名刺を持たず)をしてもらった。
 今回の旅で一番嬉しかった誤算が、この突然参加できた地元の歴史講演会だった。もっとこういう歴史の講演会を聞きたいな・・・と切に思った瞬間だった。



 さて、講演会ですっかり遅くなったが15:30に七尾城史資料館に戻ってくる。そして8度目の入館。ここでは七尾城史文化事業団が刊行している年刊雑誌『七つ尾』を購入。この博物館も写真OKなのだが、個人で楽しむ用としての写真OKであり、掲載はしないでおく。小さな博物館ではあるが、2008年頃から少しずつ展示内容を変えてきている。能越自動車道の建設などもあり、研究に進展があるからであろう。しかし、能越自動車道の七尾城山ICまで開通してしまったので、今後の研究が進むか多少疑問はある。「のと里山里海ミュージアム」に期待しよう。



 そしていよいよ8度目の七尾城。やはり圧巻の調度丸の石垣。2007(平成19)年の能登地震の時に石垣も崩れたが、1年かかって丁寧に修復された。



 七尾城はとくに発掘調査も行われておらず、2008年の能登畠山氏創設600年記念をきっかけに僅かに城内の見学道が整備されたに過ぎない。しかし、2016(平成28)年に「七尾城の復元CG」が七尾市の製作により公開されると、七尾城の案内板にも上記写真のように利用されるようになった。これでそれほど歴史に詳しくない観光客にも七尾城の雄大さをイメージしてもらえると思うとちょっと嬉しい。



 そして能登を訪れると毎回ここに来る。七尾城本丸跡。そして七尾市と七尾湾を一望する。ここに来るとなぜかとてもすがすがしい気持ちになる。高層ビルなどない戦国時代には、本当にこかから見える七尾の街が絶景だったに違いない。



 この日は七尾駅前のホテルアリヴィオに宿泊した。駅近くで建物も部屋も綺麗で、何より無料の朝食がおいしい。

 この日の夕食は、七尾市役所にほど近い「ちゃか寿司」さんでいただいた。新鮮な七尾の海のもの。そして東京から比べると安いしうまい。


 こうして私の能登立国1300年を記念した旅行の1日は終わりを迎える。翌日は、七尾市中島町の熊木城と、志賀町の末吉城(堀松城)へ行く。その様子は、能登の城で見てもらいたい。次に七尾に行くのは何年後か。しかし、そう遠くのことではないと思っている。それは七尾は私の心のふるさとだから。

増山城訪問記~その2~

2018-11-21 18:44:00 | 歴史

増山城訪問記~その2~

前回は、登山口まで行きましたので、その続きです。

登山口の冠木門をくぐり、いよいよ城跡に入ります。

 ここは遊歩道らしいです。この道の良さはよく整備されていますが、近年の整備なんでしょうね。

 この遊歩道から高い所から囲まれており、守備面でも守りやすそうです。この通路か最初に間違えて行った七曲りというルートが「大手道」(一般的な登城ルート)と考えられているようです。この遊歩道では中世の土師器や下駄、漆椀が出土しているらしいです。



 遊歩道の終点に土塁の先に竹柵で区切られた郭がある。F郭と名付けられている。その名称は古地図に地名の記載が無いから、城郭研究家が呼んでいるものに合わせたという。大手道と思われる北側ルート(和田川ダム)からの最初の防御拠点となる。



 このF郭を進もうとすとさらに大きな土塁が立ちはだかる。これは「馬之背ゴ(E郭)」と呼ばれており、北側ルートから来るF郭を見下ろすL字型の郭であることから、それを守護する袴腰や櫓台のようなものかもしれない。発掘調査により、16世紀に郭が拡張されたことがわかっている。



 F郭や馬之背ゴから少し東に戻ると「又兵衛清水」がある。又兵衛が発見した湧き水と言われており、この日も綺麗な湧水が見られた。本丸に近いところでの湧水は、籠城を想定した場合とても大切な場所だと考えられる。



 「又兵衛清水」と一ノ丸の間には2段に渡る石垣のような石が土塁に見える。この写真から壁が人工的に作られたことがわかるが、国指定史跡なのだからもうちょっとキレイに手入れしてくれても・・・とも思う。

その3へ続く

増山城訪問記~その1~

2018-11-20 20:24:00 | 歴史

 今回ご紹介する城跡は富山県砺波市にある増山城。知っていますか?神保長職が富山城から逃れて籠もった城で、1562(永禄5)年から神保長職が、畠山義綱を仲介にして講和し、本拠地としてしていた地でもあります。地味ではありますが、実は2009(平成21)年に国指定史跡となって整備が進みました。そこで今回の訪問となりました。今回も歴友の武藤氏と共に出陣です。



 写真に写る増山大橋を渡り登山口に行きます。この大きな橋は戦国時代の当時からあったわけでなく、和田川ダムができたことによってできた池です。



 地図を見ると、「七曲り」という場所を通って城に入る・・・ハズなのですが、あるはずの駐車場が見当たりません。よく調べてみると、増山城の駐車場は和田川ダムの管理棟がある付近にあるようです。徒歩でなければここには来ないかもしれません。さらに後で知った事なのですが、この橋を渡る前の土地が増山城の城下町だったようです。土塁跡もあったようで、写真を撮っておけばよかった・・・。



国指定史跡となったことで、城跡を訪れるためにわかりやすい駐車場と案内施設ができました。
「増山城陣屋」は8:30~17:00まで開館しており、中には誰もいませんがパンフレットやパネルで増山城のことを学習できます。

 増山城陣屋にあったパネルの1つです。この写真を見ると増山城の全体図がよくわかります。その規模は1000m×900mとかなりの大きさを誇ります。松倉城(魚津市)と守山城(高岡市)と合わせて「越中三大山城」と呼ばれているそうです。

 発掘出土品が砺波市埋蔵文化財センターに展示されているようですが、訪れたこの日は11月5日(月)で月曜日休館でした。残念。



 和田川ダム管理棟を超えて、右手は池、左手はダムのための相当の高低差がある川となっています。そこを過ぎればすぐに増山城の入口です。

現在の位置はここ。

遊歩道を通って城へ向かいますが、さすが国指定史跡(七尾城も国指定史跡なのですが・・・)、こんな粋な計らいの案内があります。

 大喜利の司会でお馴染みの春風亭昇太。実は大の城好きとしても有名で、全国の城イベントなどでも引っ張りだことなっているらしい。その影響は増山城にも届いており、スマホがあれば、Youtubeを使って春風亭昇太の説明を聞きながら訪問することができます。私もその説明を聞きながら登城しましたが、時に片手にスマホを持ちながらだと、危ない箇所もありますので気をつけてください。また、場所によって説明が分かれているのですが、次にどこの説明をされているのかわかり辛いのが難点。城のパンフレットは必須(陣屋にあります)です。ちなみにこんな粋なアナウンスは七尾城にはありません。同じ国指定史跡同士なのに・・・。



続きは~その2~へ